アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

カテゴリー: 雑談 Page 3 of 4

南相木・城山(海ノ口城址)

そもそもは礼くんと週末の春山を楽しむ予定でいた。
前から目をつけていた、ギボシの西壁に食い込むルンゼでもやるか、礼くん希望の蓼科山に登るか・・・・と検討していたが、天気予報がいまいち。
加えて山巡じじい会をやろうという話もあり。
諸々調整のすえ、土曜は礼くんと赤沼が藪山ハイキングをしてから八ヶ岳の家に入り、二階さんとソーノスケさんはロープウェイ利用で入笠山を歩いてから合流して宴会という運びになった。

さあ藪山チームはどこに行こう。

カシミール3Dの地図をつらつら眺めていると、小海線佐久海ノ口駅の東の山塊が目についた。
川上村の男山や天狗山のあたりから北に延びる小さな山脈だ。
小海線をはさんで西側には北八ヶ岳の連峰。
うまくすれば眺めもいいかもしれない。
ちょっと登ってから宴会というプランには手ごろな規模でもある。

山脈のなかで男山、天狗山をのぞけば唯一山名のついている城山というところに行ってみよう。

無人の佐久海ノ口駅に車を停めて周回するコースを設定してみた。

無人駅の佐久海ノ口はのどかな雰囲気


駅から線路沿いに少し北上し、千曲川にかかる橋を渡る。
林道を登っていく。

駅から適当に引いたラインに沿って歩いてきただけなんだが、なぜかところどころに「海ノ口城址」という道標がある。
ん?
そういえば山の名前は城山。
あ!
城址なんだ~

という呑気な・・・というか、山名見て気が付かなかったんかい。
でも海ノ口城?
聞いたことあるような。

はい。結論を言うと、この海ノ口城は武田信玄初陣の地として有名なお城でした。
NHKの大河ドラマ「風林火山第8話」ぢゃん!

これこれ。風林火山第8話からキャプチャーしてみた。

平賀源内の立てこもる海ノ口城。
武田信虎(信玄の父ちゃん)が7,8千人の兵で攻めるが、山本勘助の策に守られた城はなかなか落ちない。信玄は初陣なので後方待機。
雪が降ってきて城攻めはあきらめ、引き上げる。
シンガリを勤める若干16歳の信玄は300人の兵で奇襲をかけ、城を落とす。

ま、そんなお話でした。

そういうわけで、期せずして今回も歴史山旅の歴おやじとなった次第。

標高1400mにも満たない山脈で、もろ里山かと思いきや案外と気持ちのよい稜線歩きとなる。
まもなく山頂

城山山頂。3~4日前に雪が降って積もっていたので冬靴はいて行ったが、ほとんど解けていた。
山頂から別の尾根を下山。はっきりと道があるわけではないが歩きやすい稜線。
大芝峠からは車道を辿って駅に向かうが、崩壊が激しくて車は通れない状態。
3時間弱のハイキングで里に戻ってきた。

道中たった二つだけ見つけたフキノトウの味噌和え。

2022年新年じじい会

昨12月、二階さんから「忘年山行やろうぜ!」という声があったのだが、赤沼がちと忙しかったものでお流れ。
その責任をとって新年、山巡じじい会を企画した。

行先は北杜市須玉町の城址。今は廃道となった、自衛隊の切り開いた林道を行く。

メンバーは後期高齢者に突入した最長老そーのすけさん。なんと下又白谷の全貌をはじめて世に明かした記念すべき山行であった「下又白谷山巡稜」初登攀メンバーのひとり。
パン屋のわたべさん。下又白谷研究の第二世代の代表ですな。赤沼とともに下又白谷本谷の遡行や、菱型スラブの初登攀もやってます。今は温暖な小田原でのんびり暮らしてます。
で、二階さん。山巡としては快挙だった、カラコルム山群の未踏の7000m峰、トリニティーピークの初登頂時のサミッター。
それに還暦にして最年少、赤沼の4名。
オールドクライマー集合の図です。

いつもは山に登って山頂あたりで宴会ってのが毎度のパターンですが、時期的にとても寒いし、「高度500メートル以上、1時間以上の歩きはだめ」とか言い出す人もいるし。
諸々配慮して、先日歩いた源太ヶ城址を散策して、近くの赤沼別宅で宴会という企画をたてました。

大門ダムの擁壁上にでると八ヶ岳がきれいに見える。

昨年11月に初めて登った際は、自衛隊の切り開いた林道の末端が擁壁になっていて、大門ダムにまっすぐおりることはしなかった。
今回は大門ダムに車を停めて、擁壁のはしのほうから林道にあがることにした。

擁壁のはしのほうにはしごがあって急坂からダム上に出られる。


そーのすけさん。うん十年前から変わらぬ登山ウェアに注目!

