アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

投稿者: gams Page 1 of 9

佐久・天狗山東岩稜

馬越峠から天狗山への登山道の途中に、ちょっとした前衛ピークがある。その南面に3段くらいになったフェースがある。今回は各フェース右側のリッジをつないで登り、東岩稜とした。というか、登ってみたら3段フェースというよりは、普通に岩稜と感じられた。

2023年10月に3段フェースを狙ってここを訪れたが、それぞれのフェース自体は急峻で思ったよりも小ぶりだったため転進して、天狗山ダイレクトに並行するように天狗山山頂に伸びるリッジを登って右壁右稜と名付けた。

さらに2024年4月、今度は各フェースの右側リッジ部分を続けて登って一本のルートとしてみようと再度訪れたが、コンディションが悪く、またまた転進して天狗山南面岩壁群に向かって伸びる岩稜を登り、南稜とした。

さて2024年5月11日、3回目の訪問。ようやく馬越峠への林道の冬期通行止めも解除されたので、馬越峠からのアプローチとした。
昨年10月に来ているのでアクセスはわかっている。
馬越峠からゆっくりと20分も歩けば天狗山の前衛ピーク。南に岩稜が落ちているのがわかる。
その手前から急な樹林を南に下る。右側に見えている岩稜に沿って行けば取付きまでは30分ほど。

パートナーは南稜にご一緒したニコちゃん。私と同年代のおじさん。
仕事を引退して、時折登山ガイドなんかをやっているそうだ。

緩いフェースから登り始め。
急峻なフェースが積み重なっているけど、弱点を選んで登っていけば容易に登れる。
3P目あたりは露出感がでてきて楽しい。
樹林の歩き、ゆるい岩稜、急なフェースなどが交互に出てくる。
岩が乾いていれば快適に高度を稼げる。苔が多いので雨のあとは行きたくない感じ。
やさしいところはどんどんランナウトで。
好きなラインどりで登る。難しくもやさしくも登れる。
垂直部を越えてくるニコちゃん。
6P目の急なスラブ壁が核心。1本だけ残置ハーケンがあった。山岳巡礼倶楽部のわたべ氏が、数10年前このあたりにハーケンを打ったとか言っていたのがこれのことかな?ルート中を通して唯一の人跡。
岩登りらしい楽しいパート。
あっという間に登ってしまった。前衛ピークで記念撮影。

ロープは歩きの部分も含めて全7ピッチだした。ロープをたたんでから1ピッチ分くらい歩いたので、ロープ8本分くらいのスケール。

トラックレコード

行って、見て、登れそうなところを登るという、最近お気に入りの山登りスタイルでした。

アルプス越えの鎌倉街道第二弾–檜峠散策

信州、梓川沿いの山腹を、比較的なだらかな地形を辿りつつ、安房峠付近を越えて飛騨、平湯に至る古道「アルプス越えの鎌倉街道」。3月にその信州側の山道の起点となる祠峠の道を歩いた。(リンク:祠峠に鎌倉街道を想う。)

そして4月20日。今度は乗鞍スカイラインの起点付近(大野川の集落あたり)から沢渡に至る、檜峠の道を散策してきた。

雪道をラッセルして歩いた前回とうってかわり、フキノトウがそこかしこに顔をだす春いっぱいの林道を、残雪の霞沢岳や焼岳を眺めつつののどかな散策となった。

鎌倉街道、鎌倉古道などというといかめしい感じもするが、そもそもここは中世からの生活道路であったと言われる。その昔、山道を歩いて旅することが「最高のレクリエーション」だったのだろうなと想像がふくらむ。
アルプス越えの鎌倉街道の想定ルートを地形図に重ねてみると、等高線のまばらな、要するに緩やかな場所が選ばれていることにも驚かされる。そしてここは今や穂高連峰前衛の、日本を代表する風光明媚な景勝地でもあり、その道中がどれだけレクリエーショナルであったかという想像を楽しみながらの、しかし人けのまったくない静かな散策でもあった。

4月の2日間、山巡の若手女子、真帆ちゃんと八ヶ岳でクライミングを楽しむ予定だったのだが、まさかの寒さと風で転進。1日目は小川山や某秘密の岩場を渡り歩いてフリークライミング修業。でも2日続けて真帆ちゃんのフリースキルについていくのもつらいので、アルプス越えの鎌倉街道踏破を前提とした偵察行を提案。

さて檜峠。
鎌倉街道の推定ルートは祠峠から檜峠へとつづく。祠峠と檜峠の間が、今は乗鞍スカイライン上となる大野川集落。そこから沢渡に至る山道が檜峠の道。そして檜峠から沢渡の間は地図では車の通れる林道のようだ。ここを歩いて峠まで往復してみよう。

沢渡バスターミナルのちょうど向かい側あたりの林道に入る。林道に入った途端、観光バスや車の連なる喧噪を離れ静かな山となる。

林道は奥まで車で入れそうだが、今回はすぐに車を停めて歩いてみることとする。

車を停めた場所から沢渡バスターミナルを見下ろす。
山の向こうにちらっと見える白い山は霞沢岳のようだ。

しばらくは舗装された林道。

ほどなく舗装はなくなり、ダートの林道となる。

焼岳や霞沢岳が樹間に見える。

そこかしこにフキノトウが。あまりにたくさんあるので、今夜食べる分だけいただく。

多くは摘まず、写真を撮る真帆ちゃん。

この先が檜峠。

檜峠に到着。

檜峠から大野川集落方面には登山道らしき踏み跡が伸びている。道は典型的な切り通し(薬研堀)の形状となっている。これぞ鎌倉街道の特徴らしい。

登山道を少しおりたあたりから蛙らしき鳴き声が。行ってみると蛙の大群が沼地に集まり、子作りの真っ最中らしい。

なかなか騒々しい。

林道わきに車を停めての2時間強の散策だったが、残雪の山々を望みつつ、春の気配の感じられるのどかで楽しい一日だった。上高地周辺の喧噪のまっただなかにありながら静かな時間を過ごすことができたのがとても幸せに感じられた。

祠峠に鎌倉街道を想う。

3月14日、祠峠を目指して雪道を歩いてきた。
ここは鎌倉街道の一部らしい。
でも鎌倉街道ってそもそもなによ?
なんで鎌倉から離れたこんな山中に鎌倉街道?
その道どこに向かってて、どう利用されてたの?

