アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

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アルプス越えの鎌倉街道

まだ踏破してないんですが・・・・祠峠、檜峠の散策に続いて、今回池尻砦を訪ねて来たところで、中間報告がてらの長文となります。

鎌倉古道として紹介されているルートを、資料の記述に基づいて大雑把に書き入れてみたもの。

自分にとっては一連の山遊びのネタ本となる、服部祐雄(はっとり ゆうお)氏の著書「アルプス越えの鎌倉街道」に出会ったきっかけは「その辺の崖遊び」だった。(かなり飛躍はあるんですが・・・・)


地図を眺めて岩場記号を探す。
ハイカーのブログ等で写真を眺めて岩場を探す。
ドライブ中も常に山肌に視線を送り続ける。
メジャーな登山道のない地域、そして近くに岩質のよい岩場のあるあたりが狙い目だ。

これはと思う岩場があったら行って登ってみる。
そんな「その辺の崖」クライミングも、山遊びのひとつとして楽しんできた。

穂高や霞沢岳などの素敵な岩峰近くに狙いを定めて地図を眺めていて、梓湖(奈川ダム)周辺に「祠峠」という地名を見出した。なんか気になる。

岩場はないけど、マイナーエリアの山歩きも楽しいかとネットリサーチすると、そこが鎌倉街道の一部であり、かつては人家のあった廃村であるという記述があった。俄然興味が湧いてくる。
実際に歩いてみると、そこには鎌倉街道との案内板もある。崩れかけた祠もたしかにあった。

鎌倉街道って「いざ鎌倉!」のあれだよね?
鎌倉からこんなに離れた山奥に鎌倉街道?
なんでこんなところに?
なんのために?
いくつもの問いが湧きがってくる。

祠峠を訪ねた際の投稿にも書いたが、そんな問いに答えるべく調べて行くうちに服部祐雄氏の「アルプス越えの鎌倉街道」に出会い、運よく本書を入手することができた。

アルプス越えの鎌倉街道についての概要は祠峠に行った際の投稿からコピーしておく。

  • 「アルプス越えの鎌倉街道」は飛騨側の高山から平湯温泉に至り、安房峠のあたりを越えて信州側の梓川に抜けるものだった。
  • もとは生活道路だった古道を、鎌倉街道として整備したらしい。
  • いわゆる平安や奈良時代の古道のような人馬が走り抜ける広く大きな直線道とは違い、山中の踏み跡などを歩きやすくした「切通または薬研堀」という程度の整備だった。
  • 鎌倉時代には蒙古や南朝勢力も含めた日本海側に対する政治的、軍事的境界線としての意味もあったり、宗教的な境界線にもあたる警備上の重要拠点だった。また武田家も木曽攻めの際、この道を利用したとの記述がある。
  • 一方、生活道であった(らしい)この道は、急峻でしかも楽しくない谷間の地形を避け、焼岳や乗鞍岳、あるいは穂高などの展望のよい、比較的なだらかな場所を選んでいるように見える。「道中を楽しむ」という文化に支えられた道であったように思えてならない。合理主義とは違う、道の意味合いに気が付いてから、この道を辿ってみることに俄然興味が湧いてきた。

ところでこの、「アルプス越えの鎌倉街道」という本について少し書いておこう。

筆者は昭和4年、安曇村大野川に生を受けた。
つまり生家の前が祠峠や檜峠への登山口で、家の前を鎌倉街道が通っていた。
長野師範学校卒業後は、小学校教員から校長、そして安曇村教育委員長になるまで教員人生を過ごし、その傍らで長野県史や安曇村誌の編纂なども行いつつ、30年の月日を使って鎌倉街道の研究を行ってきた。とくに引退後の60歳の半ばからは「アルプス越えの鎌倉街道」というテーマに集中して道のない山中に現地踏査を重ね、同書をまとめたとある。

まさに筆者のライフワークともいえるものであるらしい。

長年にわたるライフワークの集大成であるだけに、内容は非常に濃い。
本書一章ではまず鎌倉から始まる「鎌倉街道」について論じ、関東を中心に広がる主要部分について詳述している。そしてこの踏査記は松本を越えて梓川に至る、筆者の関心エリアへと収斂していく。全編を通して本書は、ただの踏査記ではなく、歴史的考察や史実、エピソードを交えた膨大な記録集となっている。
そういうわけで、私のような「実は鎌倉街道や古道というロマンをスパイスとして、人気のない山道を歩いてみたいだけ」という穿った人間のガイドブックとしては、やや重すぎる、そして読みにくいテキストとなってはいるのだが・・

さて第二章から「鎌倉街道」は山道にわけいっていく。
その信州側の出入り口にあたるのが松本の波田町だ。

「波田町誌歴史現代編」を参照しながら、この場所の重要性について述べているくだりで、安房峠付近を越えて行くこの古道の重要性が少しずつわかってくる。
いわく、「縄文時代から梓川谷は飛騨、越中などの他国に使われた渓谷で・・・」、「鎌倉時代には街道が作られ」、「蒙古来襲のこともあったか、日本海沿岸、特に北陸地方の警備、交易を重視しているように思える」、「また宗教面では、山岳信仰はもちろんのこと、天台宗、真言宗、浄土真宗など・・・・裏日本との関係が濃厚であった」等々。
そして膨大なエピソードに彩られた踏査記を読み進むにつれ、この古道が自然災害の起こりそうなところをうまく避け、傾斜が比較的緩く、歩きやすい、しかも合理的なラインで最短距離につけられている様子が見えてくる。

旧安房峠の道筋を探索すべくこの地に何度も通った筆者が、ついに古道らしい痕跡を発見し、峠に至ったときの記録に、この古道の雰囲気、魅力がよくわかる一文があるので引用したい。

「昔の人はどうしてこんな良い場所ばかり選んで道をつけたのかな。危険な場所は完全にさけ、風をさけ、日当たりだけを選んで道をつけてある。それができない場所は上高地一円とアルプス連峰が手にとるように見える場所を選んである。全く古代人の心の豊かさを思わざるを得ない。」

いやあ!この道をトレースしてみたい!

ネットで調べていると登山ガイドの次田氏が、本書をもとに再探索したルート案内があり、同氏がガイドツアーなんかも行っているらしい。
ただ、当然のことながら本書も次田氏の案内も、それを見ればこの道が歩けるというほどのものではない。
私がここを歩く際にはGPSアプリを持ち歩いて、ルートのすべてをトラックレコード化してみたいな・・・という気持ちが湧いてきた。
GPSアプリでマイナーエリアの登山は根本的に変わりつつある。
これを嫌がる風潮も理解はできるが、そういう時代なんだからもっと気軽に歴史ロマンの山旅ができてもいいんじゃないかな~と思ったわけだ。


野次馬ロマンを道連れに、祠峠、檜峠というふたつの峠道を散策した。
どちらもそこを歩くだけで気持ちの良い道だった。

「正式に道を探索するのは無理だろうけど、とりあえず藪をこいででも旧安房峠のあたりを越えてしまおう。」ということで2日の日程をとった。
だが梅雨時とあって天候が悪くて、強行軍は無理。
この古道のだいたいの想定ルートを地図アプリに落としてよく見ると、いくつかの林道(半分以上は通行止めだったり廃道になったりはしているが)と交錯したり、並行したりして伸びている。
だったら雨でも車で四方からアプローチして、古道と交錯した部分だけでも確認することはできるのではないか?

