アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

カテゴリー: 山行報告

海谷・海老嵓南壁くの字ルンゼ

2011年10月8日(赤沼ほか)

はるか昔、雨飾山から遠望して以来、いつか登ってやろうと思い続けてきた海老嵓南壁についに登ることができた。
ルートとしてはさほど難しくもないこの壁がなかなか登れなかったのは、自分自身が山から久しく遠ざかっていたこともあるが、海谷の最奥であるという立地によるものもあったと思う。
冬は雪崩の巣。夏は沢筋の水量が多く渡渉困難。
となると春に残雪を利用してアプローチするか、沢の水量が少なくなった秋の沢筋をそれでも渡渉を繰り返しながらアプローチするしかない。
2009年ゴールデンウィークにここを訪れた際は、もう少しのところでスノーブリッジが渡れず敗退し、船浦山東壁を登ってお茶を濁してきた。もっとも登攀的には船浦のほうが難しいのかもしれないが・・・・

今回は沢登り装備でばっちり決めてのアプローチをすることにした。

晩秋の海谷に降り立つ。

沢筋はまだまだ水が多い。冷たい水の中を渡渉を繰り返して行く。

秋深しといえども水量は豊富


海老嵓の岩壁に迫る。写真は西壁。

くの字ルンゼの基部に立つ


ずっとこんな感じのスラブ。支点はほぼない。

くの字ルンゼは下半部で悪い滝をいくつか越えるところが技術的には核心。
上部ではスラブが開け快適なフリークライミングが楽しめる。ルートの選定さえ間違えなければすっきりと抜けられる。

くの字ルンゼ全景。

海谷はスラブ壁の宝庫。

海谷はよいところ。また訪れたい。

下又白谷ウエストンリッジ

下又白谷上部一尾根第一支稜「ウエストンリッジ」

2011年9月23日(赤沼ほか)

ウォルター・ウエストンが前穂に登った際の足跡を追って、1985年10月に登った下又白谷上部の第一尾根第一支稜を再登してみました。
今回は史実調査だの、過去へのロマンだのといった雑念なしでも、ここは十分に楽しめるアルパインルートということで、今回は登攀自体を楽しもうという意図での山行でした。


下又白谷の全容についてはこちらを参照

当時の登攀はおそらく初登ではないと思われるが、便宜的にウエストンリッジと名付けたので、ここではそれで通させていただきます。


明神の養魚場からひょうたん池への踏み跡をたどる。左手に明神5峰の岩場が見えてくるとひょうたん池は間近。


ひょうたん池からウエストンリッジの擁する前穂3本槍を望む。
このまんなかのリッジが目的のルート。

ひょうたん池からは明神東稜を登り、岩場の始まるあたりから下又白谷側に下降をしていく。
滝を懸垂でおりれば下又白谷本谷に降り立つ。

下又白谷本谷におりたって下部を見下ろす。
この下には雪崩に磨かれた大きな滝5つを擁する渓谷、本谷下部がある。

上部左手には明神東稜につきあげる側壁群が立ちはだかっている。この壁はその一番下部で、山岳巡礼倶楽部の大先輩がたがかつて登った奥壁(実質は前衛壁)と思われる。

下又白谷上部は至るところに岩稜や岩壁が広がる。まさに岩の墓場というにふさわしい容貌。

ここから上部へのアプローチは急なガレ場が続く。

ウエストンリッジの取りつきが見えてきた。

三角の岩壁の右側、草付きの稜線から登り始める。

リッジの上部

リッジの左手、明神側にも無数の岩壁や岩稜が連なる。これらのうちかなりの部分が未踏と思われる。

明神岳の下又白谷側側壁。

のちに登って、下又白谷奥壁とした。

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上部第一尾根の側壁。

ウエストンリッジより背後を振り返る。

下部には奥又の池が見えてきた。

やっと岩稜上。ここからは快適な登攀となる。クライミングのレベルとしてはかなり原始的ではあるが、滝谷の4尾根を長くしたような感じ。

快適な岩稜。
ロープをつけたりはずしたりしつつ高度を稼ぐ。
とがった終了点からは間もなく前穂山頂。

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穂高岳畳岩

岳沢から入山。
取付きまではまだ雪が残っている。
一面に広がる畳岩をルートを適当に選んで登っていく。このあたりの自由度が爽快。
とくに難しいところもなく軽快に高度を稼ぐ。
少しずつ高度感がでてくる。

