以下は1985年~1986にかけて開拓した「ボレロ」について、Climbing Journal誌の掲載記事から書き起こしたものです。
同誌は廃刊となり、バックナンバーも入手困難なので、こちらに掲載させていただきます。

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手書きの挿絵

2本の新ルート

ボレロ

赤沼正史

西上州に佳き壁あり。吉川栄一氏からきいて心踊るのを覚えた。西上州の岩峰群にはぜひ一度手をつけてみたいと思っていたのだ。ましてや、メンツが我が「同人栗と栗鼠」の面々で、「一発攀って、ひと騒ぎやろーぜ」ということならばもう逃がす手はないというものだ。
さて同人の命運を賭けた大狂宴(マツリ)、否遠征はここに幕を開けた。

かくして登攀は始まる

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毛無岩全景、右が烏帽子直上ルート、左がボレロ

第一次攻撃は総勢7名。吉川栄一、安田秀巳、山田武、板本恵子それにぼくと栗と栗鼠メンバー。客員としてパンチパーマの元気クライマー、クラブ・ポリニエの小林一弘(注:その後メルー峰で遭難死)と、同じく元気山屋の柴原生依さん。1985年11月23日御毛々河原(おけけがわら)に集う。 アプローチはほとんど寝てない体にはきつい急登を含むもので、所要時間は40分〜2時間なり(個人差あり)。

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「へ、楽勝だぜ」「もらい!」とかいいつつ見上げる壁はなかなかの圧巻ではある。やれ「ぼろい」だ「プロテクションがとれない」だ言ってる一方、悩みを知らない小林は「あ、岩登りは危ないよ」の制止を振り切ってさっさと登りだす。下で「ヤベ ーな」とか「死ぬなよ」とかワイワイ言ってる間に小林は「勝負」「セイッ」と元気一杯の孤軍奮闘(クライム)。 小林を確保するぼくのとなりで何か悩んでぶつぶつ言ってるコアラ安田氏に「ちょっと上がって小林を制止してきますわ」かなんか言って登りだすが、そこは現場興奮症の烙印を押されたぼくのこと、まして11月とはいえ快晴無風、Tシャツ一枚の快適な登攀日和。あっさり小林の側に寝返ってルートを伸ばす。結局この日はコアラ氏から借りたボルトまで打ちつくし、4ピッチを登る。あと2〜3ピッチで終わりそうだが、腹が減ったのと眠いのとで、「あとは明日、皆してかたづけるべ」と下りだす。

夜は当然ながら御毛々河原で「完登前祝い」の大宴会。ここは静かで、流木にも恵まれたまことによろしい河原である。思うさま酔う。

しかしながら完登予定の翌24日、酔眠を覚ましたのはテントを叩く雨音だった。若えーもんはさっさとフィックスロープの回収に行き、「年が明けて暖かくなったらもっぺん来るか」なんて、ちょっと悠長なことをつぶやきつつひきあげる。

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2P目のフェース(トラバースバンドの手前)Ⅴ-

1986年 登攀はつづく

何せ忙しい冬だった。あいつぐ忘年会、温泉行、秘かに狙う冬壁の試登、ハイキング、氷瀑登攀、山スキー、ヘリに乗って遭難救助、奈良吉野古寺巡りetc…と無節操にとびまわっているうち、4月の声をきくと誰からともなく毛無岩をかたづけようとの話が高まってきた。
かくして第二次攻撃隊は4月5日、再度御毛々河原に集合した。総勢6名。
吉川、コアラ、山田、ぼくの栗と栗鼠メンバー+山猫より参加の井上博之、小林建也の二氏。 考えることは皆一緒らしく、恩田隊長パーティともこの河原で再会。隊長パーティも独自にルートを作ってるとのこと。
恩田隊長パーティを加えての野宴から第二次攻撃は始まる。

翌6日、攻撃隊はちょっとテレくさい“決意と自信”を背に、やけに冷たい強風の中、岩と再会。これはもうほとんど嵐と言ってよい。
しかし登攀は始まる。ここに我が同人栗と栗鼠の意志の強さが、完膚なきまでに発揮されたわけだ。全員登頂を目ざす今回、6人だらだらとロープにつながって登る。前回小林が“浅打ちボルトのタイオフ”をプロテクションに乗り越えた、ボロいがホールドは細かい“勝負ピッチ”はあまりにも美しい、ということで下降の際ぼくが発見した草付バンドのトラバースで危険部をあっさりと巻く。ここからは雪のちらつくものともせず、フェース、高度感あるトラバースと前回ルートをトレースし、さらにコアラ氏の奮戦で1ピッチルートを延ばしたが、案の定人数が多すぎ、時間切れ、下降。