檜峠を一緒に歩いてから古道に俄然興味の出てしまった真帆ちゃんのナビで、鎌倉街道を諸方面からアプローチしてみる。理系出身の彼女、地図アプリなんかの扱いにも詳しく頼もしいのだ。

白骨温泉からのアプローチはしばらく走ったところで通行止め。
いったん梓川まで戻り、今度は現在の安房峠に行く乗鞍スカイラインの旧道側からアプローチ。安房平あたりで古道らしき踏み跡を見つけたりとそれなりの成果。
なにより山の雰囲気がわかった。
思ったよりも山深いようだ。やぶも案外と深いぞ。
当然、熊もいるよな。

一日かけてできる限りのドライブ探索は終わり。
翌日は晴れ間が出るとの予報だったので、現地に一泊して翌日は歩いてみようとなった。

が、日が明けてみるとまたまた雨。

「もう雨具着て、傘さして歩いちゃおう!」
となって、信州側の祠峠~檜峠からの次の順路、沢渡から池尻砦への道を辿ってみることにした。

池尻は沢渡から梓川右岸の山間に入ってすぐ、池尻湿地と言われる湧出水のたまった池を中心とした小盆地。
このまわりを尾根が取り囲んでおり、信玄の時代にここに砦が築かれたらしい。ウエストンもここを通ったとの記述がある。
池尻砦については、それがどこだったのかを特定するのが困難などとも言われ、とある史家が特定したとかしてないとかの話もあって、やぶの中を歩いて近くに行ければ・・・なんて思っていたのだが、沢渡から林道に入るとすぐに立派な駐車場があり、池尻湿地~池尻砦との立派な案内版があった。

どうやらその場所はすっかり特定されて、観光開発をしようという意図もあったらしい。

駐車場から池尻湿地への案内板に従って整備された道を歩き出す。

相棒の真帆ちゃんは先日熊と遭遇。威嚇してきたところ開いた傘を向けたら逃げて行ったとか。この日も熊よけを兼ねた傘装備。

雨は降っているものの、森がしっとりとしていて新緑が鮮やか。
少し草木に覆われてはいるもののよく整備された道を歩く。

時節がら熊には最大限の警戒。熊鈴のほか「クマヲボル」という匂い袋を持参。匂い袋は濡らしたくないので、真帆ちゃんが傘の下にぶらさげたが、だいぶ匂いが強かったらしい。

鎌倉街道についての案内板。そして熊ベルがかなりの頻度で設置されている。

よく整備された道で、東屋なんかもある。

もうすっかり観光地として整備されているらしい。

池尻湿原。

池尻砦跡地に到着。祠があった。

ちゃんと案内板が設置されている。

熊対策グッズ「クマスプレー」。

帰りは池尻湿地の向こう側を歩く。

雨の中しっとり気持ちのよい道。

とにかく新緑が美しくてシャッターを押しまくり。

木道は苔で若干すべるのだ。

動画1
動画2
動画3
動画4
池尻砦のトラックレコード

アルプス越えの鎌倉街道第二弾–檜峠散策

信州、梓川沿いの山腹を、比較的なだらかな地形を辿りつつ、安房峠付近を越えて飛騨、平湯に至る古道「アルプス越えの鎌倉街道」。3月にその信州側の山道の起点となる祠峠の道を歩いた。(リンク:祠峠に鎌倉街道を想う。)

そして4月20日。今度は乗鞍スカイラインの起点付近(大野川の集落あたり)から沢渡に至る、檜峠の道を散策してきた。

雪道をラッセルして歩いた前回とうってかわり、フキノトウがそこかしこに顔をだす春いっぱいの林道を、残雪の霞沢岳や焼岳を眺めつつののどかな散策となった。

鎌倉街道、鎌倉古道などというといかめしい感じもするが、そもそもここは中世からの生活道路であったと言われる。その昔、山道を歩いて旅することが「最高のレクリエーション」だったのだろうなと想像がふくらむ。
アルプス越えの鎌倉街道の想定ルートを地形図に重ねてみると、等高線のまばらな、要するに緩やかな場所が選ばれていることにも驚かされる。そしてここは今や穂高連峰前衛の、日本を代表する風光明媚な景勝地でもあり、その道中がどれだけレクリエーショナルであったかという想像を楽しみながらの、しかし人けのまったくない静かな散策でもあった。

4月の2日間、山巡の若手女子、真帆ちゃんと八ヶ岳でクライミングを楽しむ予定だったのだが、まさかの寒さと風で転進。1日目は小川山や某秘密の岩場を渡り歩いてフリークライミング修業。でも2日続けて真帆ちゃんのフリースキルについていくのもつらいので、アルプス越えの鎌倉街道踏破を前提とした偵察行を提案。

さて檜峠。
鎌倉街道の推定ルートは祠峠から檜峠へとつづく。祠峠と檜峠の間が、今は乗鞍スカイライン上となる大野川集落。そこから沢渡に至る山道が檜峠の道。そして檜峠から沢渡の間は地図では車の通れる林道のようだ。ここを歩いて峠まで往復してみよう。

沢渡バスターミナルのちょうど向かい側あたりの林道に入る。林道に入った途端、観光バスや車の連なる喧噪を離れ静かな山となる。

林道は奥まで車で入れそうだが、今回はすぐに車を停めて歩いてみることとする。

車を停めた場所から沢渡バスターミナルを見下ろす。
山の向こうにちらっと見える白い山は霞沢岳のようだ。

しばらくは舗装された林道。

ほどなく舗装はなくなり、ダートの林道となる。

焼岳や霞沢岳が樹間に見える。

そこかしこにフキノトウが。あまりにたくさんあるので、今夜食べる分だけいただく。

多くは摘まず、写真を撮る真帆ちゃん。

この先が檜峠。

檜峠に到着。

檜峠から大野川集落方面には登山道らしき踏み跡が伸びている。道は典型的な切り通し(薬研堀)の形状となっている。これぞ鎌倉街道の特徴らしい。

登山道を少しおりたあたりから蛙らしき鳴き声が。行ってみると蛙の大群が沼地に集まり、子作りの真っ最中らしい。

なかなか騒々しい。

林道わきに車を停めての2時間強の散策だったが、残雪の山々を望みつつ、春の気配の感じられるのどかで楽しい一日だった。上高地周辺の喧噪のまっただなかにありながら静かな時間を過ごすことができたのがとても幸せに感じられた。

祠峠に鎌倉街道を想う。

3月14日、祠峠を目指して雪道を歩いてきた。
ここは鎌倉街道の一部らしい。
でも鎌倉街道ってそもそもなによ?
なんで鎌倉から離れたこんな山中に鎌倉街道?
その道どこに向かってて、どう利用されてたの?