わたべさんは昔から伊達でしたね~
源太ヶ城本丸址?山頂で記念撮影。
宴会は下山後って言ってるのに、どこからともなくビールが出てくるし。

そして赤沼宅で宴会はつづきます。

自衛隊の作った林道から、謎の山城跡へ–源太ヶ城

源太ヶ城(跡)は、比志津金山塊のはずれ、大門ダムのすぐ東南の山城。
甲斐源氏ゆかりの黒源太清光が築城し、武田時代に活躍した津金衆が本拠としていたらしい。
武田信玄の狼煙台のひとつがここにあったという。

地図、下方のウッドペッカーキャンプ場からまっすぐ北に歩いて行くと、自衛隊の作った林道に合流する。

この林道、大門ダムのすぐ南から始まって源太ヶ城の南をぐるっとまわって東から北に巻き込んで山頂直下の二の丸(?)あたりに至る約2キロの道。幅は6メートル程度らしいが、すでに廃道となって倒木やら草に覆われている。もっとも登山道としては申し分のない快適な道。

大門ダムからのスタート地点は法面保護の擁壁が作られていて、道が寸断されている。
つまりこの林道には入口がない。

そもそもなんでこんな道が作られたのか。しかもなぜ自衛隊なのか。

途上にあった自衛隊顕彰碑やら、共有地記念碑なるものにあった記述を参照すると経緯は以下のようになる。

山梨県が、入会地であったこの山の入会地の譲渡を受け、県有地とする。
そのうえで1973年、須玉町長が自衛隊に依頼し、道を作ってもらった。

山城による観光振興を狙ったのか、それとも国防上の深淵なる作戦なのか。まあ実際のところ観光狙って失敗したってところなんでしょうが、山頂付近にはまるでロケット砲(花火?)の土台みたいなものがいくつもあったりして、後者と考えたほうがなにかと楽しいですな。

さてウッドペッカーキャンプ場から自衛隊の道に合流したあとは、林道を行かず山腹に直接とりつき、まっすぐに山頂を目指す。

15分程度で稜線に至る。

山頂には祠があり、なにやら蘊蓄の書かれた板標がありますが、よく読めませんな。

山頂あたり

山頂の一角に廃材。以前ここにあったという狼煙台かな?

山頂の北西部で自衛隊の林道と出会う。ここは二の丸といったところか。

自衛隊の林道を下山

林道終点まで歩くと擁壁となって切れ落ちており、これ以上は行けなさそう。

2キロの林道をすべて歩いたが、入口のない林道なので、ウッドペッカーキャンプ場への道の分岐までまた戻り、下山した。

帰路、擁壁のあたりをよく見たら、草付きの林道あとのようなものがジグザグに伸びており、ここから林道入口に歩いて行けるかもしれない。

山巡思い出話

私が高校山岳部に物足りなくなり、山岳巡礼倶楽部に入部したとき、クラブを創立した高橋定昌さんは70手前。神田駅構内の喫茶店や、秋葉原のはずれにあったえびはらというレトロな喫茶店での集会にも顔を出されていた。
いつもおじいさんが二人いるな~と思っていたもう一人はたしか田中さんという方で、お二人ともジャケットに山巡のロゴをあしらったおしゃれなループタイといういでたちだった。お二人は孫世代の新人にとても優しく接してくれた。私がクライミングに自信をつけて生意気ばかり言っていたころ、田中さんにとって思い入れの強い谷川岳一ノ倉沢の2ルンゼに、もう一度登りたいと言われ、アシストを約束したのに自分のクライミングに忙しくて結局果たせなかった。これが今となっては大きな心残りだ。

このころの山巡は活気にあふれており、毎回個性あふれる人たちが集まってきては大声で会話が弾んでいた。ひとりチベット奥地の独立国ムスタンに潜入した高橋照さんにお会いしたのもそのころだった。
下町の山岳会らしく自営業や職人が多いなかでいつもばりっとしたスーツで集会に来ていた松坂チアキさんは当時の山巡を引っ張るリーダー的存在だったが、迫力がありすぎて近寄りがたかった。高校生から見たら中高年のおじさんだと思っていたけど、私が入会したころはまだ30代後半。ちょうど4年前の今頃、後立山近くで悠々自適のすえ、山釣りの帰途、駐車場で倒れて亡くなった。
チアキさん前後の世代の人たちが山巡のひとつの高揚期を作ったらしく、下又白谷の研究の中心でもあった。
下又白谷の下部本谷の概要をはじめて明らかにし、菱型岩壁の存在を世に知らしめた人たちともおそらくお会いしているのだろうが、残念ながら個人的な記憶にはあまり残っていない。その中心にあって下又白谷奥壁(当サイト内では前衛壁として紹介)の初登攀を行った檜山、山田ペアの檜山さんから先月突然連絡をいただいた。山田さんの訃報であった。
下又白谷の話をお聞きしておくのだった。