1ピッチだけロープをつけて登る。
畳岩の全貌

穂高・下又白谷菱型ルンゼ

1980年に山岳巡礼倶楽部のわたべ、赤沼で初登攀した菱型スラブを再登しようと下又白谷に入谷したが、雷雨にやられて意気喪失し菱型ルンゼを登った。

下又白谷全景。7月はまだ雪渓がだいぶ残っている。

菱型スラブは菱型岩壁左方に広がるスラブ壁で、おおむね3本のスラブからなる。アプローチは菱型岩壁と同様、下又白谷本谷のF1とF2を超え、そこから左に向かう本谷と別れて菱型ルンゼに入ることとなる。菱型岩壁と菱型スラブはこの菱型ルンゼ右岸の岩壁ということになる。
下又白谷下部に入山する際、常に難関となるのがこのF1の突破だ。
問題は雪渓のつきかたにある。
ここを何度となく越えた感想を言えば「雪渓が多ければ楽勝、少なければ大変、中途半端は最悪」となる。
通常は7月に入ると雪渓が切れ、F1が顔をのぞかせる。
そうなると雪渓上を行くことができない。
F1の右壁(左岸)、左壁(右岸)ともに雪崩によく磨かれたスラブ壁。
菱型岩壁を登ったJECCチームの記録ではたしか右側の岩壁を何ピッチかのクライミングで越え、菱型ルンゼ内に懸垂で下降していたかと記憶する。(間違ってるかも)

下又白谷に入谷すると谷がF1前壁にあたったところで、右に屈曲しその先がF1となる。

F1前壁は明神東稜に伸びるスラブ壁を擁し、その右壁がF1の左壁へと連続してつながっている。
F1左壁にはちょうどF1落ち口へとつながるバンドがあり、このバンドにあがってしまえばF1の登攀は容易となる・・・・が、この付近の雪渓のつき具合次第なのは言うまでもない。
菱型スラブ初登攀時は、このバンドにあがるべくだいぶ手前(前壁より)から登り始めてしまったため、数ピッチの非常に危険な登攀となった。恥ずかしい話だが、節理のない脆壁をランナウトした挙句行き詰まり、顔をホールドに押し付けてバランスをとりながら頭上でボルトを打つという離れ業を演じて九死に一生を得るという思いをした。ここはF1洞穴ルートとして「岩と雪」誌には発表したが、だれも登らないだろう。

下又白谷本谷下部から。正面がF1前壁。ここから右に屈曲した先がF1。
F1手前の雪渓を登る。右に見えてるのがF1前壁(F1左壁)。
F1左壁。雪渓がもう少し少なければバンドを拾ってF1上にあがれる。

ここで左壁についてまとめると、F1落ち口に雪渓がのっていなければ左壁のバンドを拾って登るのがもっとも容易だが、雪渓の量により取付きの位置がかわるのでルートをあらかじめ設定することは不可能ということになる。
さて今回はF1落ち口にまだ不安定な雪のブロックがひっかかっており、左壁からの登攀は無理と判断。ひっかかったブロックをおそるおそる登ることも考えたがリスクが高すぎ。
いったんあきらめかけたものの、右壁に雪渓が近づいているあたりから岩場にうつれそうな場所を見つけた。ここから雪崩で磨かれた、節理の乏しいスラブ壁に、砂利がのった状態のおそろしいバンドを拾いつつ左上していくと、F1のすぐ上右側に屈曲した地点にあるF2の右壁の中間に出た。
本来のF2登攀ルートは右壁の水流近くだが、それよりも右よりにでたためそのままF2右壁を直上。あいかわらず砂利つきのスラブ壁でいやらしいが、なんとか高度をあげていくと、いきなりの雷雨。
クライミングに夢中になっていて雷雨の襲来に気が付かず、手遅れとなって思い切り濡れる。
構わずロープを伸ばすが傾斜がだんだん強くなってきて、このおそろしいランナウトピッチをまたしてもクライムダウンする。
ここでいったんパートナーを迎え、小さなバンドでやむなくツェルトをかぶって雷雨をしのぐが、びしょぬれで寒くて、立ったまま震える。

ようやく雨があがり、F2落ち口の上のほうにつながるバンドをトラバースし、ボルトを打ってここからF2上部(すでに菱型ルンゼ内)に懸垂下降した。この時点で敗退ルートは絶たれたことになる。

F2上部、菱型ルンゼ内でビバーク。雪渓の端っこの狭いレッジでツェルトはまともに張れない状態。びしょぬれで寒く、ほとんど寝られないまま朝を迎える。(山なめすぎて、着替えなし)
ビバーク地点の真上に菱型岩壁が聳える。