いくつものクエスチョンマークで頭がいっぱいになる。

少し調べているうちに、「アルプス越えの鎌倉街道」という本に出会い入手した。
この本を手がかりとして関連資料を乱読、雑読するうちに、自分なりの勝手なイメージができてきた。

  • 「アルプス越えの鎌倉街道」は飛騨側の高山から平湯温泉に至り、安房峠のあたりを越えて信州側の梓川に抜けるものだった。
  • もとは生活道路だったものを、鎌倉街道として整備したらしい。
  • いわゆる平安や奈良時代の古道のような人馬が走り抜ける広く大きな直線道とは違い、山中の踏み跡などを歩きやすくした「切通または薬研堀」という程度の整備だった。
  • 鎌倉時代には蒙古や南朝勢力も含めた日本海側に対する政治的、軍事的境界線としての意味もあったり、宗教的な境界線にもあたる警備上の重要拠点だった。また武田家も木曽攻めの際、この道を利用したとの記述がある。
  • 一方、生活道であった(らしい)この道は、急峻でしかも楽しくない谷間の地形を避け、焼岳や乗鞍岳、あるいは穂高などの展望のよい、比較的なだらかな場所を選んでいるように見える。「道中を楽しむ」という文化に支えられた道であったように思えてならない。合理主義とは違う、道の意味合いに気が付いてから、この道を辿ってみることに俄然興味が湧いてきた。


祠峠は、松本から上高地を目指す途上、奈川渡ダム(梓湖)の西側にある標高1300mほどの峠。この祠峠が「アルプス越えの鎌倉街道」、信州側の山道のはじまりのようだが、「登山口?」の村がダムで水没したのがきっかけで廃道となったようだ。
その昔、峠付近に10戸ほどの集落があったが廃村となり、今は祠だけが残っているという。今でも、廃村マニアや歴史好きハイカーなんかが時折訪れているようだ。

ここを歩いてみたのは、穂高や霞沢岳などに何度も通っていたので、道中の里山を1日歩くのも一興と思ったということもある。時期的に雪山散策となった。
ちなみに、以前南側からここを目指したが、奈川渡ダム建設のために水没した集落周辺の橋と細い林道のアプローチに手間取り、駐車スペースも見いだせずに引き返している。

今回は北側からのアプローチ。乗鞍スカイラインの途上に車を停め、大野川の集落から歩き出す。

全ルートを通して重めの雪に覆われていて、ひざ下から腿くらいのラッセルでの歩きとなった。積雪、風、寒い夜、暖かい日などが続いていて、雪崩が起きやすい状況は予測できたので、樹林越しに行けなければ引き返すつもりだったが、祠峠までは大丈夫だった。それでもごく小規模な雪崩はそこかしこで起きていた。

歩いたルート
まだまだ雪に覆われた大野川の集落

大野川は「アルプス越えの鎌倉街道」の著者、服部祐雄氏の出生地でもあるらしい。

集落下の川には橋がかかっている。これを渡って行く。
橋から川を見下ろす。
道に沿って電線が伸びているが、折れた電柱もある。もちろん電気は通っていない。
約2時間半で峠に到着。祠が見えてきた。
倒れかけた鳥居
祠の前後になぜか木が。

祠の後ろはともかく、真ん前に立っている気が謎。
樹齢ってよくわからないが、あえて木の真後ろに祠は立てないだろうから、少なくともこの木の樹齢くらいは誰も祠を守ったりはしていなかったってこと?

朽ちた建物の一部?
鳥居側から見た祠
標識があった。
鳥居横にも朽ちた建物跡
峠の向こう側(南の奈川方面)

地形からして踏み跡があるようだ。凹状になっているのは、後で調べたところ、鎌倉街道の特長で薬研堀(切通)というらしい。人工的に掘って作られたものだとか。

来たルートを戻ると、車を停めた乗鞍スカイラインが見えてきた。

さて祠峠の往復はラッセルが大変だったものの4時間ほどで終了。なかなかに楽しい雪山散策だった。

【アルプス越えの鎌倉街道のルートについて】



比志津金山塊・雨竜山

今秋狙っているヒマラヤの某山ソロクライミングの資金調達のため、北杜市で出稼ぎ中&クライミング修業中の斉藤真帆ちゃん。彼女の休日にあわせて3月8日、日帰りで山歩きに出かけた。

中央高速バスで山梨入りして真帆ちゃんの車で拾ってもらう。

男子のたしなみ(?)として運転を代わるが、道路上の雪でなんか若干滑るぞ、この車。コンパクトカーながらスタッドレスは履いているらしいんだが・・・
「中古のスタッドレスだから少しは減ってるかもしれないですけど~」とか言ってる真帆ちゃん。

もともと狙っていたのは西上州の人跡少ない岩稜なんだけど、雪に覆われた林道をかなり奥まで入る必要があり、結局あきらめて転進。転進先はいつもの比志津金山塊。主だったピークは踏んでいるけど、林道から近すぎて登り残した雨竜山。篤志家専門のマイナーピークだが、林道比志海岸寺線の途中、大尾根峠(比志津金山塊の最高峰笠無はここから北上して登れる。)から南下すれば20-30分もあれば着けそうな位置。冬期通行止めで大尾根峠まで入れないことは承知のうえで、みずがき湖側から行けるところまで車であがって歩くプラン。

塩川ダム側の県道23号から林道を1.5kmほど登ったところで倒木があって行き止まり。ここから歩きとする。

上図のスタート地点に車を停めて歩きだす。

林道を歩くつもりだったが、車を停めたところは尾根上になっていてかすかに踏み跡もある。方向的には雨竜山なのでここからいったん谷におりて山腹にとりついてみることにした。

山腹の急斜面から雨竜山に達する尾根を目指す。
土、根っこ、堆積した葉っぱのうえに中途半端に雪がついていて、かなり気を使う登り。結構危険なので、歩きやすさよりも落ちた時の安全度を考えてルート選択。

ようやく尾根に上がる。このまま尾根をあがっていくと少しずつ傾斜が落ちてきて雨竜山に達する。

山頂には一応山名標識があった。

下りは大尾根峠に向かって一気に駆け下る。こちらは北面で雪も適度についているので歩きやすい。正面は八ヶ岳。

霞沢岳の情報(ヤマケイ410号)–東斐山岳会の投稿から–

辺地辺境クライマーのバイブル「日本登山大系」。その霞沢岳の項を執筆したのが山梨の東斐山岳会。
沢の遡行図や概略図などを含めて6ページの記事で、沢渡あたりから六百山までも含めて紹介されており、岩登りに関しては八右衛門沢の右岸側壁が唯一対象となり、いくつかの山岳会によってかつて登られたとのみ記されている。
参考文献として「山と渓谷」410号, 1972年11月号と記載されている。
2年間にわたって霞沢岳の地域研究に取り組んだ、東斐山岳会の記事が投稿されているということらしい。幸い、古本屋で入手することができた。紙媒体とともに情報が失われていくのはもったいないので、せめて概略だけでもここに記しておきたい。(まあこのサイトもいつ消えるかわからんのだけどね・・・)


山と渓谷410号、「地域研究 霞沢岳–北ア最後のバリエーションルートを求めて」(東斐山岳会の投稿)の記事まとめ

【概略】
概略としてまず、霞沢岳の範囲を沢渡付近から六百山までをも含む大きな領域を対象としていることが記載されている。
梓川右岸の穂高をはじめとするメジャーな山にばかり登山者の目はむいていて、この「地味なそれでいて荒々しい男性的な山の食い込む余地はないらしい」と皮肉っぽく書かれている。
こんな時代からさえ、静かな山を愛するクライマーのミーハー登山者に対する皮肉な気持ちが変わらないのだな~と読んだが、記事内でさらに以前にも同じような感慨をもってこの山に臨んだ登山者がいたとわかった。

