前穂高岳東南面の岩場、すなわち前穂三本槍周辺の下又白谷側(一部奥又白谷)には、登山史の底にうずもれてしまった登攀の形跡が残っている。
この情報の少ないフィールドを訪れるたび、頻繁に古いハーケンやら腐りきった残置ロープなどの残骸にでくわした。


ここに通うようになったきっかけは、ウォルター・ウエストンが1893年に前穂高岳を登頂した際の、山崎安治氏の推定ルート(一尾根第一支稜)の検証のためにそのラインを実際に登ったことだった。この推定ルートを登り、「ウエストンリッジ」と仮称したのは1985年の10月。

そのころからここが自分にとっての地域研究の場として、「最高の遊び場」となった。
埋もれた数多くの足跡の「発掘」を目指して、いくつもの岩稜や岩壁をトレースしてきた。
そして今回の第二尾根左稜の登攀をもって目ぼしいラインの登攀を終了したので、「下又白谷通い」も卒業と考えている次第(たぶん・・・)。

ようやくつかめてきたこのエリアの雰囲気を正確に伝えるとするなら、下又白谷上部岩峰群とでも呼ぶのが妥当だろうと思う。(一部奥又白谷にはなるが)



このエリアの地形を正確に記したデータはほぼなく、下図が今のところもっとも現実に近いと自負するが、修正点もまだまだ多いはず。

山屋の間で、その名を比較的知られているのが一尾根だが、ここは尾根(リッジ)というよりも岩峰の集合体であり、そのためなおさら地形が非常に複雑でわかりにくくなっている。
一尾根周辺の岩峰群とその岩峰から伸びたリッジ群をすべて含めて一尾根と総称するのもよいかもしれない。

一尾根の頭に立つ筆者(赤沼)。左後ろが一尾根第一支稜(ウエストンリッジ)の頭、右後ろが二尾根の終了点(前穂三本槍)

ところで、日本におけるアルピニズムの黎明期(1900年台初頭)にあって、下又白谷上部岩峰群の拠点となる奥又白池は旧制松本高校山岳部の城であり、聖域であった。
かれらは厳冬期の登攀、さらにはヒマラヤを視野にいれて、ここを登りまくった。
一尾根、二尾根という呼称は松高山岳部の部報「わらじ」に初出する。
1938年には北尾根四峰正面壁や北壁右岩稜などを初登攀。
「わらじ」を読むとその前後から一尾根や二尾根の岩峰に通いはじめている。
ちなみに一尾根ははじめ、「松高第一尾根」と呼称されていた。
松高の活動の詳細はこちら

もちろんここを登っていたのは松高だけではない。
一高旅行部、二高山岳会、三高山岳会、北大スキー部、慶應義塾大学山岳部、学習院大学山岳部、早稲田大学山岳部等々、旧制高校や大学の山岳部が活躍していた時期であり、かれらもまたここには登りにきていたと思われる。

それらの登攀記録は残されていたとしても、もはや入手困難な各山岳部の部報などを探るほかない。(「わらじ」は松本高校後継の信州大学山岳部のサイトにバックナンバーが公開されている)

さて今回、二尾根のA沢側支稜とでもいうべきリッジを登った。
3年前に二尾根を登った際はA沢の踏替点付近から、二尾根に向かってもっとも簡単そうなルンゼを経て、右側のハイマツの尾根へとルートをとった。位置的にはこれが二尾根の主稜となる。
今回はその左に見えていながら時間的関係で登らなかった美しいリッジ、すなわち左稜を登ったことになる。
さすがにここまでマイナーなラインに登攀の形跡はないだろうと想像していたが、2ピッチ目のフェースで古いハーケンと腐りきったシュリンゲを見つけた。

「こんなところまで登っていたか!」


これが松高の遺物とは限らないが、二尾根の名付け親であることへの敬意も含めて、「松高メモリアルルート」と名付けてしまいたい。


このラインを狙い始めて3年目。
直前に奥又白での親子熊出没情報があったり、天候が悪かったりで、今回が一番苦労した。

パートナーはぶなの会の野島梨恵さん。
本来はばりばりの沢屋だけど、ソロで積雪期の黒部横断をしたり、ヨーロッパまでクライミングに出かけたりもしている。
海谷、越後、雨飾山などのぼろ壁をご一緒してきた心強い相棒。

台風接近のニュースに一喜一憂しながらも、初日は上高地から奥又白池を経由して、A沢踏替点近くでビバーク。

ようやく見つけたビバークサイト。
A沢踏替点から一尾根上のコルにあがったところだが、両岸が切れ落ちていて2人横になるのは無理。
梨恵さんはハイマツに半分かかって斜めに張ったテント、赤沼は岩陰で露天ビバーク。
雨の予報だったため、降り出したらテントに避難して2人で座って過ごそうということになっていたが、幸い天気予報がはずれて夜半から星空になった。
明るくなると空は晴れ上がり、一面の雲海が広がっていた。
ビバーク地の真正面が登ろうとしているリッジ。(2023年一尾根登攀時に撮影)