この菱型岩壁の左壁が目的の菱型スラブだが、このビバークで完全に戦意喪失し、このまま菱型ルンゼをつめることとする。
菱型ルンゼは菱型岩壁に沿って(菱型岩壁は菱型ルンゼの右岸となる)茶臼尾根に続く沢で、通常は快適な岩登りのできる枯れ沢だが、この時は雨が降ったせいで水量の多い沢となっている。
沢登りは想定していなかったため、水流のなかをクライミングシューズで登るはめとなった。かなり激しい水流のためカメラがやられ、ここからは写真なし。
菱型ルンゼはやがて茶臼尾根手前でスラブ壁となり、節理も少ないためランナウトピッチが続く。
茶臼尾根にでたらはいまつの藪漕ぎで奥又の池に出て登攀終了となった。

佐梨川金山沢奥壁第二スラブ

2010年6月10日(赤沼ほか)

佐梨はやばい。
誰からともなくこればかりを聞かされてきた気がする。
一度は登ってみたいが、二度行かなくてもいいか・・・というびびりモードで、なかなか足が向かなかったのだが、年長の熱血クライマーHさんから誘われて、ここが行き時か・・・と出かけることにした。

アプローチが案外とわかりにくい
奥壁がせまってくる

この雪渓が登るのにちょうどよくなるのが6月ってことで、この時期限定の登攀。

雪渓からスラブに取りつく。
スラブ自体はそれほど難しくもなく始まるが、だんだんに傾斜がまし、草付きが混じってきたあたりからいやらしさが増してくる。
これこれ。これが佐梨のいやらしさってやつだね~と納得しつつロープを伸ばす。


支点の甘さ、ルーファイの難しさなど、たしかに総合力を必要とする壁なのはたしかだが、一歩一歩淡々とこなしていけば、登れない壁ではない。ただ集中力は結構いるのね。
やがてスラブは傾斜を増してくるので、垂直の草付き尾根に逃げる。
ここからがとにかく体力、気力総動員のクライミングとなります。


てなわけで、想定通りへとへとになって国境稜線に抜け出て、ばてばてで歩いていけば小屋だわ~

伊豆雲見・烏帽子岩直上裏参道

2010年5月(赤沼ほか)

烏帽子岩は伊豆西海岸の雲見崎の海から屹立する162mの岩峰で山頂には雲見浅間神社が祀られています。
雲見漁港側からは急な階段を登って神社にお参りすることができる。
この裏手にあたる海岸からの岩壁を登って、神社の裏側に出るルートが「直上裏参道」だ。
後日2016年にここでクライミング中の事故があり、登攀禁止となった。
残念な事態であるが、これだけ未開のルートについての情報が近年広まり、誰もが登るような状態になっていたことを考えると、やむを得ないかとも思われる。

取りつきへは神社への階段途中からトラバースしていくが、途中崩壊しつつある岩場を懸垂で下るところがある。
ここは実際危険な感じがあり、最新の注意をもって下りたが、実際に崩壊の危険を感じた。
後日の事故はここで発生したらしい。

崩壊箇所の懸垂。
足元の岩が崩れやすく、足元に気を配らないと自分の起こした落石でケガをしそうな感じ。

岩場は急だが手掛かりは豊富。
カムで適当に支点を取りながら登る。
岩がもろくて危険と言われているが、整備されていない岩場としては普通程度。
案外登りやすいレベル。

名勝、千貫門が足元に見える。

最終ピッチは神社で終了。
高度感ある快適なスラブで終了

太刀岡山鋏岩左岩稜(一部ルート開拓)

2010年4月10日 (赤沼ほか2名)

快適な岩稜ルートとして有名になってきた左岩稜だが、海谷での登攀を想定したルート開拓練習として出かけた。
今回のテーマはルートを「より易しく登る」である。

下部3ピッチは通常はクラックを登るが、正規ルートより左の露岩と木登り交じりの壁を弱点を選びながら登った。
意外に急傾斜だが木がはえていてプロテクションには困らない。
垂直のフェースにあたったところから右に回り込んでいくと、木も減ってきてカムの効くフェースとなる。
いったんルンゼ状になったところから、右手に顕著なピナクルを目指して登っていくと正規ルートの上に合流。

あとは楽しく左岩稜を登って終了。

西上州・毛無岩「ボレロ」開拓記(昔話)

「西上州に未踏の大岩壁あり。」
そんな情報が出回ったのは、今にして思えば当時クライミングジャーナル誌編集長だった吉川栄一氏の仕掛けだったように思う。
なんであれ、この仕掛けに乗っかって、多くの関与者とともに楽しい一大イベントの一角をなすことができたことには感謝せざるを得まい。