【登山史】
律儀な昭和の登山者らしく、よく調べてまとめてあるので、以下に抜粋しておく。西暦を付記しておきます。

明治35年8月(1902)
小島烏水 岡野金次郎
霞沢を遡行して、霞沢岳と徳本峠間の尾根を乗越、白沢を下降して上高地に入った。霞沢岳には立ってないと思われる。
明治43年7月、44年7月の2回(1910,1911)
辻村伊助
徳本峠を越えて上高地入り
大正2年8月(1913)
上条嘉門次 ウエストン
八右衛門沢から霞沢岳登頂
大正5年8月(1916)
田中薫
写真撮影のため登頂
昭和5年7月(1930)
慈恵医大山岳部 吉田幸雄 高木文一
三本槍を登攀
昭和16年1月(1941)
一高旅行部 中村徳郎
三本槍を登攀
以降昭和30年台くらいまでいくつかの同様の登山がなされているらしいとの記載
昭和31年6月号山と渓谷誌
石渡清筆「高見光太郎と山」より抜粋
(高見光太郎が)懐かしそうな目付で上高地の景色を、あれこれと、回想している風情だったが、
「だが、霞沢岳に登る人はすくないだろう」と言われ、「あの山は、たしか峯が三つに分かれていた。いい山だが。・・・登る人はすくない方がいいね」と、半ば、山岳の美に接した想いでによってでもいるような口吻だった。
私は、その時、霞沢岳は、上高地入りするちかごろの若い人達には、ひょっとして見落とされており、それを仰望することさえもしない者が多いかも知れないと想った—
昭和39年頃から(1964-)
東斐山岳会の記事から抜粋
霞沢岳の名が山岳雑誌に現われ出したのは、昭和39年ごろからであろう。東京都庁山岳部やグループ・ド・モレーヌが、そのころから記録や案内を雑誌に発表し始めたのである。そのほかに東京白稜会、信州大山岳部、松本登高会、富士電機山岳部、国土地理院山の会などが、霞沢岳のバリアンテを登ってきたようである。

特に、それらの中でも昭和37年暮から38年正月にかけての都庁山岳部の東北尾根、グループ・ド・モレーヌの六百山からの積雪期霞沢岳登頂は、非常に珍しい記録であると同時に、霞沢岳の登山史に残る貴重なものであろう。
昭和46年春(1971)~47年春(1972)
東斐山岳会による集中登山
霞沢本谷、南尾根、産屋沢、千丈沢、無名沢、八右衛門沢、三本槍沢、中畠沢、六百沢、白沢にターゲットを絞り、全部で18ルートをトレース。

前章の最後に「登攀上の注意」が記載されている。
曰く、
● 霞沢岳は一般ハイカーには無理
● 唯一のポピュラールートは八右衛門沢だが、稜線は無雪期にはハイマツがびっしりと生えていて大変である。
● 岩場のルートはとにかくもろい。取付きで硬くても上部はほぼ風化してボロボロになっている。ハーケンが効くかどうか疑問である。
● この山を訪れる人は少ない。静けさを保ちたいが、静かな登頂を願う人、登山に原始の息吹きを求める人たちにはぜひとも登ってもらいたい。登るに値する山だと信じている。

登山の記録

この記事をもとに日本登山大系の記事を書いたと思われるが、情報を整理して書き換えたらしく、各部が微妙に違うのでこちらの記事はこちらの記事で、かなり大雑把な要約のみ記載します。
概念図、遡行図などは記事より勝手に拝借しました。

南尾根

この山の主脈は六百山から霞沢岳を頂点として沢渡に至る尾根だ。
北側はアルペン的要素が強く、尾根も稜と呼ぶにふさわしい形をしている。南側はハイマツこぎの苦労は多いが開放的である。
南尾根は南側の典型で、腰までの笹と背丈以上のハイマツに覆われている。積雪期はラッセルの連続となり、夏冬ともにかなり覚悟のいる尾根である。
記録:
昭和46年8月11日~13日
冬期 昭和46年12月28日~昭和47年1月2日(おそらく冬期初登)

蕨沢

昭和46年5月の記録:
坂巻温泉と中の湯の中間くらいに出会う沢。
出会い付近は沢幅狭くしばらくゴーロが続く。
F4が最初の悪場。左から巻き。
雪渓がでてきて、F5も巻き。
アイゼンをつけて雪渓のうえを歩く。
つめは雪崩の危険を避け、露出したハイマツ帯を選んで登る。

産屋沢

昭和46年8月の記録
小梨平から歩いて入渓。「うぶやばし」の橋名で位置確認。
F4あたりからが核心。

千丈沢

昭和46年8月の記録
出会いから二股よりも、二股から稜線にかけて並ぶ急峻な稜に登攀価値がある。山頂から二股に落ちる稜が一番長く、しかも傾斜が強く手ごわいように見える。

昭和46年5月4日 千丈沢奥壁第一稜
水量は豊かだが、F7から上は雪で埋まっていた。
二股先から枝沢をひとつ見送り、雪の斜面とダケカンバの樹林を登って稜に取付き。樹木の切れた雪稜から稜の右側ルートで、頂上直下からはハイマツ帯となる。

昭和46年5月4日 千丈沢奥壁第四稜
第四稜末端の枝沢から取付き。雪の斜面を登る。
稜は狭くナイフリッジとなりアンザイレンしたが悪い雪壁となり、避けて登る。ここから4ピッチで雪面の氷化した背の低いハイマツ帯となる。

無名沢

昭和46年8月の記録
田代池正面の細い出会いから取付く。
前半は沢が狭く切れ込んでいる。

八右衛門沢

出会いから主稜線に至るまで滝らしい滝もなく石ころだらけの沢。
霞沢岳へのもっとも近いアプローチとして利用されている。
帝国ホテルの斜め前に出会いがあって、そこから霞沢岳の頂上まで片道3時間30分ほど。
三本槍沢との出会いから上は右岸側壁があって、落石が多い。
沢の上部で右股と左股にわかれる。左股は主稜線直下のハイマツ帯のなかにはっきりとした踏み跡がある。右股のガレ場より楽に稜線に抜けられる。
残雪期には急な雪の斜面となる。右岸側壁の奥から大きな岩と雪崩が出てくる。

八右衛門沢右岸側壁

八右衛門沢に入ってしばらく行くと正面に黒々としてゴツゴツした岩峰を見る。下流からは一部しか見えないが稜線から見るとそのスケールの大きさがわかる。
霞沢岳から六百山に至る主稜線から派生した壁で高度差300mほどと思われる。
三本槍沢上部の1ルンゼから主稜線直下の7ルンゼまでを確認。
岩の質は非常にもろくて、どこのルートも自然落石と自分の引き起こす落石に常に神経を張り詰めている必要がある。ルンゼは逃げ場がないので注意。
そのうえきわめて不安定な岩でハーケンやボルトもあまりたよりにならない。
登攀ルートとして考えられるのは、三本槍沢出会いの上部から数えて7本のルンゼとその奥壁、ルンゼとルンゼの間の岩稜、上部に大小のピナクルを持つフェースなど。
ルンゼの登攀は雪の有無で異なるだろう。
登攀を終わると上部は不安定な岩と土の混じった細い稜線とヤブとハイマツをこいで霞沢岳と六百山を結ぶ主稜線に出る。
下降路は5ルンゼは急斜面ではあるが可能。
一般的には八右衛門沢の左股を源頭から下るのが無難。