山岳巡礼倶楽部の部員バッヂ

さてまだ高校生だった私を山に連れて行ってくれたのは、当時20代後半から30歳くらいの現役部員。

そのころの部長、太田さんには谷川デビューをさせてもらった。ヒマラヤの登山を夢見て多くの資料を集めていたが、(たしか)仕事の関係で実現せず、それらの資料を遺品として残して6年ほど前に病没された。
下又白谷研究を再開させたパン屋のわたべさんと、昭和56年豪雪の槍ヶ岳で暴風に飛ばされた私を「どこ行くんだ?」とかとぼけながら止めてくれた二階さんとはいまだに「山巡じじい会」として軽い山登りをしている。

小野寺さん、川崎さん、国分さんはその後行方知れず。

結局山岳巡礼倶楽部としての最後の盛り上がりは、穂高徳沢をベースに、下又白谷の菱型スラブに3本のルートを拓いたあたりだったかもしれない。

私はその後、先鋭的なクライミングを求めて山巡を離脱。
やりたい放題のクライミングをした末、50代になってまた縁があってわたべさんや二階さんと再会。
すでに解散していた山巡の名前を成り行きで使わせてもらいはじめたのは、山巡に関わった多くの登山、多くの人々、歴史がそのまま立ち消えになるのはもったいないとようやく気が付いたから。
せめて名前だけは残そうとあらためて山巡を名乗って山登りをはじめたがはや私も還暦となった。
さあビッグネーム、どうやって残していったらいいものやら。

赤沼筆

佐久・五郎山マキヨセP2ルート再登

たまたまハイカーのブログで、その素晴らしい岩峰の写真を見て、通いだして早くも5回目の五郎山。
1回目:五郎山の偵察
2回目:五郎山ダイレクトルート開拓
3回目:冬のハイキングで五郎山(敗退)
4回目:マキヨセP2ルート開拓
5回目:マキヨセP2ルート再登
というわけ。

傾斜が強めで、命を守るプロテクションも取りにくい五郎山ダイレクトに比べて、マキヨセP2は比較的安全に登れて、岩登り自体も難しすぎず、なにより屹立したピークに向かって登っていく爽快さがある。(五郎山ダイレクトもその爽快さは同じですが。)
つまり、仲間とわいわい楽しく登るにはマキヨセP2はお薦めルート。

なんだか妙に楽しいルートになった。
何度でも行きたいと思う。

そもそも自分は山(岩)登りに何を求めているんだろう?
「より高き、より困難」?
まさかまさか。
もちろんそれを求めている人はいるだろうし、自分だって勘違いして追求した時期はある。そういう人を否定するつもりもない。むしろ尊敬する。
でも自分のクライミングの原風景は、なんかそれとは違うんだよな~。

今まで楽しい!と思った山(岩)登りは、たとえばドロミテの岩峰、旧ユーゴスラヴィアの石灰岩岩峰、西上州の岩峰群、スペインの砂漠化しつつあるワイン畑のまんなかに聳える岩峰、上高地から前穂高岳手前の真正面に立ち上げる尖った岩峰に至るリッジ・・・・なんだ全部岩峰だぞ?
つまりすべては下から見える美しいラインをつめあげて、その成果を肴に仲間と楽しく騒いだ、「クライミング」と「宴会」がともにある山旅ということになるらしい。

それとどうやらもう一つ、重要な要素があるかもしれない。

遊び場(プレイグラウンド)が、与えられ、整備された観光地でも登山道でもなく、持ってる情報が自分の目でみる視覚データに限られること。そこを自分の判断だけで自分で設定したルールに従って登っていく自由さ、潔さ、その自由が必然的に内包するある種の困難さや畏れを越えていく喜び。でも山と戦うとか、人と戦うとかそんな要素はまったくなく、ただひたすら山というフィールドと戯れる感覚が好きだ。

