辺地辺境クライマーのバイブル「日本登山大系」。その霞沢岳の項を執筆したのが山梨の東斐山岳会。
沢の遡行図や概略図などを含めて6ページの記事で、沢渡あたりから六百山までも含めて紹介されており、岩登りに関しては八右衛門沢の右岸側壁が唯一対象となり、いくつかの山岳会によってかつて登られたとのみ記されている。
参考文献として「山と渓谷」410号, 1972年11月号と記載されている。
2年間にわたって霞沢岳の地域研究に取り組んだ、東斐山岳会の記事が投稿されているということらしい。幸い、古本屋で入手することができた。紙媒体とともに情報が失われていくのはもったいないので、せめて概略だけでもここに記しておきたい。(まあこのサイトもいつ消えるかわからんのだけどね・・・)


山と渓谷410号、「地域研究 霞沢岳–北ア最後のバリエーションルートを求めて」(東斐山岳会の投稿)の記事まとめ

【概略】
概略としてまず、霞沢岳の範囲を沢渡付近から六百山までをも含む大きな領域を対象としていることが記載されている。
梓川右岸の穂高をはじめとするメジャーな山にばかり登山者の目はむいていて、この「地味なそれでいて荒々しい男性的な山の食い込む余地はないらしい」と皮肉っぽく書かれている。
こんな時代からさえ、静かな山を愛するクライマーのミーハー登山者に対する皮肉な気持ちが変わらないのだな~と読んだが、記事内でさらに以前にも同じような感慨をもってこの山に臨んだ登山者がいたとわかった。

【登山史】
律儀な昭和の登山者らしく、よく調べてまとめてあるので、以下に抜粋しておく。西暦を付記しておきます。

明治35年8月(1902)
小島烏水 岡野金次郎
霞沢を遡行して、霞沢岳と徳本峠間の尾根を乗越、白沢を下降して上高地に入った。霞沢岳には立ってないと思われる。
明治43年7月、44年7月の2回(1910,1911)
辻村伊助
徳本峠を越えて上高地入り
大正2年8月(1913)
上条嘉門次 ウエストン
八右衛門沢から霞沢岳登頂
大正5年8月(1916)
田中薫
写真撮影のため登頂
昭和5年7月(1930)
慈恵医大山岳部 吉田幸雄 高木文一
三本槍を登攀
昭和16年1月(1941)
一高旅行部 中村徳郎
三本槍を登攀
以降昭和30年台くらいまでいくつかの同様の登山がなされているらしいとの記載
昭和31年6月号山と渓谷誌
石渡清筆「高見光太郎と山」より抜粋
(高見光太郎が)懐かしそうな目付で上高地の景色を、あれこれと、回想している風情だったが、
「だが、霞沢岳に登る人はすくないだろう」と言われ、「あの山は、たしか峯が三つに分かれていた。いい山だが。・・・登る人はすくない方がいいね」と、半ば、山岳の美に接した想いでによってでもいるような口吻だった。
私は、その時、霞沢岳は、上高地入りするちかごろの若い人達には、ひょっとして見落とされており、それを仰望することさえもしない者が多いかも知れないと想った—
昭和39年頃から(1964-)
東斐山岳会の記事から抜粋
霞沢岳の名が山岳雑誌に現われ出したのは、昭和39年ごろからであろう。東京都庁山岳部やグループ・ド・モレーヌが、そのころから記録や案内を雑誌に発表し始めたのである。そのほかに東京白稜会、信州大山岳部、松本登高会、富士電機山岳部、国土地理院山の会などが、霞沢岳のバリアンテを登ってきたようである。

特に、それらの中でも昭和37年暮から38年正月にかけての都庁山岳部の東北尾根、グループ・ド・モレーヌの六百山からの積雪期霞沢岳登頂は、非常に珍しい記録であると同時に、霞沢岳の登山史に残る貴重なものであろう。
昭和46年春(1971)~47年春(1972)
東斐山岳会による集中登山
霞沢本谷、南尾根、産屋沢、千丈沢、無名沢、八右衛門沢、三本槍沢、中畠沢、六百沢、白沢にターゲットを絞り、全部で18ルートをトレース。