以下、各ルートの概略と記録とある。
つまり全部を登っているわけではなく、岩場の状況説明と記録の混ざった記事のようだ。

▼1ルンゼ
三本槍沢の出会いのすぐ上が取付き。
ルンゼの中央部のオーバーハングの滝が核心となりそうだが、右岸が登れそう。
▼2ルンゼ
1ルンゼのすぐ右側でコップ状に見える。2~3ピッチの登攀で高度もそれほどなく、登攀対象としては面白くなさそう。上部は1ルンゼと同じプラトー状の草付の坊主の頭(仮称)に出るが、さらに主稜線までがボロボロの岩で、なおかつ両側にすっぱり切れ落ちていて非常に悪い。危険な登攀を強いられる。(登っているのか記事からはよくわからない)
▼3ルンゼ
このルンゼあたりからが側壁の核心。逆くの字に曲がったルンゼで、下部は45度ほどの角度で涸滝をいくつか持ち、上部は屈曲して左に回り込む。
▼4ルンゼ(昭和46年5月の記録。われわれが登ったのもこのルンゼかと思われる。)

雪の斜面を100mほど登ると両岸に壁が狭まり、ルンゼは左に緩く曲がり滝に出会うが、右の氷瀑に数回ステップを切って登ると左の岩に移ることができた。
滝上はもろいガレ場。この上からまた雪渓があらわれ、1ピッチ半で3メートルほどのチムニーを抜ける。この上の岩壁は風化された花崗岩でボロボロ。壁を登ってみたがルートを見つけられず、残置されたボルト2本にあぶみを使って5メートルほど乗り越え、灌木帯に入る。
灌木とブッシュの急斜面を何ピッチかで稜線に出たが、主稜線までは2つのピークを越えなければならず、5ルンゼの雪渓を下降。最後は5メートルほどの滝を懸垂下降して八右衛門沢に戻った。

▼5ルンゼ(昭和46年5月の記録)
出会いのF1は右の側壁を登る。雪のルンゼを登る。
▼6ルンゼ(昭和46年5月の記録)
雪の斜面を登ると斜めのチムニーが30メートルくらいつづく。両岸は極度にもろい岩壁で落石が多数出る。青氷をカッティングしながら登る。
雪の斜面をのぼって稜線に至る。
▼7ルンゼ(昭和46年5月の記録)
八右衛門沢左股の主稜線に出る手前に狭い出会いを持つ。急な雪の斜面が主稜線まで続き、残雪期は下降ルートとしても使える。
▼大ピナクル
5ルンゼと6ルンゼの間に位置する。正面の比較的すっきりしたフェースが登攀ルートとして考えられる。2ピッチ目から急になりボルトとハーケンが打たれており、それを利用して吊り上げで登るとある。上部は垂直の壁で、そのあと傾斜が落ちてボロボロに風化した岩とハイマツの混じったやせた尾根となる。

三本槍沢左股(昭和46年8月の記録

各滝を越え、階段状のF13から上は奥壁となる。
これが予想以上に悪い。
その上は急な草付きで無数の花が咲き乱れる。ハイマツ帯は背丈を越すくらいで、苦しい登行となり、表六百沢の源頭のピークに至る。ここからピークを4つ越し、六百山。

霞沢岳2514峰西壁

霞沢岳は穂高連峰の展望を楽しむ静かな山として知られているが、実は大小の岩稜や岩壁、切れ上がった沢などを多数有する列記とした岩峰だ。
ここを霞沢岳ではなく、南穂高岳とでもすればよかったのにと言う人もいるくらい。
上高地帝国ホテルから霞沢岳にむかって一気に駆け上がる八右衛門沢を見ると、奥にいくつかの岩場が散見できる。しかし谷の奥にあるためか、あまりその存在感を感じさせない。
だが実際、八右衛門沢を遡行してみると、すぐに谷は急激にせりあがり、いつの間にか数々の岩壁に囲まれる。
なかでも上流部右岸側壁(2514m峰の西側)は400-500m規模の顕著な大岩壁となっている。そこは屏風岩のような一枚岩ではなく、急峻なリッジと風化花崗岩のスラブ、それにはいまつなどの草木に覆われた垂直のフェースによって構成されている。

2514m峰西壁の核心部を見上げる
八右衛門沢上流部から右岸側壁を見下ろす。


2015年9月、霞沢岳の岩壁群の偵察のため八右衛門沢を遡行。

2021年にようやくここを登るべく訪れたが、天候不順で敗退、転進。

そして今年、ようやく登ってくることができた。

パートナーは昨年敗退の際の相棒、石鍋礼くん。赤沼よりひとまわり以上年少だが、彼が中学生時代からのつきあいとなる。仕事も家庭もクライミングもメリハリよく大切にしているらしい。
そして女性だけの山岳会、銀嶺会の代表/組長、宮田実穂子さんがどた参加。ハイパーとも言える行動力に、明晰な頭脳と明るい性格の人たらしぶりを生かした人脈がすごい。

7月24日、沢渡から朝一番のタクシーで帝国ホテルへ。
八右衛門沢出会いまではすぐ。

早朝の霧に包まれた沢沿いの林道を歩き、林道がつきたら沢に入る。
沢は上に行くほど傾斜が強くなってくる。
小一時間で霧も晴れ、目指す2514峰西壁(八右衛門沢右岸側壁)が正面に見えた。

三本槍沢を分けると傾斜はさらに急になる。

八右衛門沢の遡行は上に行くほど傾斜を増し、ところどころクライミング技術を要する滝があらわれるが、慣れたクライマーならロープはいらないレベル。
ただ傾斜の増したガレ場は、いつ岩雪崩を誘発するかわからないので、場所によって一人ずつの歩きとする。

2514峰西壁の基部。

岩壁は中央部のリッジと右のスカイラインをなすリッジ、ふたつの大きなリッジを中心に展開する。上の写真中央部のリッジが壁の中央あたりとなる。ここは下部が木に覆われており、また上部は壁の中央部に合流しているため、その先が読めない。
このリッジを巻き込んで、右スカイラインとの間の凹角(ルンゼ)を取付きとする。

凹角に入る。100mほどは沢状をロープなしで簡単なクライミング。
このあたりからロープを出し、1P目とする。
背後に上高地を見下ろす。

1P目取付きからルートを見上げる。

右スカイラインが顕著な岩のリッジ。左は風化花崗岩のぼろぼろのスラブ。そして左は岩壁中央部分のリッジが垂直に、不気味に立ちはだかる。

右側の壁と中央のスラブ帯にはさまれたクラック沿いにクライミング。
壁はつるつるで、硬くフリクションの効く部分を探し出しながらの繊細なクライミング。ミリ単位で高度を稼いでいく感覚が久々で楽しい。

2P目は風化してボロボロのルンゼを右の壁に沿って左上。

中央部からせりあがってきたリッジの小ピーク手前でロープいっぱい。ピッチを切る。

技術的には難しくなく、楽しいピッチ。
3P目で左の小ピーク上に出る。明るく楽しい。

小ピーク上は風がさわやかで気持ちいい。

4P目。目の前は垂直の壁に阻まれる。

逆光でルートが読みづらい。弱点を探しつつじわじわと登るが、傾斜が強くて困難。草付きのラインを選ぶが、ハングに下向きに生えた草木をつかんでの強引なクライミングとなる。灌木の根にあぶみを下げての人工登攀もまじえて全身駆動の登りで手足はぼろぼろ。

4P目終了点。垂直部を越えると風化花崗岩のざらざらフェース。
5P目取付き。ここからさらに急な草付きフェースがつづく。
5P目で灌木に覆われたリッジに入る。リッジ手前がひどい風化花崗岩のスラブで、木に飛びつくようにしてトラバース。

6Pは灌木をつかんでの急傾斜の藪漕ぎ。危険はないが身体にはきつい!