岩峰を登っている姿が客観的にイメージできるというのも楽しい要素かも。

そんな意味でマキヨセP2ルートは自分にとって理想だった。

開拓の相棒は長友さん。
ひとまわり若いクライマーだけど、志向性が近いらしく、私にとってはもはやランドマーク的な思い出となった前穂高岳東南面の美しいリッジの登攀記録に触発されて、そこを登りに行ってくれた人。それが縁で知り合った。
そして今回も、最近知り合ったクライマーたちとの最初のクライミング。
だから楽しいものにしたかった。実際楽しいクライミングとなった。クライミングを復活して、仲間が増えつつあるのも嬉しい。

開拓時は長友さんがリードした最初のピッチだけ、今回はリードさせてもらった。

この尖った先っちょがマキヨセP2の終了点、前回はこの上に立たなかった(座ったけど・・)。
今度はおそるおそる立ち上がってみた。あ、写真撮るのわすれた!
赤ヘルメットのミカさんは、半年ほど前にキャンプ場で行われた、彼女の結婚祝い宴会で知り合ったばかり。最終ピッチをリードしてきて、夫ジロさんをビレー中。

ミカさん、ジロさん夫妻と同じ山岳会に属するI口さんとは今回はじめて知り合った。同じ世代、同じ仲間を共有することもあって話が弾んだ。
家で待ってた妻も加わって宴会開始。


比志津金山塊・笠無

笠無(1,476m)は比志津金山塊の最高峰。なぜか笠無山ではなく、笠無と呼び捨ての山で、一般的な地形図には登山道も山名も記載されていない。
実のところ、比志津金山塊自体がほとんど知られていない山脈であり、ここで山名が記載されているのは先日たまたま登ってみた斑山くらいのものらしい。
それにも関わらずネットで検索をすると結構な数の登山者が訪れて(といっても篤志家には違いないが)いるようで、地図に記載のない山名がわかるわけだ。
八ヶ岳、南アルプスをはじめ屈指の山岳展望が得られることに加え、縄文時代の遺跡が多くでてきたり、「甲斐国誌」に記載のある棒道や穂坂路にはさまれた文化的、歴史的にも重要な土地であり又、きのこや山菜、美しい広葉樹や松林などにも恵まれた自然の豊かな地域であることもたしかだ。

今回の目的は比志津金山塊の最高峰「笠無」に登ること。
確たる登山道こそないが、この山に至る踏みあとは縦横無尽にありそうだ。登山者の記録によく名前の出る「比志の塒」、「摩利支天」、それに笠無に近い重要な文化財でもある海岸寺の裏山「海岸寺山」もはずせないということで、これらを横断するルートを想定してみた。

今回は岩登りの仲間4名。とは言ってもクライミングだけでなく、山登り全体の好きな大人の集まり(?)で、里山ハイキング案にもすぐに同意してわいわいと行くこととなった。
車が2台あるのを幸い、一台を下山予定の海岸寺近くにデポする作戦で行く。海岸寺からは林道、比志海岸寺線を塩川ダム方向に向かい大尾根峠(地図に名前はない)から尾根を北上することにした。

大尾根峠に車を置いて登山開始。伐採後に残る踏みあとを辿る。

稜線に出たら、笠無と逆方向に向かい「比志の塒」を往復。
比志の塒には山名の書かれた板があったようだが、腐りかけていて判読不能。
摩利支天ってどんなところ?と思っていたが、岩の上に摩利支天と書かれた石碑があった。
ここはなかなかの展望ポイントでもある。
笠無山頂

笠無までは比較的はっきりとした踏みあとがあり、あっさり山頂に至る。
ここから先は尾根筋のはっきりしないところも増えてくる。南に下る尾根には踏みあとがいくつかあり、迷い込みやすい。文明の利器GPSを駆使して方角を定めて行く。
それにしても気持ちのよい山だ。新緑の広葉樹にほぼ覆われており、ところどころが松林となっている。きのこ類も多く途中できくらげを収穫。
多少道をはずしても藪はそれほど深くないので、自由自在に歩ける。
山容も変化に富んでおり、歩いていても飽きがこない。

本当にいい山だ。

道中珍しい道標。だがこの先踏みあとははっきりせず、結局地図とGPS頼りになる。
樹林のなかを自由に歩き回る。いつの間にか笑っている人、歌を歌いだす人。多幸感に包まれる人。
海岸寺山まで約4時間の道のり。海岸寺はもうすぐだ。