いくつものクエスチョンマークで頭がいっぱいになる。

少し調べているうちに、「アルプス越えの鎌倉街道」という本に出会い入手した。
この本を手がかりとして関連資料を乱読、雑読するうちに、自分なりの勝手なイメージができてきた。

  • 「アルプス越えの鎌倉街道」は飛騨側の高山から平湯温泉に至り、安房峠のあたりを越えて信州側の梓川に抜けるものだった。
  • もとは生活道路だったものを、鎌倉街道として整備したらしい。
  • いわゆる平安や奈良時代の古道のような人馬が走り抜ける広く大きな直線道とは違い、山中の踏み跡などを歩きやすくした「切通または薬研堀」という程度の整備だった。
  • 鎌倉時代には蒙古や南朝勢力も含めた日本海側に対する政治的、軍事的境界線としての意味もあったり、宗教的な境界線にもあたる警備上の重要拠点だった。また武田家も木曽攻めの際、この道を利用したとの記述がある。
  • 一方、生活道であった(らしい)この道は、急峻でしかも楽しくない谷間の地形を避け、焼岳や乗鞍岳、あるいは穂高などの展望のよい、比較的なだらかな場所を選んでいるように見える。「道中を楽しむ」という文化に支えられた道であったように思えてならない。合理主義とは違う、道の意味合いに気が付いてから、この道を辿ってみることに俄然興味が湧いてきた。


祠峠は、松本から上高地を目指す途上、奈川渡ダム(梓湖)の西側にある標高1300mほどの峠。この祠峠が「アルプス越えの鎌倉街道」、信州側の山道のはじまりのようだが、「登山口?」の村がダムで水没したのがきっかけで廃道となったようだ。
その昔、峠付近に10戸ほどの集落があったが廃村となり、今は祠だけが残っているという。今でも、廃村マニアや歴史好きハイカーなんかが時折訪れているようだ。

ここを歩いてみたのは、穂高や霞沢岳などに何度も通っていたので、道中の里山を1日歩くのも一興と思ったということもある。時期的に雪山散策となった。
ちなみに、以前南側からここを目指したが、奈川渡ダム建設のために水没した集落周辺の橋と細い林道のアプローチに手間取り、駐車スペースも見いだせずに引き返している。

今回は北側からのアプローチ。乗鞍スカイラインの途上に車を停め、大野川の集落から歩き出す。

全ルートを通して重めの雪に覆われていて、ひざ下から腿くらいのラッセルでの歩きとなった。積雪、風、寒い夜、暖かい日などが続いていて、雪崩が起きやすい状況は予測できたので、樹林遠しに行けなければ引き返すつもりだったが、祠峠までは大丈夫だった。それでもごく小規模な雪崩はそこかしこで起きていた。

歩いたルート
まだまだ雪に覆われた大野川の集落

大野川は「アルプス越えの鎌倉街道」の著者、服部祐雄氏の出生地でもあるらしい。

集落下の川には橋がかかっている。これを渡って行く。
橋から川を見下ろす。
道に沿って電線が伸びているが、折れた電柱もある。もちろん電気は通っていない。
約2時間半で峠に到着。祠が見えてきた。
倒れかけた鳥居
祠の前後になぜか木が。

祠の後ろはともかく、真ん前に立っている気が謎。
樹齢ってよくわからないが、あえて木の真後ろに祠は立てないだろうから、少なくともこの木の樹齢くらいは誰も祠を守ったりはしていなかったってこと?

朽ちた建物の一部?
鳥居側から見た祠
標識があった。
鳥居横にも朽ちた建物跡
峠の向こう側(南の奈川方面)

地形からして踏み跡があるようだ。凹状になっているのは、後で調べたところ、鎌倉街道の特長で薬研堀(切通)というらしい。人工的に掘って作られたものだとか。

来たルートを戻ると、車を停めた乗鞍スカイラインが見えてきた。

さて祠峠の往復はラッセルが大変だったものの4時間ほどで終了。なかなかに楽しい雪山散策だった。

【アルプス越えの鎌倉街道のルートについて】



佐久・天狗山南稜

川上村のナナーズあたりから天狗山を見上げると、山頂直下の南面岩壁群に向かってまっすぐに伸びあがる、顕著な稜線がある。これを登ってきた。
(注:上の写真は少し西側から撮影したもので稜線を描きいれると横にトラバースしているように見えるが、実際はまっすぐ岩壁に向かっている。)

スタートは大深山遺跡の広い駐車場。
赤線トラックレコードの右側が稜線で、1466mピーク、1616mピークが地図に記載されているが、この稜線に関する情報は見当たらない。

今回の面子は、この3月で仕事を引退し、これから登山ガイドをするというニコちゃん(YCC)と、バリバリ沢屋の梨恵さん(ぶなの会)、それに赤沼(山岳巡礼倶楽部)の3人。

本来の目的は、天狗山の東側前衛峰の南面岩壁に一本の線を引こうというものだったが、前日の雨でまだコンディションが悪いことと、馬越峠への林道がまだ冬期通行止めなので、アプローチが大変なこともあって、いまいちやる気がでず。
前から気になっていたこの南面の稜線を登ってみることにしたもの。
下から見る限りわりと急峻で岩とやぶのミックスに見える。登攀具少々とロープ1本だけを持参することとした。

馬越峠への道から左に大深山遺跡に向かうと、遺跡に向かう人のためらしい大きな駐車場がある。ここに車を停めてスタート。

駐車場のすぐ前の林道を少しあがって、右に見える尾根までトラバース。尾根の末端に着いた。露岩の多い樹林の尾根という感じ。雨に濡れた苔のはえた岩がとてもよく滑るので、なるべく土の部分を選んで登っていく。

尾根は起伏が激しい。急な部分と平坦な部分が交互に出てくる。

ところどころ岩稜となり、展望も開けてくる。

ところどころ露岩となる。危険そうなところはすぐにロープを出していく。

ロープは3人で50mを一本。半分に折り返して25mダブルとして使用。

1466m峰と1616m峰の真ん中辺のピーク。このあたりから天狗山南面の岩場がだいぶ迫ってくる。

岩と樹林の岩稜にところどころ急な岩峰が飛び出ている感じ。

岩峰と岩峰の間は樹林の尾根。うっすらと踏み跡らしきものがあったりなかったり。山仕事の人が入ることはあるが、ロープが欲しくなるような岩峰部分は巻いているのかも。

目の前に天狗山南面の岩峰群が迫ってくる。この尾根は左壁(天狗山の概念はこちらを参照)あたりに向かって伸びている。

来た尾根を振り返る。
1466m峰と1616m峰の間のピークが南稜の屈折点となっている。

1616m峰に立つ。

天狗山が迫って各岩壁が鮮明に見えてくる。下記参照。

1616m峰でくつろぐニコちゃん、梨恵さん夫婦

西側の斜面はすべてソーラー発電設備で埋め尽くされている。この設備に沿って下山するが、林道が設備のために寸断されていて、ここにあったはずの登山道は廃道になっている。

廃道となった登山道あたりに出る。山頂へは何度も行っているので、ここからだいたい廃道にそって下山。

ソーラー発電設備のフェンスに沿って、寸断された林道を歩いて大深山遺跡の駐車場に戻る。

大深山遺跡駐車場から登山道との合流点まで約3時間の行程だった。
岩が濡れていたため念のためにロープを5回だしたが、乾いた状態ならもっと快適に早く登れるだろう。
天狗山でのクライミングというと馬越峠からのアプローチになっていたが、山裾からダイレクトに岩場に至るこの稜から、上部の岩壁につないでいくのも将来の課題として面白いように思う。