さらに灌木からはいまつの藪漕ぎ100mほどで小さなピーク上に出る。ここで一応ルートは終了?かと思いきや・・・・・

ピークの先は垂直に切れ落ちており、2514m峰と思われるピークの手前には垂直のピナクルが林立している。思わず天を仰ぐ。
3人とも全身駆動のワイルドなクライミングで疲れ果てているのだ。
しかもピナクルは登るには相当難しそうだ。
ここで今日中に下山して宴会やろうというプランは消滅。ビバーク確定ですな。

ピーク上でしばし迷う。

ここからの下山オプションは・・・

1 登ってきたルート下降(支点構築が難しい。手持ちボルトとハーケンでは、灌木が見つからない場合3~4Pの懸垂下降が限界なのでリスクが高すぎる。)
2 左方面に三本槍沢右股を下山(同上)
3 八右衛門沢方面におりている灌木のリッジを懸垂下降(どこまで灌木があるか見えない。支点構築リスクが捨てきれないし、灌木リッジの懸垂下降はロープワークがかなり面倒。)
4 右方面の沢を八右衛門沢方面に下山(同上だが、傾斜がいくらか緩いので滝が少ないかも?)
5 3つのピナクルをすべて根性で登って縦走する。(つらい!つらすぎる!もう精神力も体力も限界だ~!)

とりあえずオプション1, 2, 3はなし。

オプション4の沢下りの可能性を偵察するため、まずは小ピークから沢の上部まで懸垂下降してみる。

沢のほうに少し下って様子を見るが、すぐ下がスラブ状の滝になっていて、その先が見えない。これはあかんな~と上を見上げると、なんとピナクル群を巻いて稜線上に戻れそうなゆるいルンゼが入っているではないか!

これでまんまとピナクル群を巻いて、稜線上の激やぶをこいでなんとか2514峰に到着することができた。

2514峰から巻いてきたピナクル群を振り返る。

左のピナクルが西壁の終了点。その右のルンゼを懸垂下降して3つのピナクルを巻いてはいまつの稜線にあがった。これを縦走したら大変な思いをするところだった。(冷汗)

2514峰山頂にて
ここからは2つのピークを越えて延々のはいまつ藪漕ぎとなるが、2514m峰以降はいくらか人も歩いているらしく、たまに踏み跡もあり、藪漕ぎ自体が少しだけ楽になる。
まもなく霞沢岳のK1。登ってきた尾根を振り返る。
というわけでK1に到着。

もはや霞沢岳ピークハントの余裕はなく、この日は登山道を徳本峠まで行き、ツェルト泊。しかし宮田さんの交渉力よろしきを得て、なんと徳本小屋からビールを入手。打ち上げをして、翌日明神経由下山となった。

【クライミングデータ】

八右衛門沢出会いからK1までのトラックレコード
クライミングルート

八右衛門沢を遡行し、三本槍沢を左に分けるとすぐ右岸が2514m峰西壁。
大きなリッジをひとつ越え、次のリッジ手前のルンゼから取付き。
1P目 ルンゼを左上。クラックと左右のフェース、右側の壁をホールドとして総動員しての繊細なクライミング。50m 5~6級程度。
2P目 ルンゼをさらに左上。岩壁中央部のリッジ上の小ピーク手前まで。50m 4級
3P目 小ピークの上まで50m 4級
4P目 目の前の垂直フェースを直上。半分は草木の根元をつかんでの強引なクライミング。50m 5級A1(灌木の根にあぶみを1回使用)
5P目 草木に覆われた右上ルンゼから右リッジを巻き込み、さらに左にトラバースして灌木帯に入る。30m 4級
6P目 灌木のリッジを直上。50m 2級
7,8P目 灌木リッジ。100m 2級

装備はカム2セット。ハーケン2本使用(1本残置)、残置ハーケン1本発見し使用。ボルト不使用。

タイム
7月24日
05:10 am 八右衛門沢出会い出発
06:00 am 三本槍沢分岐
07:40 am 2514峰西壁基部
08:00 am ルートにしたルンゼ基部
08:30 am 1P目取付き
14:00 pm 終了点のピーク
14:30 pm 終了点より八右衛門沢側に懸垂下降
15:10 pm 2514m峰
16:10 pm 霞沢岳K1
19:30 pm 徳本峠

上記の絵では三本槍の位置を間違えてますm(__)m

参考資料等

霞沢岳でのクライミングに関する資料は非常に少ない。

白水社「日本登山大系」霞沢岳の沢の項に以下の記述がある。
昭和30年台後半、グループドモレーヌ、都庁山岳会などいくつかのグループが八右衛門沢右岸側壁に目をつけ登ったらしい。

ついで上記を執筆した山梨の東斐山岳会のメンバーが昭和40年台に2年にわたり、霞沢岳で18本のルートを登り、山と渓谷410号に記録を投稿した。
記事の要約、紹介はこちら。



南相木グレートトラバース(エクステンディッド)

徒然に地図を眺めていて、何気に訪れてみた城山(海ノ口城址)。
そこから長野県のなぁ~~~んにもない村、南相木村での山歩きが始まった。
南相木村の村界はほとんどが登山道もないような山稜だ。
城山を歩いた後、長野県南牧村との村界尾根をすべて歩き、(酔狂で)南相木グレートトラバースと名付けた。鹿や狸の踏み跡をたどっての素敵な山歩きとなった。
今回はその起点となった馬越峠から反対側(東)に向かって、川上村との村界尾根を歩いてみた。グレートトラバースルートがアップグレード(Extended)されたわけで、城山からはじまって、南牧村との村界尾根にさらに川上村との村界尾根が加わったものを新しい南相木グレートトラバースとしてしまおう。
この先は北の村界尾根を踏破し、それらすべてを包含して「南相木村サーキット」ないしは「ラウンド南相木」とでも名付けてしまおうと思っている(笑)

さて今回も車2台で行って、1台は下山予定地にデポ、もう一台で登山口に向かう作戦。

相棒は長友さん。車も持っているし、山に関しても全幅の信頼がおけるパートナー。ただ彼は4月に右手を怪我してしまい、今はリハビリ中。右手でのクライミングは無理だし、転んで手をつくのもNG。
それでもプロテクターで手を固めての参戦。頼もしいというか無謀というか。

彼の状態を考慮して、馬越峠から登山道のある御陵(おみはか)山往復というぬるいプランを提案したのだが、逆にさんざん長駆登山をそそのかされ、南相木村/川上村の村界尾根全踏破をすることとなり、結局18キロ近くにおよぶ8時間半のロングランとなった。

下山予定地の南相木ダムの駐車場に車を1台デポ。
日本一標高の高いダムと言われるここを訪れるのはすでに4回目。
さて今日中にここに帰って来られるのか?