毛無岩の全貌。左がボレロ、右が烏帽子岩直上ルート

吉川氏は有能な編集者であり、かなりの奇人でもあった。記憶が曖昧だけど、たしか白山書房(クライミングジャーナルも発行)の「フォールナンバー」という沢登りと渓流釣り専門誌の名物編集長だったと思う。どういう経緯でクライミングジャーナルの編集長になったかは忘れた。
その奇人吉川氏が、クライミングや沢登りの世界の奇人変人を集めて「同人 栗と栗鼠」というふざけた名前の会を設立した。赤沼がその創立メンバーに選ばれたのは光栄と言うべきなんでしょうね、きっと。
思い出せるメンバーは、ウォータークライミングの黒田薫氏、アイスクライミングの広川健太郎氏、東京マタギの深瀬信夫氏、沢登りの先駆者高桑信一氏、名前思い出せない(たしか牧野氏?)けどやぶこぎのスペシャリストもいたな~。
同人 栗と栗鼠では激流を泳ぎ登るウォータークライミング大会を企画したり、あほなことばっかりやっていた。
吉川氏が「西上州に残された最後の未踏大岩壁」情報を広めたのは、その同人 栗と栗鼠がらみの遊び心で仕掛けたイベントだったのではないかと、今では想像しているわけですな。
この初登攀イベントには何人かの著名クライマーが関わったと聞きます。
結局、言い出しっぺの吉川氏を中心とした栗と栗鼠チームと、東京白稜会で甲斐駒ヶ岳登攀の第一人者、恩田善雄氏のチームにより1986年5月18日、同日に2本のルートが開拓されることで終わった。

毛無岩はここ

毛無岩へは下仁田からアプローチ。南牧川沿いの道を砥沢の先で線ヶ滝方面に星尾川沿いの道に入り、道場という集落の神社裏から登山道となります。神社裏の川におりると対岸に踏みあとがあるので、ここを辿ります。
この河原、今はだいぶ荒れてしまってますが、1985年当時はちょうどよいテントサイトになってまして、ここがベースとなっておりました。
勝手に名付けたここ「お毛ケ河原」に最初に集合したのは1985年11月23日。この時は総勢7名の宴会山行。登ったのはゲストで呼んだクラブ ポリニエの売り出し中若手クライマー、今は亡き小林一弘(その後ヒマラヤ・メルーで遭難死)と赤沼だけ。ボレロの下半分を開拓したところで時間切れ。翌日は雨で敗退してます。この時恩田チームもたしか一緒に宴会してました。
第二回は翌1986年4月5日。この時も河原にはわれわれ6名のほか、恩田チームもまた一緒。仲良く宴会してのスタート。恩田チームはどこか右手のほうを登っている様子ですが、どこ登ってるかはお互い内緒。
この時はやる気はあったものの、6名がだらだらロープにつながって登ったもので、同人 栗と栗鼠随一のまともなクライマー、安田秀巳氏の奮闘で1pルートを伸ばしただけで時間切れ。
そして最後の十数メートルは同年、11月に安田氏と赤沼で登り切り、ボレロの完成。恩田隊長チームの烏帽子岩直上ルートと同日の完成でした。

さて、毛無岩にはこの日開拓された「ボレロ」と「烏帽子直上ルート」、そして16年後になる2012年5月26日に赤沼がフリークライマーの小見麻紀子さんと登った「ルンゼ状スラブ」の3本のルートがあることになります。

「ボレロ」は、フリークライミングの洗礼を受けつつあったクライマーが、フリーにある程度こだわって作ったルートです。最終ピッチに一歩のA1(リードした赤沼の記憶ではA0)の一歩があるだけで、トラバースの多いフリールートとなっています。
「烏帽子岩直上ルート」は、実力派&頭脳派の恩田隊長チームが、美しい直上ラインをボルト連打の人工を苦にせず、着々と作ったルートと言えるかと思います。赤沼も後日登りましたが、ボルトがたくさんあるおかげで、フリーでも登れる好ルートとなっています。支点の多さ、ラインの美しさなどのせいかこちらのルートのほうが再登が多くされているようです。

ところで16年後に登った「ルンゼ状スラブ」には、残置ボルトが打たれており、だれか先登者がいたものと思われます。記録は見当たりません。
実は「ボレロ」の開拓時、吉川栄一氏がそちら方面に消えていた時間があって、あとで「隅っこのほうを登ったんだよ」と言ってたように思うんですよ。あれだけのルートを登りながら、記録もださないとなると、吉川氏の奇人ぶりが思い出されてしょうがないのですね。

というわけで、ルンゼ状スラブ(赤沼、小見命名)の初登攀者は吉川氏ではないか疑惑があるのですが、当人と最後にあったのは「知床で自分にとっての神であるブナの木に出会ったので、移住する」とか言ってたときではないかと思うのです。それ以来音信不通なんです。
もっともあえて探したわけではないので、案外帰ってきてそのへんで楽しく暮らしてるのかもしれませんが。誰か消息知ってたら教えてくださいね~

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