お昼に終わってしまったので、秘密の岩場で少しだけフリークライミング。
これが梨恵さんの人生2回目のクラックのリードだったそうな。

比志津金山塊・雨竜山

今秋狙っているヒマラヤの某山ソロクライミングの資金調達のため、北杜市で出稼ぎ中&クライミング修業中の斉藤真帆ちゃん。彼女の休日にあわせて3月8日、日帰りで山歩きに出かけた。

中央高速バスで山梨入りして真帆ちゃんの車で拾ってもらう。

男子のたしなみ(?)として運転を代わるが、道路上の雪でなんか若干滑るぞ、この車。コンパクトカーながらスタッドレスは履いているらしいんだが・・・
「中古のスタッドレスだから少しは減ってるかもしれないですけど~」とか言ってる真帆ちゃん。

もともと狙っていたのは西上州の人跡少ない岩稜なんだけど、雪に覆われた林道をかなり奥まで入る必要があり、結局あきらめて転進。転進先はいつもの比志津金山塊。主だったピークは踏んでいるけど、林道から近すぎて登り残した雨竜山。篤志家専門のマイナーピークだが、林道比志海岸寺線の途中、大尾根峠(比志津金山塊の最高峰笠無はここから北上して登れる。)から南下すれば20-30分もあれば着けそうな位置。冬期通行止めで大尾根峠まで入れないことは承知のうえで、みずがき湖側から行けるところまで車であがって歩くプラン。

塩川ダム側の県道23号から林道を1.5kmほど登ったところで倒木があって行き止まり。ここから歩きとする。

上図のスタート地点に車を停めて歩きだす。

林道を歩くつもりだったが、車を停めたところは尾根上になっていてかすかに踏み跡もある。方向的には雨竜山なのでここからいったん谷におりて山腹にとりついてみることにした。

山腹の急斜面から雨竜山に達する尾根を目指す。
土、根っこ、堆積した葉っぱのうえに中途半端に雪がついていて、かなり気を使う登り。結構危険なので、歩きやすさよりも落ちた時の安全度を考えてルート選択。

ようやく尾根に上がる。このまま尾根をあがっていくと少しずつ傾斜が落ちてきて雨竜山に達する。

山頂には一応山名標識があった。

下りは大尾根峠に向かって一気に駆け下る。こちらは北面で雪も適度についているので歩きやすい。正面は八ヶ岳。

【雑談】五郎山合宿だ!

もともとは関西系クライミング女子アンジーと3日間どこか行こうという話。
それがいろいろとこんがらがって・・・
1日目はアンジーとかる~く楽しいクライミングをしたけど、2日目はなんと登山界の大御所ガメラ氏が合流することに。
若いころに何度か顔はあわせて、挨拶くらいはしたことがあるものの、登りや飲みをご一緒するチャンスもないままに、約40年ぶり?の再会。この山巡ブログを見て「こういうクライミングを一緒にしたい」と言ってくれていたのでお誘いしていた次第。
そしてガメラ氏の友人、中尾さんも参加。会ったとたん、ほとんど通学しないままなぜか卒業した大学名を言われ、「え?なんで知ってるの?」。私がたまに顔を出していた山岳部の先輩とヒマラヤに同行したとのことで、「後輩にやばいやつがいるんだよ」と聞いていたらしい。やばいか自分?
中尾さんもヒマラヤでの初登攀やら、瑞牆あたりでの開拓だの相当なクライマーですな。
そしてガメラ氏にもだいぶお世話になっているらしい、弟分の礼くん。
さらに赤沼の別荘のある北杜市に、クライミング移住してきたエリサさんも参加。

2日目はこの大所帯、6名でどこか登って、北杜市のわが家で宴会しようということになった。
先日エリサさんと開拓に行って、あまりの疲労とシャリバテで(たぶん)、登攀中記憶喪失に陥ってしまって敗退した天狗山のフェースを、強い人達に登ってもらおうか?というアイデアもあったんだけど・・・
6人でがやがややるなら、今まで7本ほどのルートを作った五郎山岩峰のお披露目でもさせてもらおうと思いなおした。

五郎山についてはこちらをご参照ください。

五郎山の岩場までは2時間弱の急登。
五郎山の岩場登場

さてパーティー分けの方法は赤沼が提案。

ガメラ氏と中尾氏がじゃんけん。
五郎山経験者の赤沼と礼くんがじゃんけん。
つよつよ女子クライマー二人がじゃんけん。
勝ったチームと負けたチーム。3人x2パーティーで登ろうということで。

結果、
ガメラ氏、アンジー、赤沼のカメさんチーム
中尾さん、エリサさん、礼くんのウサギさんチーム
に分かれることになった。

カメさんチームはマキヨセP2ルート。
ウサギさんチームはどまんなかルート。

この二つのルートはお互い向かいあった壁なので、お互いの写真が撮りあえるのだ。

カメさんチームはマキヨセP2ルート。3ピッチのルート。
ガメラさんのリードでスタート。いや、ここが一番難度の高いピッチなので、さりげなく押し付けた。

2P目、3P目は素敵なフェース登り。アンジーのリード。

対岸のどまんなかルートを登るウサギさんチーム。
あれ?どまんなかルートはスカイラインのリッジを登ったんだけど、少し下の岩の多いラインを登ってるな。派生ルートできちゃった。

どまんなかルート派生パートを登る中尾さん。

登り終わったカメさんチーム
どまんなかルートを登り終わって、五郎山山頂のウサギさんチーム
ウサギさんチームは登り足りなかったのか、さらにカメさんチームの登ったP2マキヨセルートの2P目以降を登りに行った。写真は2P目をリード中のエリサさん。
カメさんチームは五郎山山頂まで登山道を歩き、この写真を撮影。P2マキヨセの終了点ピークに立つエリサさん。

マキヨセP2終了点のウサギさんチーム

早めに終わって下山。これから宴会だ~
宴会開始。左3人が60台前半グループ。右3人がまだまだ若者?グループ。

同時代を生きたクライマー同士の話は何十年前に遡り、亡くなった友人たち、まだ生きてる友人たち、谷川岳通いの話、今の瑞牆山の話・・・・盛りだくさんの話題が飛び交いましたね。さすがに。

ところでちょっと怖いというか、ショッキングな話。

記憶が相当やばい。
思い出せない、忘れてるのは日常茶飯事なんだけど。
記憶が間違ってる?
最近というか、ここ数年多いんだけど。

たとえば、
「あの有名クライマー夫婦、いつも噂ばっかりで一度お会いしてみたいな~」
「なに言ってるの?若いころ一緒に登ったし、何度も飲んだじゃない。」

たとえば、
「あの人と登ったのはさすがによく覚えてるよ。あれは19xx年だった。いいクライミングだったわ~」
「は?その人その1年ほど前に亡くなったよね?」

たとえば、
「まあ自分のクライミンググレードは5.11が限界でしょう。それ以上登ったことないし。」
「5.12のルート、初見リードで開拓したの知ってるけど?」

こんな調子。

これって還暦すぎたら普通?