南相木村村界尾根の南側山稜(南相木グレートトラバース)を横切る唯一のまともな車道、小沢しなの入トンネルを越えて川上村側に抜ける。
登山口となる馬越峠は南相木村、川上村間の峠道で、当然南相木村側からもあがることができるのだが、当分の間は南相木側が工事中で通行止め。なので遠回りしてあがるのだ。

馬越峠から東に向かって歩き出す。

馬越峠から西へ登山道を辿れば先日も通った天狗山。反対側は擁壁となっているが、左の隅に踏み跡があり、登山道に入れる。御陵山までは比較的よく整備された道。

御陵山って、この山域に唯一残る伝説、悲運の皇子重仁親王の陵?とか思ってたけど、違うことが書いてありますな。まあ強引に結び付けて仮説をたててみたりするのも楽しいでしょうが、それはまた今度。

壊れかけた祠に手を合わせてさらに先へ。
振り返れば天狗山
登山道はなくなるが尾根は歩きやすい。踏み跡もそこここに残っている。

御陵山から東に1.5キロ程度縦走した先、1753m峰あたりが地形的には今回の核心部。何せ長友さんは、転んで手をつくことが絶対許されないのだ。

岩稜ぽくなってくる。慎重にルートファインディングしていく。
川上村側にまたまたソーラ出現。

そういえば馬越峠の手前も伐採中とあって、大量の樹林を切り倒していた。どうやら川上村は南斜面のすべてをソーラにするつもり?
薄っぺらい偽善と拝金の匂いがプンプンして不快感マックス。

しばらく岩稜がつづく

尾根がなだらかになってきたあたりで、川上村から南相木村に抜ける林道をまたぐ。

尾根は延々とつづく。少し飽きも入ってくる。

ところでほとんどの行程を長友さんに先導してもらった。
体力差を補うのにこれはかなり有効だった。
道を読んで、GPSで確認して、ペース配分して・・・という作業がかなり体力を使っているんだろうと思う。
ただひたすら長友さんの後ろ姿を追って歩くのが楽で、癖になりそうだ。
これも長友さんに全幅の信頼がおけるがゆえ。道もたまには間違うが、それは自分も同じだし。間違いも含めて信用してついていく。そんな気持ちになれるのがなぜか嬉しい。

今回は8時間半ほどの行程だったが、道中のかなりの部分を二人で喋り散らした。これも毎度のパターン。

長友さんによれば私の登山は「最高に享楽的」なんだそうな。
最大限の誉め言葉として受け取る。

クライミングばかりやってた10台最後から20台のころ。
仲間がばたばたと亡くなっていくのを見ていて、自分の寿命も長くて30くらいだろうと思っていた。だったら死ぬまでの残り少ないクライミング行を最大限に楽しいものにしないと・・・と思った。
無駄な山行をなるべくしないよう、少しでも多くの感情を味わい、多くのものを見て、怖い想いもして、多様な山の楽しみに、クライミングという最高にクリエイティブな表現行為を通して触れなければならないという強迫観念に突き動かされていたように思う。

30過ぎても、40過ぎても、50過ぎてもなぜかまだ生きていて。
だんだんそんな切羽詰まった気持ちも薄れてきて。
でも還暦過ぎて、人生の終わりまでの時間を数えはじめた今、なぜかあの頃に近い感覚が戻ってきているみたい。
死ぬまでにできるクライミングはもう限られている。
だから無駄な暇つぶしみたいな山はやりたくない。
すごい山とか難しい山をやりたいわけではなく、自分として納得のいく山との触れ合い方、素敵なパートナーたちとの関係性、岩や山肌の感触、まだまだあるだろう未知の感情・・・・そういう無数で多様なものをすべて自分のなかに封じ込めて死にたいな~
なんて話を道中ず~っと話していた。

もちろん長友さんの登山論、美意識などについても興味深く拝聴した。
今回は前のように高いところから低いところに縦走するという楽な道をとらず、登りの多い道中になったのも長友さんのそんな美意識によるものが多い。そのへんこだわらない私は従うのみ。

道半ばを過ぎた1907m峰あたりでお昼。今回は飢えないようにおにぎりいっぱい持ってきた。

私の持ってきたシャトレーゼのよもぎ饅頭、長友さんのカロリーたっぷりビスケット、ウィダーインゼリーなど、おにぎり以外の食の楽しみをとっておいて、「あのピークについたらこれを食べよう!」というのを大きな楽しみに道を進める。

今回の最高到達地点。高天原山。国土地理院の地図には山名記載がなかったが、Geographicaには出ていた。ここで南相木村/川上村の村界尾根はおしまい。

ここから北に、今度は群馬県上野村との村界尾根に入る。すでに南相木ダムの東側に回り込んでいるので、このままダムに下りれば今回は終了。

南相木村の山は、北斜面がなぜかみなシダに覆われている。尾根をたどってダムにおりようと思ったが、シダに覆われた足元が見えなくて、倒木や苔に覆われた岩が滑るので危険。

尾根をやめて沢下りにする。三川は南相木側、奥三川湖(南相木ダムのあるところ)の最上流だ。

南相木ダムの遊歩道から三川に伸びる林道に着く。
南相木ダムの遊歩道をぐるっと半周して、デポ車を停めた駐車場へ。
南相木ダムに到着

【記録】

トラックレコード(西から東へ)

左端の馬越峠から歩き出し。東へ御陵山。その先は登山道はなし。
踏み跡をたどってさらに東へ。オソネ、東沢の頭と名付けられたピークを越えてさらに東へ。
再東端は高天の原山。北東には御巣鷹山。このまま東へ行けば三国山。

高天の原山から北上し、途中から適当に西の尾根に入る。三川の沢を下って南相木ダムに到着。

歩いた日:2022年6月26日

馬越峠 7時30分発
1753m峰 9時30分
オソネ  11時11分
1907m峰 12時10分
1935m峰 13時15分
高天の原山 13時45分
三川林道  15時15分
南相木ダム駐車場 16時着
全行程約17.5km 8時間半の歩きだった。

南相木グレートトラバース

初夏の彩りに満ちた、美しくなだらかな、そして変化と起伏に富んだ尾根を縦走してきた。数知れない鹿の群れと、熊やいのしし、狸の痕跡に満ちていたし、林業家の手は入っているものの、登山者の訪れた気配はほとんどなかった。

長野県南相木村と南牧村の村界尾根を縦走するこのルートに、勝手ながら「南相木グレートトラバース」という大層な名前を付けた。

直線距離で約7.5kmの比較的なだらかな尾根で、西端近くに武田信玄初陣の地と言われる海ノ口城址(城山)、東端は佐久の盟主男山と天狗山の間に位置する垣越山となる。
この尾根上で国土地理院の地図に名前が載っているのは、城山と大芝峠、合羽坂、それに臨幸峠だけ。あとは垣越山も含めて、各ピークに標高を示す数字が記載されているだけだ。つまりほとんど知られないマイナーな尾根だということ。たいがいのデッパリには登ってヤマレコあたりに記録を残しているあのディープハイカーズも、ここにはほとんど足跡を残していないようだ。