穂高・下又白谷菱型スラブについて

手元の山日記では、下又白谷菱型スラブの初登攀をしたのは1980年8月2日となっている。
当時、日本での岩登りといえば、第二次RCC著となる「日本の岩場」というルート図集が唯一体系的な情報であり、下又白谷の項には黒びんの壁と菱型岩壁のみが掲載されていたと記憶する。(黒びんの壁はJECCによりR1, R2などと紹介されていた。別称、下又白壁または白又白壁とも言われる。)
菱型岩壁はその中でももっとも登攀の困難な岩壁のひとつとされていた。
下又白谷は穂高のなかにあってもっとも急峻な岩壁に囲まれたエリアであることは事実であるが、「日本の岩場」における、菱型岩壁に関するおそろしげな記述も、下又白谷=悪絶というイメージに貢献していたかもしれない。

山岳巡礼倶楽部、わたべゆきお氏作成の菱型岩壁周辺写真

さて、わたべ氏が目をつけた菱型岩壁左のスラブ帯の登攀は、それまで下又白谷の地域研究に取り組んできた山岳巡礼倶楽部の1980年夏合宿のテーマの一つとなっていた。

以下、手元のノートから記録を転載する。

1980年8月1日
わたべ氏と徳沢入山

8月2日
下又白谷F1洞穴ルート開拓~F2~菱型ルンゼ~菱型スラブ下部開拓~壁内でビバーク

下又白谷本谷の遡行をするつもりで徳沢より入山。
F1前壁JECCルートはとらず直登ルートを作るべく、JECCルートより右のバンドに取付く。非常に悪いフリー2P(Ⅴ+)を加えた5-6Pで終了。F1上に立つ。ボルト2本、ハーケン約10本使用。
F2を2Pのフリーで越え菱型ルンゼにはいる。
菱型岩壁の左側に展開する3本のスラブへの登攀を試みる。フェース2P終了後、Ⅲ~Ⅳ級のスラブを10Pほど攀り、Ⅴくらいの草付き交じりの岩場を超える。そこで暗くなったので1本の灌木にまたがってのビバーク。水なしのつらいビバーク。

8月3日
ビバーク地上部の草付き(Ⅴ+)を登り、ルートの概念をつかむ。
スラブは3本あり、右寄り1スラブ、2スラブ、3スラブと名付ける。登ってきたのは1,2スラブの中間リッジとなる。2スラブはビバーク地点あたりで傾斜を増し、垂直となっていたので中間リッジに逃げたのだ。
ビバーク地点からは2スラブにおりず、草付き帯を行く。さらに約10Pで登攀終了。はいまつの藪漕ぎで茶臼の頭に至り、奥又経由で徳沢に下山。

赤沼の山日記より

この後、8月5日には下又白谷正面壁中央稜を途中まで登っている。

1980年のルートは山巡ルートとした。この図は「岩と雪」誌に掲載したもの。

さらに翌年1981年の夏合宿で、第2スラブの直登ルートおよび第3スラブの初登攀を行っている。

1981年8月8日
屏風岩を登っていた赤沼、津賀は徳沢に移動。今日入山してきたわたべ、小野寺、赤塚、宮本と合流。

8月9日
全員で下又白谷F1偵察。
雪が多くF1は右端を楽に登れる。フィックスも発見。バンド上に1P新しいルートを伸ばす(注:意味不明)

8月10日
わたべ、赤沼、津賀、赤塚で下又白谷菱型スラブ2スラブを初登攀。山巡ルート開拓の際逃げたルンゼを直上して2スラブに入る。このピッチはⅥ級以上あった。

小野寺、宮本で3スラブを初登攀。
(注:こちらも「岩と雪」誌に掲載したはずだが見つからず)