今回みたいに昔話するとそういうのを切に感じるわけ。
記憶が混濁してる。
で、いろいろと記憶を反芻したりしていたら、大きな事故やら高度障害やらで、記憶喪失になった経験があったわ。いや、そのこと自体を忘れてて、この間エリサさんと登攀中に記憶が飛んだとき、「こういうの初めてなんだよね」とか言ってるし。

老いとともに、いかに自分の能力を客観評価して、山登り自体をグレードダウンして、クライミング人生を全うするか。これが最近ずっとテーマなんだけど、自分の(クライミング)能力ってなに?

体力・・・今のところゆっくり登ればまだ大丈夫っぽい。
技術・・・クライミングはもはや大してうまくはならないけど、そうそう下手にもならないらしい。ゆっくり、無理せず登れば大丈夫かなぁ・・・
判断力・・・経験値はどんどん大きくなっていくわけで、判断力もそれにともなってよい方向に・・・・というところで、ちょっと待てよ!となった。
経験値って、今まで記憶してきたことの集積から導き出されるものでないの?
だとしたら記憶がやばいと、経験値も飛ぶ?
記憶がとんだら、判断できない?

ここまで考えてきて、登攀中に記憶をとばした私がパートナーのエリサさんに言った言葉を思い出した。

「今、岩場にいてクライミングしてることはわかる。やり方もわかる。でも今どうしたらいいか判断できない。このまま登ればいいのか・・・・」

これでエリサさん、びびって「早く下りなさい!」と言ってくれて、事なきをえたんだけどね。

つまり、記憶混濁⇀経験値混濁⇀判断できない・・・ってことじゃん。

これ山では一番まずいかも。

老害としか言いようのないような遭難もよく起きてるみたいですが、案外こんなあたりから判断ミスって起きてたりするのかなぁ。

経験値を失った、老いぼれ登山家はただの老害。

とりあえずそう自省しておこう。

佐久・天狗山右壁右稜

天狗山ダイレクトの右に広がる急峻なフェースの、右カンテライン(右稜)を10月21日に登ってきた。天狗山南面の岩場の中では東稜という位置づけになる。

赤線が登攀ライン。すぐ隣の左上していくリッジが天狗山ダイレクト。

天狗山南面岩壁群の偵察の際には、上図の上段岩壁、中段岩壁をまとめて上部岩壁と仮称していた。
しかしその後、3年をかけて「ひなばすビュー」というルートを開拓された方が、Rock and Snow誌の最新号(101号)への投稿で、このように記載されていたので、混乱を避けるためそちらにあわせることにした。(偵察記も後日修正予定)

青線が天狗山ダイレクト。赤線が今回のトラックレコード。

ところで10月8日に南面岩壁のまんなかあたりを登るつもりで、北杜市移住組クライマーのエリサさんと出かけた。下部岩壁のフェース部分を登り、上部岩壁(上段+中段岩壁)の左の稜へとつなげて山頂に至るプランだ。(左は下部フェース登攀中の写真)

この時は連日の山登りで疲れ切って風邪気味。しかも前夜からほとんど食事をしない状態で悪戦苦闘のクライミングをしている最中、一時的に記憶が混濁するというレアな体験をして敗退となった。

今回10月21日は関西系クライマーのアンジーと一緒にどこか登ろうと約束をしていたので、このルートの完成につきあってもらうこととした。

しかし関西から夜行バスで来たアンジーを、朝の新宿でピックアップしたはいいが、中央道の渋滞で登山口についたのは10時過ぎ。
この日は、時間のかかりそうな開拓プランは無理と判断。

馬越峠に向かう林道から見える岩壁が気になり、ではそちらを偵察し、あわよくば登ってしまおうということになった。

その岩壁は馬越峠から天狗山への登山道を歩くと、ちょうど中間くらいの小岩峰の南面にある。馬越峠側から見て天狗山の前衛峰ともいえる岩峰で、こちらも南面に上段、中段、下段とフェースが見える。ちなみに天狗山ダイレクトへのアプローチの際は、この前衛峰を越えた先のコルから南面に踏み跡を辿って下ることになる。

3つの岩場の基部を歩いてみたが、思っていたより規模が小さく、それぞれに1ピッチで終わりそう。しかも傾斜が強く結構ハードなクライミングとなりそう。う~む苦労する割に楽しいラインにはなりそうもないなぁ。

ふと天狗山ダイレクトのほうを見上げると、その右側に天狗山山頂のほうに伸びあがる岩稜がある。稜のすぐ右は樹林の尾根で、なんだか木登りになってしまう可能性も高いけど、見え隠れする岩を拾って登れば面白そうじゃない?なんてのりで、登ってみることにした。

前衛壁の下から見上げる右壁右稜。木に覆われているが岩登りの要素もありそうな予感。
稜の末端はこんな感じ。やはり木に覆われてる。ここから登ってみる。
アンジーのリードでスタート。ここからほぼつるべ(1ピッチごとにリードを交代する登り方)で登る。

すべて樹林の斜面を登ってもいけるが、あえて岩場部分を登っていく。

想像したよりも岩登りらしいところが多い。
振り返ると先ほど偵察してきた前衛壁南面の岩場が見える。
これが右壁。この稜上を登っていく。岩壁の上部と樹林の境目あたりを行くので、この辺からだいぶ高度感がでてきて楽しい。
緩やかなスラブ壁が所々出てくる。難しくはないが分厚いじゅうたんのような苔?に覆われている。足元がふわふわのスラブ登りだ。
だんだん樹林よりも岩場が多くなってくる。すでに相当楽しい気分になっている。
後半は右壁のふちを登っていくのでだいぶ高度感がある。
天狗山ダイレクトがすぐ近くになってきた。大勢登っているのがわかる。
難しくない快適岩稜。下は紅葉がまっさかり。


最後のほうは完全に岩登り。支点も木よりもカムが主流となってくる。
天狗山ダイレクトのクライマーを撮ってみた。
右稜上から、今日偵察してきた3段の岩場を振り返る。

結局10ピッチのクライミングで天狗山ダイレクトの終了点上について終了。踏み跡を辿ればすぐに山頂だ。

木登りでもいいやと登りはじめた岩稜だったが、紅葉をバックにやさしめの岩稜登りとなった。3時間ほどのことのほか楽しいクライミングだった。

こんなルートだから人が登ったような痕跡はないものの、私たちのような篤志家?が登っていないとも限らないねなどと会話しながらの下山となった。

前穂高岳・第二尾根

奥又白池で出会った79歳のオールドクライマーは、前穂三本槍や第一尾根を知っているほどのベテランだったが、第二尾根はさすがに知らなかった。
おそらくは、1930年台に奥又白を城としてきた旧制松本高校山岳部が第二尾根と名付け、信州大学山岳部と変わったあとも、唯一初期の部員だけが知っていた様子が伺える。