これはパトロールが必要だと、まずは尾根の中央あたりにある臨幸峠というところに登ってみた。

コゴミの親分ソテツに覆われた、急な北斜面を登っていくと峠で植生が明るく変わり、八ヶ岳などの展望も一気にひらけた。なだらかで、美しい尾根だ。

パトロールの際は臨幸峠から東、天狗山の方向に少しだけ縦走してきた。やぶの密生も激しくなく、展望に恵まれた気持ちのよい尾根だった。

天狗山から臨幸峠を通って、海ノ口城址(城山)までつなげたら、楽しいルートとなるだろう。このルートは川上村を一部通り、南牧村と南相木村の村界を辿るものとなる。商業的な開発や有名な山、観光資源に乏しい南相木村に興味を持って、何度か訪れたことから始まった縦走プランなので、「南相木グレートトラバース」と名付け、実行することとした。

メンバーは強くて力持ち、ダンディーI口さんと、ハンターで写真家のワイルド自然児T丸さん。全長13.5kmほどの道なきルートを行くプランなので、植生や岩場の状態次第でどれくらい時間がかかるかわからない。しかし今回は、体力十分、経験十分で頼りがいのあるメンバーがそろったものだ。つまり足引っ張る担当は赤沼ということで。

左から野生動物の敵(あるいは仲間?)T丸さん、おにぎりいくつ持ってあるいてるんですか?なI口さん、それに疲れ気味の赤沼

土曜午後に八ヶ岳南麓の家に集合して、もちろん宴会。T丸さん持参のロースト鹿肉に舌鼓を打ちつつ、酒の空瓶が並ぶ。
それでも翌朝は4時に起きて出発。
I口さんの車を佐久海ノ口駅にデポし、南相木側から赤沼車で馬越峠に向かう・・・が、まさかの雨。プランはいったんあきらめ、南相木唯一の観光資源ともいえる、南相木ダムまでドライブ。一応登山口を確認しておくかと馬越峠に向かってみたがなんと工事で8月まで通行止め。
ここまでやってもまだ6時台。では南相木から臨幸峠を越えて、川上村の御所平に至り居を構えたという悲運の皇子、重仁親王を祀ったと言われる御霊神社にも立ち寄り、さらに川上村側からの馬越峠も偵察しておこうということになった。

御所平の御霊神社。入口は藪に覆われていて場所を見つけるのに苦労した。

さて今度は馬越峠に川上村側から登っていくと、峠まで着いてしまった。
どうやら工事は相木側だけらしい。
時間は8時前。そしていつの間にか雨は止み、晴れ間さえ見えている。


「天狗山でも往復してくるか?」
「だったら臨幸峠まで行って、そこから佐久側におりれば小海線の佐久広瀬駅から電車でI口車まで行けるんでは?」
「いやあ、それだと車道歩きが長いし、たいして所要時間もかわらなそう。なんなら予定ルートで佐久海ノ口まで歩いてしまうか~」

というわけで行動計画は徐々にヒートアップし、予定プランの実行となった。7時50分馬越峠出発!

そもそも出発地点を馬越峠に持ってきたのは、天狗山さえ登ってしまえばあとはだいたい下りの尾根になるからという安易な理由。
本格的な登りは天狗山のみ!ということで、ここはふんばって30分で天狗山山頂着。

天狗山より男山方面を望む。その手前のピークが垣越山。ここから右へ尾根を下りて行くプラン。下ってますな。はは。
垣越山に向かうと左手に川上村の壮大なソーラー発電所が見える。山の自然破壊の主役は今やゴルフ場からソーラー発電に移ったのかな~(怒)


垣越山までは登山道。そこから右の尾根に入っていく。
尾根沿いにある程度は踏み跡があって、案外と歩きやすい尾根。
1か所岩稜がシャクナゲに覆われていて歩きにくい場所があったほかは、ルートを通してさほどの藪もなく、GPSとT丸さんの野生に導かれつつ、人間やら鹿やら熊やらの道を拾って快適に歩くことができた。

馬越峠から約5時間で海ノ口大橋に到着

梅雨入り直前の良い時期で、多彩な色どりの変化を見せる緑に魅せられ、野生動物たちと共有する土や岩の感触に癒されながらの徒歩旅行となった。
地図に山名記載のない山も、行ってみると小さな標識なんかがあって地元で呼ばれている山の名前がわかったりすることが多いものだが、今回はそういう情報はまったくなし。登山が目的で入る人のほとんどいないエリアなのだろう。

予定では以前に登った海ノ口城址(城山)まで行くつもりだったが、その部分はもう歩いたからいいやと日和って、手前の大芝峠からその下を抜ける小沢志なの入トンネルの入口(出口?)を通って佐久海ノ口駅に戻った。国土地理院の地図上は大芝峠、合羽坂、臨幸峠には峠越えの道が記載されているが、すべて廃道に近い状態で踏み跡はほとんど見当たらない。

今度はふたりの健脚に引きずられて、相当早いペースで歩いたので、全行程5時間ほどで終わることができた。普段のペースだったら倍くらいかかったかも。以下のデータはそういうつもりでご参照のほどを。

【データ】
2022年6月5日
馬越峠 7:50am
天狗山 8:20am
1656m峰 9:43am
1683m峰 10:05am
1591m峰 10:30am
臨幸峠 10:40am
1518m峰 11:05am
合羽坂 12:00am
大芝峠 12:13pm
佐久海ノ口駅 12:50pm

2022年新年じじい会

昨12月、二階さんから「忘年山行やろうぜ!」という声があったのだが、赤沼がちと忙しかったものでお流れ。
その責任をとって新年、山巡じじい会を企画した。

行先は北杜市須玉町の城址。今は廃道となった、自衛隊の切り開いた林道を行く。

メンバーは後期高齢者に突入した最長老そーのすけさん。なんと下又白谷の全貌をはじめて世に明かした記念すべき山行であった「下又白谷山巡稜」初登攀メンバーのひとり。
パン屋のわたべさん。下又白谷研究の第二世代の代表ですな。赤沼とともに下又白谷本谷の遡行や、菱型スラブの初登攀もやってます。今は温暖な小田原でのんびり暮らしてます。
で、二階さん。山巡としては快挙だった、カラコルム山群の未踏の7000m峰、トリニティーピークの初登頂時のサミッター。
それに還暦にして最年少、赤沼の4名。
オールドクライマー集合の図です。

いつもは山に登って山頂あたりで宴会ってのが毎度のパターンですが、時期的にとても寒いし、「高度500メートル以上、1時間以上の歩きはだめ」とか言い出す人もいるし。
諸々配慮して、先日歩いた源太ヶ城址を散策して、近くの赤沼別宅で宴会という企画をたてました。

大門ダムの擁壁上にでると八ヶ岳がきれいに見える。

昨年11月に初めて登った際は、自衛隊の切り開いた林道の末端が擁壁になっていて、大門ダムにまっすぐおりることはしなかった。
今回は大門ダムに車を停めて、擁壁のはしのほうから林道にあがることにした。

擁壁のはしのほうにはしごがあって急坂からダム上に出られる。


そーのすけさん。うん十年前から変わらぬ登山ウェアに注目!

わたべさんは昔から伊達でしたね~
源太ヶ城本丸址?山頂で記念撮影。
宴会は下山後って言ってるのに、どこからともなくビールが出てくるし。

そして赤沼宅で宴会はつづきます。

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