ルンゼ内を歩いて半分ほど登り、途中から右の二尾根主稜に出たのが2023年に登ったルート。その左、二尾根にまっすぐ突き上げるリッジが今回登ろうとしているライン。

A沢の取付き付近

A沢には断続して雪が残っている。
ちょうど雪渓の末端あたりから取付く。
今回はテントなどをここにデポして登り、登攀後はA沢を下りてくる予定だが、2人とも運動靴で、雪渓の処理に不安は残る。

雪渓横から赤沼リードで登攀開始

浮石に気を使いながらのクライミング。
このエリアの岩場は節理がよく発達しているので、支点はカムと立木でいける。

岩の節理を追ってルートを選んでいく。

リッジ上の尖ったピナクル手前で1ピッチ終了。

2ピッチ目

目の前の垂直ピナクルをどう越えるかがポイント。
真上のクラックを無理矢理超えるか?
左をのぞくとつるつるの露岩だが、その向こうが凹角となっており、なんとかトラバースして凹角に入る。
凹角の角を使いつつ、草付きまじりの露岩を登って行くと途中に残置ハーケンを見つけた。

2ピッチ目フォロー中の梨恵さん

後ろには昨夜ビバークした一尾根のコルが見えている。
左のハイマツ交じりの尾根が3年前に登った二尾根主稜。

3ピッチ目は2段になった垂直ピナクルを越えて行く。

下から破砕帯のように見えた部分もあったが、実際には浮石はあるものの組成も固く快適なクライミングだった。
これで二尾根に合流し、左稜部分は終了。

ここから前回はロープを使って3ピッチほどで行った緩傾斜帯を、ロープをはずして飛ばしていく。実はデポのところに水筒を忘れたことに気が付き、「とっとと終わらせて水のあるデポ地までおりよう!」というわけで・・・

二尾根終了点に近づくと岩が再び立ってくる。

ここからはリードを代わって梨恵さんがロープを引いて行く。

この辺が後半の核心部。前穂三本槍はもうすぐ。
ピークに広がるスラブ壁を登ると三本槍のピーク。
真下が一尾根の頭。向こうの三角錐の山が明神岳。
終了点は三本槍の頭。うしろが前穂高岳。

左稜から二尾根の登攀はロープクライミング5ピッチ、その間に3ピッチ分ほどのロープなしクライミング。全3時間で終了。
さあ急いで下りよう!水!水!

ところが・・・・

なんと赤沼のルーファイミスで、A沢のつもりで下又白谷本谷をおりてしまった。高差100mほどで気が付いて戻ったけど約1時間のロス。

A沢の下降

気を取り直してA沢に入るが、雪渓の状態からして運動靴で下りられる状態ではなし。
60mロープ1本なので30mずつ。3回の懸垂下降となった。
途中ハーケン2本、捨て縄3本を残置することとなった。
もう1回懸垂下降をしたいところだったが、よい支点も作れず雪渓わきをクライムダウン。ここが今回最悪のピッチとなった。

デポを回収して、水もたっぷり飲んで、下山したが、不摂生の続いた赤沼は中畠新道の途中で足腰がおぼつかなくなり、危険回避のため梨恵さんにガチャ(登攀に使う金属類)をすべて背負ってもらうという人生初の屈辱・・・というか喜びというか・・・を感じることに。64歳にしてついに介護されてしまった。いや梨恵さん最強だわ。

なんとか上高地に下山。

なんともまあすごい人出ですな~。
まったく人に出会わない山行をやってきただけにショックも大きい。
炎天下、バス待ちの行列が河童橋より先まで伸びてるし、タクシー待ちは聞くと3~4時間になるって。

さっさと下山して風呂入って打ち上げ!ってプランはここで頓挫。

これはあそこに頼るしかなかろう!ということで・・・・
梨恵さんが一応タクシー待ちの順番を確保しつつ、赤沼が日本山岳ガイド協会の運営する上高地アルプス山荘へと交渉に赴く。
支配人の岡島さん(プロのガイドでプロのギタリストという素敵なおじさまですよ)からOK出た~!

上高地アルプス山荘は帝国ホテル並みの素敵な建築物

というわけでこの日は上高地で即風呂に入り、食事もして、岡島さんやほかのガイドさんなどとワインを飲みまくり、暖かい布団で寝ることができたのでした。

ちょうどTJARも開催中でその関係者や選手もいたのに、よくまあ部屋が確保できたこと。

聞くと、運営が山岳ガイド協会ということもあり、こういう登山帰りの帰宅難民を受け入れることができるよう、1室は余らせて予約をとっているのだと。これに救われたようです。

さあ皆さんも困った際は頼ってみよう!
というか困らなくてもよい宿ですよ。
最近はガイド関係でなくても利用できるようになったとのこと。

上高地アルプス山荘のサイトをご参照ください。