奥又白池から真上に伸びる奥又尾根はそのままA沢の左岸の稜を形成し、踏替点を左右に分けた手前のピークで終わる。この尾根の延長線上にあるのが第二尾根だ。つまり奥又尾根を第二尾根の下部であると言い換えることもできる。
第二尾根はA沢側に急峻な側稜を伸ばしつつ、その美しい岩稜は前穂三本槍へと収束していく。
つまり、前穂第二尾根は奥又白池から、前穂高岳山頂すぐ近くの前穂三本槍までほぼ直線的なラインとなる。

先月、前穂高岳第一尾根を登った際、この美しいラインを見て登ろうと決めた。

昨年霞沢岳で楽しいクライミングをしたメンバーで出かけた。
宮田実穂子さんは女子だけの山岳会、銀嶺会の組長。
石鍋礼くんは彼が中学生の頃からのつきあい。今年は仕事が忙しく山にはほとんど行けてない。

9月16日3連休の初日、ゆっくりと奥又白池に入り幕営。
9月17日、まだ暗い中を出発。全装備入ったザックが重い。

A沢に入り、踏替点あたりでやっと明るくなってきた。

踏替点からさらにA沢を登る。
うしろの岩峰は第一尾根第四支稜の頭。コルから右上に伸びるのが第一尾根主稜。

踏替点あたりから第二尾根を望む。
A沢をさらに少し登り、顕著なふたつの側稜(便宜上左稜、右稜と仮称)の間のルンゼに入る。どちらの稜も急峻にA沢に落ち込んでいる。左稜は美しい岩稜。右稜はハイマツと岩のミックス稜。

左稜と右稜間のルンゼをあがる。
チョックストンのところからロープを出して、赤沼リードでクライミング開始。
二つの稜が間近にせまっている。振り返ると対岸の第一尾根が見える。

チョックストーンの上は急なガレ石のルンゼ。途中から右稜のほうにスラブ壁を登って、ハイマツと岩のミックスした右稜に出て1P目終了。

背後には雲海が広がり、遠くに富士山が見える。

2P目(赤沼リード)は右稜のハイマツと岩の露出した境目あたりを登っていく。左に見えているのが左稜の頭。

ルンゼ上部から周囲の地形を赤沼が説明する。
終了点はもう近いなんて言ってるが、そうでもなかった。

主稜に抜ける手前に古いシュリンゲがあった。下降用の支点のように見える。
そういえば松高が雪崩事故を起こしたころ、このあたりを積雪を使って下降したという記述があったが・・・・90年も前の話だから違うよな~などと思いつつ。

開けた第二尾根の主稜にあがって2P目終了。

ここからは草付きと露岩の尾根となり、いったん傾斜が落ちる。

3P目(宮田リード)はルート選び放題。リードの特権?で、目の前の悪そうな露岩帯を登る。前穂三本槍の三本の意味がよくわかった。1番左の岩峰が第二尾根の終了点。

4P目は礼くんリード。やはり目の前の露岩を行くが、途中で草付きのほうに逃げていく。写真映えするスカイラインの岩稜を行けば?って言ったんだけどなぁ・・・(笑)

奥に見えるのは前穂北尾根の四峰。

5P目は赤沼。真正面に近づいてきた最後の岩稜基部までほぼ歩き。

5P目の稜線を振り返る。下の方(左端)に奥又白池がよく見える。右に見えるのが第一尾根の頭。すでにだいぶ下のほうだ。

さあここからが最後の核心部。6P目は赤沼リードで目の前のフェースを登っていく。

6P目、赤沼リードで前穂三本槍にせまっていく。

振り返ると、奥又白池からここまで、尾根が一筋に伸びあがってくる様子がよくわかる。このへんからかなり高度感がでてきて気持ちがよい。

核心部。奥又白全体に声が響きわたるのが気持ちよすぎて、いきなりイタリア歌曲を歌い出す音大出身の宮田さん。動画を撮るからもう一度歌えと言われ、かすれてしまった声でアンコールに応じる。

6P目終了点でビレイする赤沼。

ピラミダルな明神岳が遠くに見える。その白い岩壁が下又白谷奥壁。左手前が第一尾根第一支稜の頭(ウエストンピーク)。

すぐ近くにイワヒバリの巣があるらしい。

7P目赤沼リード。これが最終ピッチとなる。

目の前のフェースを越えて右の終了点に向かう。

7P目フォロー中の礼くん。

フェースを越えると右方の終了点に向かって美しいスラブ壁が伸びていた。

終了点は前穂三本槍の頭。控えめに言って最高のクライミングだった。

「こんな楽しいところ、よく見つけてきますね~」とか言われ、すっかりドヤ顔の赤沼。

前穂高岳山頂は目と鼻の先。

岳沢小屋で第一回打ち上げ。

北杜市の赤沼宅にて本格的な祝宴。

さて前穂高岳第二尾根。
変化に富んでいて、岩も脆くなく、難しすぎず、長大で、最高な景色ななかを前穂高山頂直下の三本槍まで一気につめあげる素敵なクライミングだった。今シーズンのベストクライミングと断言できる出来栄えとなった。
こんな素敵なところを見つけてくるなんてさすが~などと言われながら、「僕はずさないので」と大威張りで夜がふけていくのでありました。

そしてついにこの前穂高岳山頂部に目立つ、3つのピークすべての上に立つことができたのだ~

【メモ】
1P 4級 40m
2P 3級 25m
3P 4級 30m
4P 4級 25m
5P 2級 50m
6P 5級 50m
7P 4級 40m
使用ギア:カム1セット ハーケン2枚(回収)ダブルロープ2本 アルパインぬんちゃく適宜

2023年9月17日
奥又白池発4:00am~A沢踏替点5:30am~取付き6:10am~終了点9:30~前穂高岳山頂1015am~重太郎新道下山~上高地14:00pm

前穂高岳第一尾根に残された旧制松本高校の足跡

2023年8月31日前穂高岳第一尾根の頭に立つ。
左が第一支稜の頭(ウエストンピーク)、右が第二尾根の頭(前穂三本槍)。

徳沢あたりから遠望できる前穂高岳山頂部


前穂高岳第一尾根と言っているが、私にとってここは下又白谷第一尾根。
山岳巡礼倶楽部の地域研究のテーマであった「下又白谷」を、1980年台に引き継ぎ、何度かの偵察や試登の後、左に見える第一尾根第一支稜を登り、「ウエストンリッジ」と名付けたのが1985年。山崎安治氏による、ウエストンの前穂高岳登頂の際の推定ルートであったのだが、山岳巡礼倶楽部のわたべ氏が疑問を持ち、その検証をも目的として登ったものだ。
ちなみにウエストンリッジと勝手に名付けて紹介はしたが、途中で残置ハーケンなどもあり、先登者がいただろうことは想像でき、「昔のクライマーはこんなところまで登っていたんだな~」と漠然とした感想を持っていた。
第一尾根は下又白谷と奥又白谷の境界となる尾根であるが、第一尾根の登攀対象となる支稜(第一~第四支稜)や側壁群はすべて下又白谷側となるため、クライマー目線ではどうしても下又白谷と感じてしまう。


