アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

月: 2026年5月

弾左衛門の峰

弾左衛門の峰はとんがり山だった。
しかもあるはずだった針葉樹林は伐採されはげ山のようになっていた。
しっくりこない歴史検証と実地のパズルが、かちっと音をたててはまったような気がした。

弾左衛門の峰は、高尾を遊びつくす作戦の一環として目にとまった山。

弾左衛門といえば、徳川幕府の時代、関八州のエタ、非人の頭領として初代から13代まで代々の当主が名乗った世襲名。浅草弾左衛門としても知られる。
徳川幕府からは幕臣なみの立場を公認され、裁判権や徴税権、革細工の利権を持って賎民を統括、支配してきた。

浅草弾左衛門は浅草に3000石の旗本ほどの屋敷を構え、関東全域および伊豆、甲斐、駿河などのエタと言われた特定の職能集団(皮革製品の製造および専売、死牛馬などの処理、刑の執行と事後処理、警備、清掃など)を統括し、大きな利権を持っていたという。
賎民の頭でありながら幕臣に近い待遇を受け、江戸城への登城も許されるほど高い社会的権力を持っていたらしい。
ところで、その名が付された山はどこにあるのか。

弾左衛門の峰は奥多摩の戸倉三山(臼杵山、市道山、狩寄山)の途上にある標高669mのピーク。
弾左衛門の峰からは東に恩方アルプスと呼ばれる尾根が陣馬街道の北側に沿って伸びる。陣馬街道の南は北高尾山稜。さらに南が甲州街道(小仏峠)をまたぐ表高尾となる。

登山の対象としては大して目立つこともない小峰に過ぎない。

なぜそんなマイナーな山に弾左衛門の名が付されたのか?
浅草弾左衛門や、八王子から陣馬街道の民俗史の資料をいくつか調べてみた。

八王子は甲斐、信濃からの敵の進入経路である甲州街道の関門にあたる、軍事防衛の要衝であり、交通、物流の拠点であり、経済産業の心臓部であった。そのためここは天領すなわち幕府の直轄地として管理されていた。
徳川時代の稀代の実務家大久保長安によって八王子千人同心など、半農半士の防衛システムが組織され、(おそらくはその大久保長安の差配により)弾左衛門傘下の職能集団もここにいたこともわかってきた。
この職能集団は軍事物資として重要な皮革製品の製造、管理、流通をひとつの生業としつつ、幕府の命を受け街道の監視、処刑の手伝いなども行った。

ところで当時八王子には大和田刑場という処刑場があり、そこでは見せしめのための公開処刑も行われていた。
鳥越の刑場で山田浅右衛門などの武士によって行われた非公開処刑と違い、公開処刑には一種のパフォーマンス性が求められた。
そこで刑の執行役として登場するのが日頃乞食のように村はずれでごろごろしている(ように見える)、エタ非人たちであり、河原ものと呼ばれた彼らは首切りや遺体を刻んで運ぶ役割も負っていたという。
牛馬の死体を処理し、皮革製品を製造する仕事とも共通するが、「穢れ」としてタブーとされた仕事を行う、聖なる清めの力を持つものとして扱われた部分もあるようだ。
ちなみに彼らには遺伝子的特徴として髭面、長頭の者が多かったとも言われる。

さて彼らは幕府の命を受け、以下のような治安維持の仕事を行っていた。
● 罪人の捕縛、護送、処刑の執行
● 諸国巡察(見回り)
● 不審者の検察、取り締まり
すなわち特定の場所に人を配置して、怪しい人間を監視するのは、弾左衛門傘下の職能集団にとって日常的な公務であった。
そういう見地から弾左衛門の峰の地理的条件をとらえると面白いことがわかってくる。

高尾の中心を通る甲州街道には小仏関所という非常に厳しい関所があった。
手形を持たない罪人などは、関所の正規ルートを避け、北側の山を越えて陣馬山やあきる野へと抜ける山道を使って山抜けを試みた。
弾左衛門の峰はまさにその、小仏関所を迂回して北側へ逃げようとする山道(北高尾山稜やその周辺の尾根道)を広く見渡せる立地にあった。ここに山番を置くことは防犯、警備上の定石とも言えるわけだ。
多摩や武蔵国の山における山番の多くは、弾左衛門の配下にある長吏(職能集団)が任命されていたこともわかった。
弾左衛門の峰は、弾左衛門配下の山番たちが駐在した拠点だからこそそう呼ばれたのではないか?
さらに弾左衛門の峰のすぐちかく(ピークから見下ろせるなだらかな尾根)に鳥切場という名のピークがある。
かれらは幕府の鷹狩の餌となる鳥などをここで捌き、処理していたのではないか?

ただ、こういった仮説のすべてを否定する致命的な要素がひとつあった。

弾左衛門の峰を訪れた登山者の記録のどれを見ても、ここは樹林に覆われた地味なピークだったのだ。
展望のまったくないピークで街道の監視?

そんな仮説の検証のため・・・・と言いつつ、楽しい仲間と八王子城址近くから弾左衛門の峰へと続くマイナー尾根「恩方アルプス」を歩いてみた。

この山行は夕方早くから高尾で酒を飲む予定が優先されたため、時間切れで目的の峰にはたどり着けず途中下山。

今回、ひとりでこの下山ルートから稜線のさらに先を踏破し、鳥切場を経て弾左衛門の峰を踏んできた。

前回は東の恩方アルプス稜線を縦走してきて、高留沢の頭から夕焼け小焼けふれあいの里に下山。
今回は夕焼け小焼けから下山コースを高留沢の頭まで登り返し、西に弾左衛門の峰まで歩き、その先の登山道は長いので送電線下の尾根を下山してきた。

湿度の高いくもり空のもと、前回の最終到達地点、高留沢の頭に至る。

稜線を進むと山頂付近に送電用の鉄塔の立つ、弾左衛門の峰が見えてきた。ピラミッド型のピークがよく見える。なんであそこだけ禿げてるのだろう?

鳥切場から見た弾左衛門の峰。
山頂部分から北側斜面一帯のほとんどが伐採されていた。


そういえば北の入山峠を通って弾左衛門の峰に行く道が伐採作業のため閉鎖されていた。看板には東京都農林水産振興財団、花粉対策室とあった。
花粉の元となる針葉樹林を伐採しているのかな?

鳥切場の頭という標識の向こうは黄色テープで閉鎖中。

かなり大掛かりな伐採のようです。

そして弾左衛門の峰に到着。


弾左衛門の峰から。かなり遠くまで見晴るかすことができますな~。
ん?
これが全部はげ山だったとしたら、ここって最高の監視場所になるね。

なだらかな尾根の左端。ここだけ樹林に覆われているのが鳥切場の頭
弾左衛門の頭からもよく見通せる、なだらかな作業場に最適な場所に見える。

そういえば。

江戸時代って、薪の供給などのために関東一円の山で樹林が刈られてしまい、はげ山だらけだって話を聞いたばかりだったわ。
針葉樹林なんて江戸時代以降に植林されたものだものね。
てことは、この辺もはげ山だった可能性が高い?
だとしたら山番にとって絶好の監視場所じゃん!
弾左衛門の峰ってはげてみると、きれいな三角形にとがった姿形のよいピークだよ。(というか北高尾一帯の山は針葉樹林に覆われていてわからないけど、歩くとピーク付近はどこも急登になっていて、こんな風に格好よいのかもしれないけど。)

「たまたま」山の樹林が伐採されていて、
「たまたま」当時の山がはげていたかもという話を聞いて、
なんか仮説が事実だった可能性がぐんとあがったかも。

さてさて。
なんとなく弾左衛門の峰まで実際に来てみて、ほとんど期待もしていなかったのに、楽しくなるような成果があったよ。
気分をよくしながら、同じ道を戻るよりは地形的には歩きやすそうな尾根があるのでまっすぐ里までおりてしまえ・・・と登山道表記のない尾根へ。

登山道表記はないけど、下りてみたらピンクテープとしっかりした踏み跡がついていてとても歩きやすい尾根でした。

カヤトの原東南壁

赤沼がクライミングを始めたのは1970年台の後半。
そのころ登山に使っていたのは主に国土地理院発行の地形図だったが、まわりの登山者たちからは「りくそくの地図」と呼ばれることが多かった。
陸軍陸地測量部(りくそく)は1945年の終戦のときに解体して、地図関係の仕事は内務省国土地理院に引き継がれたわけだが、1970年台になってもまだ「りくそくの地図」と呼んでいたのはなんだか不思議な感じがする。

まあそれはともかく。

RCCⅡ発行の「日本の岩場」に紹介されている著名な岩場をある程度登ると、ルート図のあるクライミングに少し飽きてきて、未踏(未知)の岩場を探し出しては登る自由さが楽しくなってきた。
地形図上で「毛虫」のような岩記号を探しては偵察に行くわけだが、よい岩場にあたる精度は低くて徒労に終わる場合が多かった。
やがて自分の勘が働くようになってからは精度もあがってきたが、そのころには体力が落ち目に・・・・
傍らでテクノロジー?も進化してきて、地形図に岩質マップのレイヤーをかけてみたり、篤志ハイカーのブログの写真をあさってみたり、Google earthで確認したりもできるようになってきた。
そうやって見つけた五郎山の岩場でのクライミングは最近の成功例のひとつ。

さてここで最近売り出し中で世間をぶいぶい言わせてるAIの力試しでもしてみようかと思い立った。
前日妻と十石山で長めの登山をやって北杜市の家に帰ってきて、午後から東京の家に戻る予定なので、午前中に周辺の岩場でも探しに行くかとGeminiに「北杜市周辺でまだ人に知られていないが、クライミングの楽しそうな岩場」の調査をさせてみる。
見つけてきたのがこれ。

おなじみの信州峠から横尾山に向かう途上、カヤトに覆われたなだらかな展望ポイントの東南面にたしかに小さな岩記号がある。
たしかに花崗岩の多いエリアだし、ちょっとしたスラブなりクラックくらいはあるかも?
そういえば瑞牆山あたりのクライミングで名を馳せた兄貴分の中尾さんも「最近はボルダーすら開拓されつくされてきて、山奥に行かないといい岩場が見つからん」なんてぼやいてたっけ。
面白そうな岩場でもあれば誘って登りに行けるね~。

家から信州峠は車で30分。
ここから登山道を30分程度でカヤトの原にあがる急斜面の手前。ここから左手におりていく。

この辺から登山道をはずれて左斜面を下りる。

あっという間に岩記号のあたりについたが・・・・あはは。
岩ごろごろの中に藪だらけの露岩がいくつか。
まあ地形図には岩記号つけるわな。これなら。

岩記号のどまんなかあたりにきれいなルンゼが伸びている。
写真の見た目よりはだいぶ急で結構いやな登りになるな、これは。

ルンゼの両岸が一応やぶやぶの岩稜となっている。右の岩稜のほうが岩の露出が大きいかな?樹林やブッシュがついていてすっきりはしないけど、難しくはなさそうだから登ってしまおう。
位置的には中央岩稜ってなところ?(笑)

こんなところをなるべく岩稜沿いに登る。
やぶ岩稜登り初級って感じで案外と楽しい。

最後の方は岩が減って、傾斜強めの木登りフェース。

傾斜が落ちてくるとまもなくカヤトの原直前の登山道に飛び出した。

うしろを振り返ると稜線上に素敵な岩塔がにょきにょきと。
あれ?あっちのほうが楽しそうじゃん・・・とよく見たら瑞牆山でした。

カヤトの原に到着。
南アルプスや八ヶ岳、北アルプスまでよく見えてますな。

カヤトの原からののどかなパノラマを動画撮影。

信州峠からアプローチ含めて1時間半ほどの楽しいお遊びプランとなりました。
まあクライミングの岩場探しとしては失敗ですが、Geminiにこれからノウハウを詰め込んで学習してもらうといたしましょう。

十石山

乗鞍岳から北に延びる乗鞍連峰は、信州(長野)側と飛騨(岐阜)側の国境稜線を形成しつつ、焼岳を経て西穂高岳に至る。
かつて信州と飛騨を結ぶ峠越えの古道があり、鎌倉時代にはそこが整備されて鎌倉街道の一部となっていたらしいが、安房峠を越える道とトンネルが開通してから廃道化している。
国境稜線上には整備された登山道は一部しかなく、静かな登山の楽しめるエリアとなっている。
そんな中で十石山(標高2525メートル)には白骨温泉からの登山道が整備されていて、比較的登りやすい山のようだ。
穂高連峰や乗鞍岳などに囲まれた眺望のよい山としても知られている。
思い立ってゴールデンウィーク明けの平日に妻と登って来た。
他の登山者にはまったく出あわない静かな山旅となった。

白骨温泉近くの登山口に車を停めてスタート。
上部にはまだ雪が残っているようなので、登山靴とストックにアイゼンも一応持参。

笹薮と樹林に覆われているが、登山道はよく刈り払われ整備されている。


標高2000メートル付近から残雪が増えてくる。
シャツ一枚で汗ばむくらいの陽気。雪もいくらか緩んでいるが、ごくたまに足がはまり込む程度ですんだ。
標高2200メートルあたりで穂高が見えてきた。

標高2400メートルあたりから稜線までは広大な雪の斜面となる。
表面が凍ってはいないので危険はないが、妻はここからアイゼン装着。
赤沼はツボ足でステップを切りつつ先導。

間もなく稜線

ここまで約4時間の単調な登り。しかもアイゼンをつけていた妻はこの辺で「もう疲れた。下りたい」とか言い出すが、稜線まで行けば眺望が広がるはずともう少し進んでみることに。

ようやく稜線上の避難小屋が見えて来た。ここまでくれば山頂は至近。

なだらかな稜線に雪は少なくハイマツに覆われている。
小屋から少し山頂方面に歩くと一気に視界がひらけ北アルプスの峰々が姿を現す。
手前が焼岳、その向こうには笠ヶ岳から双六方面への稜線、その右は穂高連峰から槍ヶ岳までが連なっている。

疲れもすっかり吹き飛び、嬉しくてしょうがないらしい。
とても小さな山頂標識がハイマツの中に立っていた。

山頂からハイマツに覆われた踏み跡を少し辿ると、ようやく乗鞍岳方面の眺望がひらけた。

午後から雨の予報だしと下山開始。
先にどんどん滑りおりていったら、「そんなに離れて、私が熊に襲われたらどうやって助けにくるのよ!」とか怒ってるし。
いや熊と戦っても勝てる自信ないけど・・・・ま、一応熊対策3点セット(鈴、匂い袋、熊スプレー)は赤沼が携帯しているんですが。

約8時間の行動となりました。

下諏訪の矢木温泉(300円、この日は無人、石鹸等なし)に立ち寄ってさっぱりしてから、北杜市の家近くの行きつけ居酒屋に直行しました~。

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