前章の最後に「登攀上の注意」が記載されている。
曰く、
● 霞沢岳は一般ハイカーには無理
● 唯一のポピュラールートは八右衛門沢だが、稜線は無雪期にはハイマツがびっしりと生えていて大変である。
● 岩場のルートはとにかくもろい。取付きで硬くても上部はほぼ風化してボロボロになっている。ハーケンが効くかどうか疑問である。
● この山を訪れる人は少ない。静けさを保ちたいが、静かな登頂を願う人、登山に原始の息吹きを求める人たちにはぜひとも登ってもらいたい。登るに値する山だと信じている。

登山の記録

この記事をもとに日本登山大系の記事を書いたと思われるが、情報を整理して書き換えたらしく、各部が微妙に違うのでこちらの記事はこちらの記事で、かなり大雑把な要約のみ記載します。
概念図、遡行図などは記事より勝手に拝借しました。

南尾根

この山の主脈は六百山から霞沢岳を頂点として沢渡に至る尾根だ。
北側はアルペン的要素が強く、尾根も稜と呼ぶにふさわしい形をしている。南側はハイマツこぎの苦労は多いが開放的である。
南尾根は南側の典型で、腰までの笹と背丈以上のハイマツに覆われている。積雪期はラッセルの連続となり、夏冬ともにかなり覚悟のいる尾根である。
記録:
昭和46年8月11日~13日
冬期 昭和46年12月28日~昭和47年1月2日(おそらく冬期初登)

蕨沢

昭和46年5月の記録:
坂巻温泉と中の湯の中間くらいに出会う沢。
出会い付近は沢幅狭くしばらくゴーロが続く。
F4が最初の悪場。左から巻き。
雪渓がでてきて、F5も巻き。
アイゼンをつけて雪渓のうえを歩く。
つめは雪崩の危険を避け、露出したハイマツ帯を選んで登る。

産屋沢

昭和46年8月の記録
小梨平から歩いて入渓。「うぶやばし」の橋名で位置確認。
F4あたりからが核心。

千丈沢

昭和46年8月の記録
出会いから二股よりも、二股から稜線にかけて並ぶ急峻な稜に登攀価値がある。山頂から二股に落ちる稜が一番長く、しかも傾斜が強く手ごわいように見える。

昭和46年5月4日 千丈沢奥壁第一稜
水量は豊かだが、F7から上は雪で埋まっていた。
二股先から枝沢をひとつ見送り、雪の斜面とダケカンバの樹林を登って稜に取付き。樹木の切れた雪稜から稜の右側ルートで、頂上直下からはハイマツ帯となる。

昭和46年5月4日 千丈沢奥壁第四稜
第四稜末端の枝沢から取付き。雪の斜面を登る。
稜は狭くナイフリッジとなりアンザイレンしたが悪い雪壁となり、避けて登る。ここから4ピッチで雪面の氷化した背の低いハイマツ帯となる。

無名沢

昭和46年8月の記録
田代池正面の細い出会いから取付く。
前半は沢が狭く切れ込んでいる。

八右衛門沢

出会いから主稜線に至るまで滝らしい滝もなく石ころだらけの沢。
霞沢岳へのもっとも近いアプローチとして利用されている。
帝国ホテルの斜め前に出会いがあって、そこから霞沢岳の頂上まで片道3時間30分ほど。
三本槍沢との出会いから上は右岸側壁があって、落石が多い。
沢の上部で右股と左股にわかれる。左股は主稜線直下のハイマツ帯のなかにはっきりとした踏み跡がある。右股のガレ場より楽に稜線に抜けられる。
残雪期には急な雪の斜面となる。右岸側壁の奥から大きな岩と雪崩が出てくる。