赤沼の山日記より

下又白谷菱型スラブ山巡ルート開拓についての、わたべ氏の記事も紹介しておく。これは山巡の新人募集冊子に掲載したもの。

◎ 穂高岳下又白谷下部菱形スラブ初登攀(抄)
            わたべ ゆきお

・・・・時刻は八時になっていた。ライトを出しビバークの準備を始めるが、ビレーをしていた所は、二人がしゃがみこむにはあまりに狭すぎるので、細いリッジを五mほど下った所に場所を見つける。ブッシュとブッシュの間にもぐり込むようにして、坐り込み身体をブッシュにくくりつける。私たちがはい上がってきたのとは反対側にもルンゼ状のスラブ(第一スラブ)が走っており、そこまではすっぱりと切れている。リッジの上方はブッシュを混じえた露岩がかぶさっており、下方もブッシュのついた鋭いリッジで、すぐ空間に消えている。つまりは、四方がすべて急峻であって、平らな所はどこにもない。ここまできては、もう下降は考えられず、登り切るしかないのだが、どうなることやら・・・・。
曇天のせいかそう気温は低くないようだ。私は軽羽毛服を取り出し、下半身だけシュラフカバーに沈める。ツェルトはちょっと使える場所ではないし、雨でも降らない限りはいらないだろう。空腹感はそれほど覚えはないが、水のないのが何よりもつらい。
赤沼が「横尾の灯が見える」と言ったのは、横尾ではなく、徳沢だった。夜の森の中にポッカリと徳沢園や天幕たちの明かりが、みじめなビバークの私たちの目の下にあって、それはまるで幸福の定義そのものだ。清冽な水があふれ、ビールやウィスキーのボトルが並び、歌声がしみ出し、それに時折り少女たちの歓声が混じり、花火だって上がるかもしれない。だが、私たちは・・・・。
足先の方が下っているので、ともするとずり落ちて行く。
「上の方も悪いですよ・・・」赤沼が不安を隠さずにいう。さらに、冗談とも本気ともつかずに「これをいい機会に山なんかやめようかな・・・」ともいいだす。「山をやる理由なんかないんだ。別に山でなくても・・・・」
私はいうべき言葉を持たず、ひたすら少しでもマシな体位を求めてセッセと身体を動かす。いままでのいくつもの経験で、意志と、時間と、そして・・・・そういったものが、すべてを解決してくれるのだ。昭和残侠伝(唐獅子牡丹)の高倉健だって、修羅場をいくつもくぐり抜けて立派なヤクザ屋さんになっていったのだ。またフランスのおじさん(サルトル)は「経験には死のにおいがする」といったし、「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それこそが、賭ける者、戦う者の宿命と名づけられるべきなのだ」とは寺山修司の競馬エッセイによく引用されるウィリアム・サローヤンの言葉だ。要は、運のいい男には人生の終わりよりもルート・登攀の終わりの方が先にやってきて、運が悪ければ、平田や上村のように激しく短い生を終えて夜空輝くお星さまになれるのだ。
夜半、月明かりで目が覚める。半分にも満たない欠けた月だったが、それでも人っ子一人いないこの下又の岩の大伽藍を銀色に浮び上らせるには十分だ。それまで、私は夢の中なのか、それとも実際に身体がずりお落ちたのか、何度も墜落感を覚えてギクっとした。光速でもってブラックホールの中に、私の幼児期の混濁した意識の海の暗黒の中に、収束していくような、ひどくメタフィジカルな、パスカルの深淵のような、メチャクチャ冷汗感覚。
——朝は、もう今すぐくるべきなのだ。
私のビバーク。私の《山》。五彩のトキ。—–心配無用の日々だけがあって、鋭さを持たぬために、瞳孔はやや開きかげんで、抒情は水分を失い、鮮やかな色彩も、急激な気温の変化も、熱すぎる眼差しも危険すぎる街での曖昧なゼリー状のトキ——こいつらを束ねて葬り去るのが、私の《山》でのトキ—–だ。
ようやく、私たちにプレゼントされた夜明けは、重そうな鉛色をしたそれだった。蝶や大滝の稜線には、「ネズミの心はネズミ色、悲しい悲しいネズミ色」の雲たちがザブリとかむさっていた。だが、アリスの歌にもあるように「狂った果実には、青空は似合わない・・・・」(狂った果実)のであって、空が泣き出す前にと、早々に腰を上げることにする。五時だった。
出発前に、昨日の残りのパンとビスケットの一かけらを口に放り込んでみたが、全然唾液がわいてこず、とても喉を通るものではなかった。どんな極上のワインやコニャックよりも、今は《水》だ。私たちのすぐ背後のはずの奥又の池まで行けば、岩の間からしみ出す冷たく甘美な水が涼し気な音を立てているのだ。
赤沼、トップで目の前のブッシュの付いた露岩に取付く。やや、かぶさっており、悪い。彼はその三m程をかち取ると、リッジ上を直上するのではなく、左へとブッシュの中をトラバースして行った。二十m。私がこのブッシュでうるさく、腕力を酷使するピッチを終えてトップの所まで行くと、もう容易とのことだった。すぐ左側には、私たちが突破すべきだったルンゼの涸滝落口が見え、下からは全く予想もし得なかったルンゼ状スラブが真直ぐにのびている。難しそうには見えないが三~四ピッチはあろう。今となってはリッジに逃げてしまったことが悔まれる。
ブッシュを再びリッジ上へ登ると、易しい岩稜となった。左に第二スラブ、右に第一スラブを眺めての登攀である。第一スラブの方が二スラよりも急峻で、よく磨かれていて美しい。登攀自体も難しいだろう。第一スラブはピナクル状の小岩峰で二股になっており、右が本流で菱形岩壁の頭の裏側方面へとのびている。
階段状のリッジを登ると、畳二枚分程の完璧に平らなテラスに出た。ここでビバークをしていれば、二人で楽に横になって寝られたはずだ。ここから目の前の快適な岩稜を三十m程登り、このリッジがピナクル状になる手前で、右に出て、第一スラブの左股ともいうべき小さなルンゼのつめの中に入る。もうすでにここは草付で、さらに草付とブッシュの中を百mくらいも登ると、茶臼の頭へと続く頂稜に出て、広大な下又白谷の上部と前穂の東壁等が望まれた。私たちの待望の、本当の終了点—–そいつが今、私たちの足の下になったのだ。ルート選定には悔まれる点が残ったとはいえ——注:翌年(1981年)第二スラブルートの初登に成功した—–、未踏の、本谷F1の手前から数えれば、二十ピッチを越える私たちの、私たちだけにしか見えない一本のラインがくっきりと引かれたのだ。
一秒でも早く、甘やかな、ココロの内側にまでしみ込んでくるであろう《水》に到達するために、ザイルだけを巻くと、すぐにうるさく繁茂したハイ松の中を池を目指して歩き出した。茶臼の頭は指呼の間に望まれるのだが、踏跡の全くないハイ松こぎには辟易させられる。時折、ハイ松がジンの香りとして強く香る。バテバテになりながら、茶臼の頭には出ずに、トラバースの藪こぎをして、直接池から下又白谷への下降点になるコルに出た。いつもの柔和な面をたたえた奥又白池と人間たちのにおいのつまった天幕たちが眼に飛び込んでくる。私たちは水場に直行し、前穂の私たちに対する友情あるいは好意ともいうべき珠玉の水に口づける。We could drink a pond of water!だったのだ。「生きて帰れた!」などとジョークをいいあい、赤沼と完登の握手をかわす。朝の九時だった。
ビール壜百万本ほどの水を飲み終えると、私たちは雨の降りだした中畑新道を徳沢のウィスキーのもとへと幸福な気持ちで下って行った。