第一尾根のクライミングその1(敗退編)

2023年7月29日
Climbing Journalで紹介した私の記事を読んで、ウエストンリッジを登攀したうえで連絡をくれて仲良くなった長友さんと、第一尾根を登ろうと入山した。
記録的な猛暑のなか、中畠新道を奥又白池まではいあがり、疲れ切った身体で第一尾根に向かう。ルートはまだ特定できていない。

奥又白池から真上に見える尾根。その末端が洞穴状になっている。
茶臼尾根の延長線が第一尾根であろうという判断からすれば正解のはず。
洞穴の上はハング帯なので、右壁から巻くように登っていく。

洞穴の右壁をリードする長友さん。逆相の露岩と垂直のハイマツでいやらしいクライミングとなるが、2Pで洞穴上に立つ。

この時点で全装備背負ってのいやらしいクライミングに気持ちはだいぶ萎え気味。
上部が観察できる場所まで登ってみたが、一尾根支稜群の壮絶な雰囲気と、この先のハイマツの多い尾根にやる気をそがれ(はっきり言うとびびって)、ここで撤退。
ただ洞穴のうえに、腐食しきった残置ハーケンと撚りザイルのフィックスロープを発見。いったいいつのものだろう?
ここでふと、松高の名前が頭をよぎった。
奥又白谷周辺で「松高」の名前を冠したルートがいくつかあることは周知の事実であり、またこのあたりでの松高の活躍は古い文献で読んだ記憶があったのだ。
ところで下山後、山岳巡礼倶楽部のひとまわりほど先輩の二階氏に連絡をとると、なんと第一尾根を冬期に登ったことがあるという。記憶が曖昧らしいが、1990年前後の山巡冬合宿で、茶臼尾根から第一尾根を登って前穂高岳の山頂に立ったのだという。(そのころ赤沼は山巡をいったんやめ、海外にいた。)
ちなみに松高山岳部が奥又白池の目印としていた「宝の木」についても二階さんはよく知っていて、「あの木まだあったか?」などと言う。(「宝の木」は井上靖の小説「氷壁」にも登場する。)
いったい第一尾根ってどれほどの知名度があるのだろう。
少なくとも古い山岳会の私より少し上の世代の人は、かなりの率で知っていたのではないだろうか。そんな印象を持った。

それにしても第一尾根周辺のクライミングについてはデータがない。「松高」というキーワードから少し調べてみることにした。


旧制松本高校の足跡

前穂高岳第一尾根。
この呼称を最初に使ったのはどうやら旧制松本高校山岳部だ。
松高はやがて信州大学に統合されるが、信州大学山岳部の発行した「初登攀記録」という文集では、ここが「松高第一尾根」と記載されている。

松高山岳部部報「わらぢ6号」の挿絵 (ここでは第一尾根とのみ記載されている)

旧制松本高校は大正8年(1919年)、9個目の国立高校として開設された。多くの岳人を輩出した松高山岳部がいつ設立されたかはわからないが、昭和2年(編集後期に長らく休刊になっていたとある)発行の部報「わらぢ」を見ると、すでに「奥又合宿」が行われている様子がわかる。

ところで松高山岳部が奥又を登りはじめたのは登山史上どんな時代だったのだろう? 少し調べてみた。

そもそも趣味としての登山がはじまり、ヨーロッパアルプスの未踏峰が次々と登られたのは1850年あたりから。
日本はまだ江戸時代で黒船が来たのが1854年。
1860年にイギリス公使ラザフォード・オルコックが富士山を登頂。
1872年、イギリスの冶金技師ウイリアム・ガウランドが御岳、乗鞍、槍ヶ岳などに登り、はじめて日本アルプスという呼称を使った。
そして1888-1896年にイギリスの宣教師、ウォルター・ウエストンが日本の山を登り歩き、「日本アルプスー登山と探検」を刊行。
日本では1867年が明治維新であり、その前後にかけてアルピニズムがヨーロッパから日本に持ち込まれたと言ってもいいかもしれない。

日本では小島烏水と岡野金次郎が1902年に槍ヶ岳登頂。
直後にウエストンの著書に出会い、手紙を送ったことから交流がはじまり、ウエストンの奨めを受けて1905年に日本山岳会を設立した。

日本における登山の黎明期は旧制高校や大学の山岳部が中心であったようだ。
第一次大戦(1914-1918)をはさんで一高旅行部、二高山岳会、三高山岳会、北大スキー部が設立される。
ついで1,920年台に入ると、慶應義塾大学、学習院大学、早稲田大学などに次々と山岳部が設立される。一方で日本の進歩的な岳人は本場ヨーロッパにおいて成果を上げ始める。(1921年日高信六郎のモンブラン登頂、1921年槇有恒のアイガー東山稜初登攀など)
学校山岳部はヒマラヤの高峰登山を最終目標として設定し、雪山の縦走や厳冬期登攀を目指して組織登山を繰り広げる。その結実の一つとして1930年立教大学山岳部がナンダコットの初登頂に成功する。
その一方、庶民派(社会人)クライマーもこのころから活躍をはじめる。1924年には藤木九三らがRCCを設立し、岩登りと雪山の専門的技術習得を目指す。1929年に日本登高会や登歩渓流会などが設立され、近郊でのクライミングに特化した活動も始まる。我が山岳巡礼倶楽部が設立されたのが1935年。加藤文太郎が活躍していたのもこの時期だ。
このあたりから東京の社会人山岳会を中心に谷川岳での初登攀時代に入る。

旧制松本高校の山岳部が部報「わらぢ」を再発行したのが1927年。
だがこの号を見ると、笠が岳、剣岳、白馬、赤石岳、飯豊や薬師岳などでの比較的牧歌的な縦走登山や山岳逍遥が中心であったようで、ほかの学校山岳部に比べてやや奥手な印象を受ける。

しかし松高山岳部は1932年に奥又白池を訪ねたのをきっかけに、一気にその高揚期に入ったように見える。
1936年には第一回奥又合宿(1927年発行のわらぢにも奥又合宿の記述あるが?)を行い、ここを自らの聖域とみなし始めたようだ。1937年第二回奥又合宿。そして1938年の第三回奥又合宿では四峰正面壁、北壁右岩稜などをトレースし、その熱は一気に上昇し、登攀に向かっていく。
松高でもほかの学校山岳部がそうであったように、厳冬期の岩壁登攀、そしてその先にあるヒマラヤも見据えてか、冬季の奥又に目的を絞り込んでいく様子が伺える。
もちろん彼らは積雪期における雪山技術も、知識も、ましてや冬季登攀の経験もない状態だ。すべてを一から学ぶためにどうすればよいのかを考え抜き、実行に移していく。
しかし1939年9月、冬山訓練の白馬で部員が凍死。
そして翌年3月の奥又では北壁下のV字状雪渓において雪崩にあい、二人の部員を亡くす。