ルートは終了点まで十数メートルを残すのみ。

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岩峰探しの楽しみなど

ぼくと西上州の岩峰群のつきあいを想いかえせば、オフロードバイクを駆って岩峰群の中をツーリングした昔にまでいたるのか、あるいは毎週のように二子山南面の岩場に通っていたころからと言うべきか。

もとよりぼくには奇岩、奇景の地への憧れが強かった。いくたび訪れたかしれない明星山や海谷の岩場。そしてドロミテやユーゴスラヴィアの石灰岩岩塔群。さらに西上州の今では単なるセメントの材料になってしまった武甲山や叶山牢ロルンゼ…。

たしかに奇岩、奇景の地にはその異質さを包みこむ強い風土があるし、そこは又、よき酒、よき人のあるところでもある。(「西上州に旨い酒なんてねーよ」というコエあり。たしかに旨い地酒と思って呑んだ“百萬弗”は実は京都伏見の酒であった、が、それはともかく)

風土のあわいを巡り、異なる本質を歴訪しながらも、唯一不変の“クライミング”という様式を追求し、それら風土の差異を足蹴にする時、むしろぼくの裡にある「山登る心」(アルピニズム?)は奇岩、奇景の地に棲まう魑魅魍魎と感応し、ひとときその姿を怪しく見せ、またおどろおどろしくも酷悪な混沌の裡に沈んでゆく。

ぼくにとってのアルピニズムは、けだし忌むべき内面の律動であると同時に、対人的価値(ヒロイズム)に容易に回収され得る欲望の交錯体でもある。

西上州と言えば又、かつての天狗の住み処でもあった。水戸藩の尊皇派“天狗党”と、ラーメン屋の親父からきいた話、物語山の壁を蔓草つかんで登り、その蔓を断ち切って追っ手から逃れたという一団は果たして同一なのか。ところで蔓草を切ったあと彼らはどうやって壁を下りたんだろう?
それぞれの岩峰の数ごと、それにまつわる言い伝えを有するここの岩峰群は、人の生活と深くかかわってきた雄弁な歴史の語り手でもあるのだ。

さらに続く毛無岩参り

さてゴールデンウィークの前半、4月27日安田コアラ秀巳氏とぼくは、有明山でのルート開拓から転進、サミット厳戒体制の中、われらがロケット弾搭載車は検問のおまわりをからいつつも、一路毛無岩に向かう。
このいわゆる抜けがけ行為は、雨の御毛々河原二泊(宴会付き)の結果に終わった。この時の毛無岩には、他にも恩田パーティ、雲表パーティ等いたようで、なかなかの賑わいを見せていた。

さらに5月11日。今度こそはの完登を期して、一行五人は壁に向かう。予報では天気悪くないはずだし、昨日の酒も抜けて体調はまずまず。今日こそは完璧に登れるとアプローチを急ぐが、「おい赤沼、これ雨じゃないか」とコアラ氏。ま、まさかと見上げて悲嘆にくれる。「もう4回目やで〜」。どこかにウンチをしに行った吉川氏に我が同人栗と栗鼠の「オオカミが出たぞ」コールをとばす。吉川氏もしゃがんだまま「ヒエーイ」とか……。
この日はフィッツロイのようなミドリ岩南面の見学に行き、コアラ氏は山菜ツミの翁と化してタラの芽を集めた。

毛無岩、未だその登攀を許さず泰然と構う。

“ボレロ” かく攀らる

ぼくらを拒絶しつづける毛無岩はついにコアラを本気にさせてしまった。もろにくらった右フックに霞む目に毛無岩は、しかし今日は優しく微笑みかけているように見えた。どうやら今日はぼくらにとっておきの“幸運のストック”を分けてくれるつもりのようだ。見事に晴れあがった春の空の下、アプローチを急ぐコアラ氏とぼく。山菜とりの翁ことコアラ安田氏はとても張り切っていて、体中に流れる誇り高きヤクート族の血が脈打つのが、時折その挙動にうかがえる。ぼくとて例外ではなく、受け入れる意志を示しつつも恥じらう毛無岩が妙にまぶしい。

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4P目のランペ(Ⅴ)岩は硬くて快適

3ピッチ目のトラバースを終了してバンドに立つと、そこに下降用らしい残置支点があった。ぼくらのルートよりはるかに急な右のフェースを登ってきたもののようだ。「スゲ ーな、こんなとこ登ってんのかよ」「人工で努力したんじゃないの、ほらこの間の連休の時にも」「ヒエ ー、隊長こそこそと結構やってんじゃない」とか会話しつつ4ピッチ目を再登する。ふと下を見ると隊長パーティがかけ離れたヤブの中より姿を見せる。「え、じゃあれ誰が登ったのかな」「雲表じゃない?」「 何を言ってる、雲表は下降しない! 登山規制条例は違憲だ」とかわけのわからないことを言うが、後にこれは隊長関係者の鈴木氏なる人の手になるものだとわかった。