八右衛門沢右岸側壁

八右衛門沢に入ってしばらく行くと正面に黒々としてゴツゴツした岩峰を見る。下流からは一部しか見えないが稜線から見るとそのスケールの大きさがわかる。
霞沢岳から六百山に至る主稜線から派生した壁で高度差300mほどと思われる。
三本槍沢上部の1ルンゼから主稜線直下の7ルンゼまでを確認。
岩の質は非常にもろくて、どこのルートも自然落石と自分の引き起こす落石に常に神経を張り詰めている必要がある。ルンゼは逃げ場がないので注意。
そのうえきわめて不安定な岩でハーケンやボルトもあまりたよりにならない。
登攀ルートとして考えられるのは、三本槍沢出会いの上部から数えて7本のルンゼとその奥壁、ルンゼとルンゼの間の岩稜、上部に大小のピナクルを持つフェースなど。
ルンゼの登攀は雪の有無で異なるだろう。
登攀を終わると上部は不安定な岩と土の混じった細い稜線とヤブとハイマツをこいで霞沢岳と六百山を結ぶ主稜線に出る。
下降路は5ルンゼは急斜面ではあるが可能。
一般的には八右衛門沢の左股を源頭から下るのが無難。

以下、各ルートの概略と記録とある。
つまり全部を登っているわけではなく、岩場の状況説明と記録の混ざった記事のようだ。

▼1ルンゼ
三本槍沢の出会いのすぐ上が取付き。
ルンゼの中央部のオーバーハングの滝が核心となりそうだが、右岸が登れそう。
▼2ルンゼ
1ルンゼのすぐ右側でコップ状に見える。2~3ピッチの登攀で高度もそれほどなく、登攀対象としては面白くなさそう。上部は1ルンゼと同じプラトー状の草付の坊主の頭(仮称)に出るが、さらに主稜線までがボロボロの岩で、なおかつ両側にすっぱり切れ落ちていて非常に悪い。危険な登攀を強いられる。(登っているのか記事からはよくわからない)
▼3ルンゼ
このルンゼあたりからが側壁の核心。逆くの字に曲がったルンゼで、下部は45度ほどの角度で涸滝をいくつか持ち、上部は屈曲して左に回り込む。
▼4ルンゼ(昭和46年5月の記録。われわれが登ったのもこのルンゼかと思われる。)

雪の斜面を100mほど登ると両岸に壁が狭まり、ルンゼは左に緩く曲がり滝に出会うが、右の氷瀑に数回ステップを切って登ると左の岩に移ることができた。
滝上はもろいガレ場。この上からまた雪渓があらわれ、1ピッチ半で3メートルほどのチムニーを抜ける。この上の岩壁は風化された花崗岩でボロボロ。壁を登ってみたがルートを見つけられず、残置されたボルト2本にあぶみを使って5メートルほど乗り越え、灌木帯に入る。
灌木とブッシュの急斜面を何ピッチかで稜線に出たが、主稜線までは2つのピークを越えなければならず、5ルンゼの雪渓を下降。最後は5メートルほどの滝を懸垂下降して八右衛門沢に戻った。

▼5ルンゼ(昭和46年5月の記録)
出会いのF1は右の側壁を登る。雪のルンゼを登る。
▼6ルンゼ(昭和46年5月の記録)
雪の斜面を登ると斜めのチムニーが30メートルくらいつづく。両岸は極度にもろい岩壁で落石が多数出る。青氷をカッティングしながら登る。
雪の斜面をのぼって稜線に至る。
▼7ルンゼ(昭和46年5月の記録)
八右衛門沢左股の主稜線に出る手前に狭い出会いを持つ。急な雪の斜面が主稜線まで続き、残雪期は下降ルートとしても使える。
▼大ピナクル
5ルンゼと6ルンゼの間に位置する。正面の比較的すっきりしたフェースが登攀ルートとして考えられる。2ピッチ目から急になりボルトとハーケンが打たれており、それを利用して吊り上げで登るとある。上部は垂直の壁で、そのあと傾斜が落ちてボロボロに風化した岩とハイマツの混じったやせた尾根となる。

三本槍沢左股(昭和46年8月の記録

各滝を越え、階段状のF13から上は奥壁となる。
これが予想以上に悪い。
その上は急な草付きで無数の花が咲き乱れる。ハイマツ帯は背丈を越すくらいで、苦しい登行となり、表六百沢の源頭のピークに至る。ここからピークを4つ越し、六百山。