山岳巡礼倶楽部入部のしおりより

黒曜石の露頭を求めて冷山

「あと15年で設立100周年」となる山岳巡礼倶楽部。
どんどん部員が高齢化する山巡の活動は年1回程度のハイキング&山宴会が恒例化しつつあるのみ。

「次の活動は八ヶ岳の知られざるピーク冷山付近にあるという、謎の黒曜石巨大露頭を探索に行こう!」
と言い出したのは、山巡にあってその緻密な調査力とこだわりの強さで一頭地を抜くわたべ氏。ちと面倒くさいタイプとも言うが、そのおかげで下又白谷のウエストンリッジというユニークなルートが発掘(開拓でも登攀でもなく発掘と呼ぶのが似合う山登りでした)されたのも事実。わたべ氏は「ついでにバードウォッチングがどうしたこうした・・・」とも言うがそちらは完全スル―。

要は楽しくハイキングでも探索でもやって、その話題を肴に楽しく飲めればいいやというのが本音の山巡じじい会にとっては、それはある意味最高の提案であった。奥様から「じじいは無理しないっ」とストップのかかった最高齢のSさんが不参加となり、今回はわたべ氏、二階氏と私の3人のみ。ちなみにヒマラヤカラコルム某ピーク初登頂時のサミッター二階氏は、「翌日は天狗山ダイレクトか瑞牆山本峰正面壁でクライミングな」とか言うので、納戸の奥からカビのはえたロープやらボルトキットやら引っ張りだして持って行ったのに、本人は「クライミングシューズ捨ててしまったのでズックで登れるかな?」とか言ってるし。山巡おとぼけじいさんずとでも呼び名変えようかな~

まずは冷山山頂に向かう。

早朝都内某所で集合。一路、麦草峠へとドライブ・・・・のはずが、近づきつつある台風の影響で通行止め。大回りして現地についたときは昼をまわっていた。
前夜あたりからようやく始まった黒曜石露頭探索の作戦会議で、まずは冷山の山頂に立ち、しかるのち、ターゲットに向かう踏みあとがあるはずだから車で探すという方針が決まったばかり。
麦草峠近くに車を停め、狭霧園地から渋の湯への踏みあとへ。冷山へは登山道がないが、GPSを頼りに途中から踏みあとをはずれて小一時間であっさり山頂に至る。