やがて世界大戦を目前にした暗い時代に入り、登山活動は低迷していったようだが、1930年台後半に集中的に奥又に入って登攀を行っていた様子は伝わる。かれらが冬期登攀を前提として活動していたせいか、無雪期における登攀の様子についてはあまり記述がないが、奥又の各フェースやリッジばかりか、下又白谷上部の岩稜もほとんど登られていたのではないかとも思われる。

第一尾根はそんななかで新人訓練の場のひとつとして、夏冬を通して登られていたようだ。

そして彼らの残した資産を反映してか、松高山岳部が信州大学に引き継がれてからの初期の記録にも、第一尾根(松高第一尾根)や下又白谷側の第二支稜などを登ったとの記載がある。

前穂高岳第一尾根周辺の記録と思われる部分を、松高の「わらぢ」および信州大学山岳部の記録から抜粋してみる。

1939年12月 厳冬期奥又白合宿において恩地裕、濱口朝彦の2名が第二尾根を登攀。前穂高山頂からA沢を下山。これは北壁Aフェースなどの厳冬期登攀を目指していた彼らのアプローチルートの一部でもあり、何度か登っている様子が伺える。
1940年3月 奥又白春合宿において北村正治、久留健司の2名が第一尾根を登攀。雪のついた岩登りははじめてとの記述がある。第一尾根が3つのピークからなる様子が書かれているが、昼前には登攀を終え北尾根に行ったほかの部員を迎えに行っている。(この2日後、雪崩による遭難死事故が起きる。)
1943年7月 夏山合宿にて第一尾根ほかを登攀
1946年(?)7月 第二尾根においてザイルテクニック練習
1952年(ここから信州大学山岳部)夏合宿で第一尾根
1958年 6月奥又合宿で第一尾根 8月合宿で第一尾根 10月奥又合宿で第一尾根(10日間かけて登っている。極地法の練習だったかも)
1959年 5月奥又合宿 第一尾根 10月奥又合宿 第一尾根
1960年 5月奥又合宿 第一尾根 8月奥又合宿 第一尾根 10月秋合宿 第一尾根 2回 

信州大学山岳部となってからは、ほぼコンスタントに第一尾根が登られているのがわかる。新人のトレーニングルートとして選ばれているようにも見える。以降特筆すべき登攀のみ記載する。

1962年 10月1日 石井、小谷二名にて第一尾根ピナクルの下又白谷側の壁を登攀。この際落石によりザイル1本を切断。
1962年10月5日 松尾、板谷2名にて第一尾根第四支稜を登攀。
同日、池田、小谷2名にて第一尾根第三支稜を登攀。
さらに同日、石井、出島2名にて第一尾根から茶臼へ続く尾根(意味不明)

1962年の合宿にて第一尾根を登った部員の感想文。
第一尾根第四支稜を登った部員の感想文。
第一尾根第四支稜のルート図(注:どこを登ったのか特定困難)
第一尾根第三支稜(注:ルート特定は困難)
第一尾根第一支稜(われわれの言うウエストンリッジ)、最終部のピナクル側壁を登ったものか?

ところでさらに余談となるが、ウエストンの前穂高登頂ルートを推定した山崎安治氏は登山史の研究家として著名だが、早大山岳部の部員として、上記に近い時代に奥又白池周辺でも実際に登攀をされていた方のようだ。
第一尾根周辺も実際に登られていた可能性は十分にある。
Climbing Journal誌では赤沼が山崎説に懐疑的な論証を行ったが、案外ウエストンが本当にここを登った可能性があるのではないかという気もしてきた。
その根拠としては、A沢をはじめとする沢筋の歩きにくさ、危険さだ。
無雪期は落石を誘発しやすい急傾斜のガレ場だし、雪渓のある時期は雪渓の状態によっては非常に不安定で危険な状態となる。
ルートは案内人の上条嘉門次が決めたというのが通説だが、もしウエストンが本場アルプスでの経験に基づいたルートファインディングをしたとすると危険な谷筋よりも岩稜を選んだ可能性もあるのではないか。
山崎氏が現場を知り尽くしているのだとしたら、上記のように考えた可能性もある。


第一尾根クライミングその2(成功編)

2023年8月31日

なにはともあれ、ここまで調べたらまずは登ってみないことには始まらない。
自転車旅の途上見たというパタゴニアの名峰を登りたくて修業中の、斉藤真帆ちゃんが二つ返事でつきあってくれることになった。
彼女はついこの間ネパールヒマラヤで登山してきたばかりなのに、9月にはまたパキスタンに出かけるという。私から見たら娘世代だが、「私がいるとたいていの山登りはうまくいきますから!」と言い切る頼もしい性格(笑)。

ルートは松高や信大の記録を読みつつ検証したが、どうもこの間長友さんと登ろうとしたのは、彼らのいう第四支稜ではないかと思われた。
松高の部報にある記録では「A沢の踏替点」から取付きとある。
今回は奥又白池からA沢の踏替点まで登り、そこから岩稜にとりついてみることとした。

末端に洞穴のある尾根(たぶん第四支稜)を右岸に見ながらA沢を詰める。登攀ギアや宿泊、食料など全装備背負ってのガレ歩きはつらい。

A沢の踏替点から右岸(左側)のコルに向かうと第一尾根の取付きとなる。

第一尾根取付きのコルから第四支稜の終了点を振り返る。第四支稜を登るとこのピークに出て、歩いてここに来られるようだ。

取付きから第一尾根の全貌

手前のピナクル左を通って、ハイマツと露岩の岩登りとなる。左に広がるのは第二~第三支稜を含む垂直の岩壁帯。凄絶な眺めだ。

第一尾根取付きからの360度動画

1P目(45m)
ピナクルを左から巻き込むように登り、ピナクル上のテラスまで。ピナクル横の傾斜の強い岩壁が脆くて緊張する。

ピナクルを越える。

ピナクルからさらにハイマツと露岩のミックス壁をテラスまで。

テラスから取付きを振り返る。
右に伸びるのが第四支稜と思われる。

このテラスにはがっちりと効いた残置ハーケンがあった。まだ十分に使えるレベルで、そんなに昔のものとは思えない。

2P目30m

テラス上の急な岩登り。脆さ、技術面ともにここが核心。ハイマツをつかんで小ハング上にはいあがると傾斜が落ち、体力を消耗するハイマツ登りとなる。
ハイマツ帯のなかでピッチを切る。

3P目 25m

また傾斜の強い岩登り。

第一尾根からA沢対岸の第二尾根。尾根上に二つの大きなピークが確認できる。終了点が前穂三本槍。その右手に前穂高岳山頂が見える。

4P目 45m

岩登り少しで傾斜の落ちたハイマツ帯に入る。ぜいぜい言いながらハイマツを漕いでいくと傾斜が落ちてルートは終了。あとは歩いて第一尾根の頭へ。
出だしに大きな浮石があり、ロープがあたらないよう処理しながら登る。

終了点から奥又白池を振り返る
おまけの動画「ハイマツで疲れ切った真帆ちゃん」
ルート終了点になぜかリングボルト

ルート終了点からアプローチシューズに履き替えて第一尾根の頭へ。

第一尾根の頭
第一尾根第三支稜側の岩壁
第一支稜の末端を巻き込むように歩いていくと、A沢の下降点。本日はここでツエルトビバーク。風は強いが快適な空間だった。
はじめてのビバークにしてはちょっと快適過ぎたらしい。
夜、明るいと思ったらこの日は今年最大のスーパーブルームーンだったらしい。月に照らし出される第一支稜の頭(ウエストンピーク)とオリオン座。

データ:

2023年8月31日 赤沼正史、斉藤真帆
上高地 0510am – 徳沢0700am – 奥又白池1000am – 第一尾根取付き1150am – 第一尾根終了点1430pm – 第一尾根の頭1500pm – A沢下降点(ビバーク地)1515pm
9月1日前穂高岳山頂経由で、重太郎新道下山

登攀具:ロープ50m ダブル1本、カム1セット、ハーケン(残置以外は使用せず)、シュリンゲ、カラビナ適宜

奥又白池からA沢下降点までのトラック






金峰山・千代の吹上第一岩稜・岩壁観光ルート開拓

千代の吹上第4岩稜を登った時に遠望した、第一岩稜を登ってきた。

この左スカイラインが第一岩稜。
易しそうに見える。もしかしたら歩きになるかな?
でも一番下部が切れ落ちているので、少しはクライミング要素もありそう。
難しすぎない岩遊びを目指している自分にとって、理想のお遊びフィールドに見えるぞ。

パートナーは斉藤真帆ちゃん。

自転車で中南米を旅した(縦断?)際に見た素敵な岩峰(クライミング対象としては世界最高クラスにやばいやつ)に登りたくなって、そのために今はアルパインクライミング修業中らしい。
故郷を離れ、山に囲まれた北杜市で稼ぎながら、ひとりでネパールヒマラヤの山を登って、北杜市に戻ってきたばかり。すぐにまた、パキスタンあたりに登山に行くらしい。

平日に休みが一致したので、日帰りでつきあってもらうことになった。

第4岩稜の時は大弛峠からアプローチしたが、早朝の集合には北杜市からのアクセスが長すぎる。今回は歩きは少し長いが北杜市からは近い瑞牆山荘スタートのアプローチ。

岩場に向けて歩く歩く。長い道のり約3時間半で金峰山山頂手前。
やっと第一岩稜が見えてきた。

第一岩稜の金峰山寄りのガレと草付きのルンゼを歩いておりる。

白ザレが出たところで、これぞ取付き!という岩稜の末端となる。

1P目。上に見えている急傾斜のフェースめがけてガレ交じりの岩を登る。難しくはないがルートファインディングは慎重に行く必要あり。

1P目終了点

2P目から岩登りらしくなってくる。
とりあえず真上の垂直部分を目指すが、真正面は取付くしまなし。
右側、ハングとスラブの出会う凹角あたりを登る。

見た目はぐずぐずの草付き壁だが、意外にちゃんとした岩登り。
ムーブ的にも5級程度のポイントがいくつか出てきて、フェースのマントリング、内面登攀技術なども使いながらの、岩登りが楽しめるピッチだった。

2P目終了点

さてここで下部フェースの垂直部分は若干巻いた感じ。
この辺で稜線上に戻ろう。

そういうわけで、3P目は稜線に向かって側壁にあたるフェースを直上。
固めの花崗岩のフェースでカムも決まるし、技術的にもここが核心。
小さなスタンスに足をこすりつけてのトラバースあり、フィンガークラックありで、かなり楽しめた。

3P目終了点付近を岩稜に抜けてくる真帆ちゃんの図

3P目で岩稜上に出ると眼前に第一岩稜。その左に広がる第一フェースには古いルートがあるらしい。さらに奥には第2岩稜から第4岩稜まで、千代の吹上の全景が広がる。

左下に見える緩やかなスラブ状の岩稜がこの間登った第4岩稜のようだ。

真ん中の顕著なリッジが第2岩稜。今度はこれかな?このリッジラインは登られているらしい。

4P目は歩き以上、クライミング未満なリッジ。でもところどころロープの欲しくなるようなフェースが出てくるので、ロープを結んだまま進む。
大きく広がる岩壁群を眺めながらの楽しい岩稜クライミング。

5P目。第一フェースの右側ラインをそのまま登っていく。

5P目終了点から見下ろす。

まもなく5P目終了。

金峰山の稜線上の第一岩稜終了点はもう目と鼻の先。ここでちょっともぐもぐタイム。いやなんか腹減ってるの忘れて登ってたわ。

さあこれが最終ピッチになるか。真帆ちゃんがリード。

「ロープが足りたらトップアウトしてしまっていいからね~」と見守る赤沼。

というわけで感動のトップアウト。

赤沼も到着。

全6ピッチ、200メートル弱?のクライミングで、登攀時間は約2時間。
下部はルートファインディングをしながら、見た目よりはかなりクライミングらしいクライミングができる。
上部は千代の吹上の全景に圧倒されながらの、高度感もあって気持ちのよい、そして難しくない岩稜クライミング。
かなりよいルートです。ぜひ登ってみてほしいルートとなった。

さて第一岩稜だが、登山大系には第一岩稜をおりて第一フェースに取付いたという記載はあるが、実際現地を見ると少し左のルンゼ寄りを下りたほうがはるかに合理的。たぶん第一岩稜自体はおりてないんじゃないだろうか。(おりるなら一部は懸垂になる。だったら手っ取り早く草付きルンゼおりるよね~)
そして下部はまず登られてないでしょう。
そういうわけで、少なくとも下部は初トレース。おそらく上部も。
なので一応ルート名なんかもつけちゃおう~。
命名は真帆ちゃんにまかせた。

真剣に考え中。
結果、ルート名「千代の吹上第一岩稜、岩壁観光ルート」
となりました。

メモ:

登攀日:2023年7月20日
使用ギア:50mダブルロープ1本、カム1.5セット。ハーケン、ボルトは使用せず。
1P目:3級35m
2P目:5級30m
3P目:6級30m
4P目: 3級30m
5P目:3級45m
6P目:4級35m
瑞牆山荘6:08am – 第一岩稜終了点となるピーク付近9:10am – 第一岩稜取付き10:00am – 第一岩稜終了点12:10pm – 瑞牆山荘15:00pm

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