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最終ピッチのジェードルへ入り込む

さて壁の最上部は完璧な垂直壁で、下から双眼鏡で見つけたクラックに唯一フリークライミングの可能性を求める。前回到達点から左方にあるそのクラックを求めてトラバースし、小さなピナクル状を越えると、勘がどんぴしゃにあたってクラックまでバンドが続いている。ボロ岩のアンダークリングでクラックの取付へ。
しかしクラックと思っていたところは少々ぶり気味のジェードル状で、浅いクラックには泥草がつまっている。ここはルート中唯一の人工となる。ボルトと泥の中に打ったアングルハーケンが割と効いて……ちょっとかぶり気味だがホールドの増えたフェースを、ボルト一本根本まで埋めてからフリーで勝負に出ると、いきなり目の前が明るくなった。 5月17日、最後のホールドが山頂だった。

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最終ピッチ(6P目)は人工となる

1986年5月17日完登 完登メンバー:安田秀巳、赤沼正史 (同人栗と栗鼠)

烏帽子岩直上ルート

(同日に登られた恩田隊長らによる烏帽子直上ルートの記事も掲載しておく)

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滝沢孝弘

毛無岩にも通うこと数回となり、手をつけたルートは計三ルートとなった。そのうち完登できたのは一ルートだけで他の二ルートは、核心部と思える上部岩壁を残している。今回はそのうちの岩壁の右端の稜からのルートをねらう。一路、千賀嬢の運転する車は道場の集落へ向かう。 明朝、快晴。絶好の登攀日和だ。登攀開始は結局11時頃になってしまい、今日中の完登も微妙となってきた。5P目までは、前回までに登っているので順調にザイルを延ばす。 1P目、取付から右のフェースを7〜8m登ると左側にフェース、右側にはクラックとなり、クラックにルートをとる。クラックを直上し、出口から右側のフェースに回り込み直上する。右側は深くルンゼが切れこんでいる。ブッシュをこいで枯れかけた白い立木でビレイ。
2P目、ブッシュ帯を登る。時おり、小さなフェース有り。フェースの前の立木でピッチをきる。
3P目、フェースを左に回り込み、クラックをたよりに直上し、ブッシュをこいで行くと手には上部岩壁が見えてくる。コル状となった所でビレイ。
4P目、草付のフェースから小さな凹角を左に回り込み、泥と草付の溝状を直上しバンドを左へトラバース。
5P目、バンドからかぶったフェース(出だしのみ)を人工で直上し、草付のある所から右へ2mトラバースし草付をたよりに直上。やや外傾したテラスとなる。
6P目、クラックぞいに再び人工で直上、バンドへ出たら右へトラバースしピッチをきる。ここが烏帽子岩(仮称)右側の基部となる。次のピッチはフリーで行けそうだ。
7P目、左手の緩傾斜のフェースを左上し、二つ目の凹角(10m位)の下のテラスへ。最初に見える凹角はかなり立っており15m位ありそうだ。
8P目、テラスから2m程直上し右へ回り込み凹角下のレッジに立つ。凹角内のクラックは下部で2〜3㎝、上部では20㎝以上の幅となっている。

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取付前にはフリーで行けそうに見えたところも、実際取付くとかなり困難で、あっさりと人工となる。結局はボルト連打となり凹角の左側を直上し終了。何とこのピッチだけで2時間を費してしまった。ビレイしながら後続の二人を待つ。まさに「終ったァ」という実感がこみあげる。

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最終ピッチ(8P目)の凹角はボルト連打

終了点のすぐ横には縦走路があり、50m位登ると毛無岩のピークとなる。無事の登攀と初登を祝い、三人で握手をかわす。これまでに登った既成ルートとは、一味も二味も違った最高の気分だ。
終了点からアブザイレン6回で基部にもどる。あたりも暗くなり林道の終点のベースに急ぐ。
なお、このルートに限らず、毛無岩は、平気でホールドがガバガバとハガレ落ち、後続となる程ホールドがなくなりますので早いうちの登攀をおすすめ致します。

1986年5月17日完登 メンバー=恩田和義、千賀薫、滝沢孝弘(同人泉山岳会)

注:
ボレロは(2026年現在)まだ第二登がされたという情報はない。
烏帽子直上ルートはある程度クライマーを迎えており、残置されたボルト類を利してフリーで登られるようになっている。(赤沼も後日フリーで登った。)
またこの後2012年に赤沼と小見麻紀子にて烏帽子直上ルート右手のルンゼを登った際、残置ボルト等登られた形跡を見つけている。

ルンゼ状スラブ登攀記