冷山山頂

この辺一帯は北八ヶ岳らしい苔むした露岩と樺類の疎林に覆われた気持ちのよいところ。歩き始めが2000mを超えていることもあって標高2193mの冷山までも楽な行程。
山頂は見晴らしもなく、さあこれで酒の肴(話題)もできたし帰るか~というとき、樹に張られたテープに「至る 冷山黒曜石」の文字が・・・
もう昼も回っているし、今夜の宴会場になる山梨の私の別宅にドライブする時間などを考えるともう引き上げたいところ。「悪いものを見つけてしまったな」と思いつつも、同じピンクのテープをたどると、わたべ氏が黒曜石露頭があると予想していた方向にまっすぐに向かっている様子。

結局、現場興奮症の二階氏を先頭にどんどんと斜面を降りて行くこととなった。わたべ氏の予想が正しいと黒曜石までは標高200-300mは下りていく必要がある。地図を見るとそこまで下りて行った場合、うまく国道に戻ることはできず、同じ踏みあとを冷山山頂まで戻ることになる。

大声で二階氏を制止し会議の結果、黒曜石は今日は無理と判断。少し登り返し、途中からGPSを頼りに麦草峠方向に山腹をトラバースして最初の踏みあとに合流することとなる。全身泥まみれのやぶ漕ぎで踏みあとになんとか帰着し無事麦草峠に。
地図を持たない二階氏は、そのまま斜面をおりて黒曜石を見たら、近くの国道に出て待っていれば、赤沼が車をとりに行くだろう( ^ω^)・・・という不埒な考えをもっていたようで。

探検終了後の宴会

戸隠山

息子との恒例夏山登山ですが、やつが忙しくてしばらくぶりとなりました。
今回は一日だけのハイキング。
息子は「クライミング」がいいね~と言いますが、最近登ってない自分が初心者のビレーで登れるようなところはほとんどもう行っちゃってるしね。
迷った結果、自分自身もまだ登ったことのない戸隠山に行ってみようとなりました。

 登りだしから結構岩場だらけ。

クライミングではなくただの鎖場ですが、鎖を使わず登ればそれなりのクライミング。
父ちゃんは鎖つかまりまくりで手抜き登山やってますが、息子は一切鎖には触らないと決めているらしい。

さていよいよ難所と言われる「蟻の塔渡り」ですが・・・
(動画。音がでますよ)

蟻の塔渡り
蟻の塔渡りのつづき

はい。息子にはお遊び気分だったらしい。
まああっさりと山頂に到着しまして。

でも実はここからの稜線が気持のよいところでした。

岩壁と、湧き上がってきたガスと、高山植物のコントラストが絶妙です。

実は沢沿いの下りが技術的にはもっとも悪かったりしますな。
お昼までにはあっさり下山しましたが、戸隠のこのあたりって山深くて、開けていて、深山幽谷の趣っていうんですかね。いいところでした。

お散歩シリーズ第11弾・箱根屏風山(948m)山巡ハイキング部小田原支部

2016年6月14日 (わたべ)

今回はまさにお散歩で、家を10時過ぎに出て、12時5分前箱根関所跡から登り始め、12時40分山頂、のんびり下って13時半下山地点の旧東海道甘酒茶屋へ。
 このコースは、芦ノ湖の湖畔にあるにもかかわらず、湖の眺望は全くなく、前回の長九郎山のように渓流があるわけでもなく、ただひたすら樹の中を歩く。頂上も同様で、標識が立っているだけの薄暗い樹木の中。森林浴と数多い種類の木々を愛でるコースといってよいだろう。創価学会員が仏壇に飾るシキミという樹木の実物を初めて見た(小さな名札がつけられているが古く読みにくいのも多い)。「屏風」というと穂高の屏風岩を思い出すが、このコースはそんな切り立ったところも岩場も全くなく、1か所階段状の急登があるだけで、長九郎山のような落ちれば死ぬかもしれないような所もない。頂上の説明書きには、須雲川沿いの屏風のように切り立った岩壁から命名されたとあるが、4枚目の写真の甘酒茶屋前のものがそれか?小さくてあまり迫力はないが。
 甘酒茶屋はなかなか雰囲気があり、1杯400円の甘酒もいける。砂糖を使っていないのに、発酵した麹だけでかなり甘かったのが不思議だった。帰りはここから旧東海道をバスで湯本まで下ったが、七曲という所は急勾配とヘアピンカーヴの連続で、日光のいろは坂のようだった。次はこの辺りの旧東海道石畳の道を歩いてみたい。

Page 3 of 4

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén