アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

カテゴリー: 雑談

比志津金山塊・笠無

笠無(1,476m)は比志津金山塊の最高峰。なぜか笠無山ではなく、笠無と呼び捨ての山で、一般的な地形図には登山道も山名も記載されていない。
実のところ、比志津金山塊自体がほとんど知られていない山脈であり、ここで山名が記載されているのは先日たまたま登ってみた斑山くらいのものらしい。
それにも関わらずネットで検索をすると結構な数の登山者が訪れて(といっても篤志家には違いないが)いるようで、地図に記載のない山名がわかるわけだ。
八ヶ岳、南アルプスをはじめ屈指の山岳展望が得られることに加え、縄文時代の遺跡が多くでてきたり、「甲斐国誌」に記載のある棒道や穂坂路にはさまれた文化的、歴史的にも重要な土地であり又、きのこや山菜、美しい広葉樹や松林などにも恵まれた自然の豊かな地域であることもたしかだ。

今回の目的は比志津金山塊の最高峰「笠無」に登ること。
確たる登山道こそないが、この山に至る踏みあとは縦横無尽にありそうだ。登山者の記録によく名前の出る「比志の塒」、「摩利支天」、それに笠無に近い重要な文化財でもある海岸寺の裏山「海岸寺山」もはずせないということで、これらを横断するルートを想定してみた。

今回は岩登りの仲間4名。とは言ってもクライミングだけでなく、山登り全体の好きな大人の集まり(?)で、里山ハイキング案にもすぐに同意してわいわいと行くこととなった。
車が2台あるのを幸い、一台を下山予定の海岸寺近くにデポする作戦で行く。海岸寺からは林道、比志海岸寺線を塩川ダム方向に向かい大尾根峠(地図に名前はない)から尾根を北上することにした。

大尾根峠に車を置いて登山開始。伐採後に残る踏みあとを辿る。

稜線に出たら、笠無と逆方向に向かい「比志の塒」を往復。
比志の塒には山名の書かれた板があったようだが、腐りかけていて判読不能。
摩利支天ってどんなところ?と思っていたが、岩の上に摩利支天と書かれた石碑があった。
ここはなかなかの展望ポイントでもある。
笠無山頂

笠無までは比較的はっきりとした踏みあとがあり、あっさり山頂に至る。
ここから先は尾根筋のはっきりしないところも増えてくる。南に下る尾根には踏みあとがいくつかあり、迷い込みやすい。文明の利器GPSを駆使して方角を定めて行く。
それにしても気持ちのよい山だ。新緑の広葉樹にほぼ覆われており、ところどころが松林となっている。きのこ類も多く途中できくらげを収穫。
多少道をはずしても藪はそれほど深くないので、自由自在に歩ける。
山容も変化に富んでおり、歩いていても飽きがこない。

本当にいい山だ。

道中珍しい道標。だがこの先踏みあとははっきりせず、結局地図とGPS頼りになる。
樹林のなかを自由に歩き回る。いつの間にか笑っている人、歌を歌いだす人。多幸感に包まれる人。
海岸寺山まで約4時間の道のり。海岸寺はもうすぐだ。

穂高・下又白谷菱型スラブについて

手元の山日記では、下又白谷菱型スラブの初登攀をしたのは1980年8月2日となっている。
当時、日本での岩登りといえば、第二次RCC著となる「日本の岩場」というルート図集が唯一体系的な情報であり、下又白谷の項には黒びんの壁と菱型岩壁のみが掲載されていたと記憶する。(黒びんの壁はJECCによりR1, R2などと紹介されていた。別称、下又白壁または白又白壁とも言われる。)
菱型岩壁はその中でももっとも登攀の困難な岩壁のひとつとされていた。
下又白谷は穂高のなかにあってもっとも急峻な岩壁に囲まれたエリアであることは事実であるが、「日本の岩場」における、菱型岩壁に関するおそろしげな記述も、下又白谷=悪絶というイメージに貢献していたかもしれない。

山岳巡礼倶楽部、わたべゆきお氏作成の菱型岩壁周辺写真

さて、わたべ氏が目をつけた菱型岩壁左のスラブ帯の登攀は、それまで下又白谷の地域研究に取り組んできた山岳巡礼倶楽部の1980年夏合宿のテーマの一つとなっていた。

以下、手元のノートから記録を転載する。

1980年8月1日
わたべ氏と徳沢入山

8月2日
下又白谷F1洞穴ルート開拓~F2~菱型ルンゼ~菱型スラブ下部開拓~壁内でビバーク

下又白谷本谷の遡行をするつもりで徳沢より入山。
F1前壁JECCルートはとらず直登ルートを作るべく、JECCルートより右のバンドに取付く。非常に悪いフリー2P(Ⅴ+)を加えた5-6Pで終了。F1上に立つ。ボルト2本、ハーケン約10本使用。
F2を2Pのフリーで越え菱型ルンゼにはいる。
菱型岩壁の左側に展開する3本のスラブへの登攀を試みる。フェース2P終了後、Ⅲ~Ⅳ級のスラブを10Pほど攀り、Ⅴくらいの草付き交じりの岩場を超える。そこで暗くなったので1本の灌木にまたがってのビバーク。水なしのつらいビバーク。

8月3日
ビバーク地上部の草付き(Ⅴ+)を登り、ルートの概念をつかむ。
スラブは3本あり、右寄り1スラブ、2スラブ、3スラブと名付ける。登ってきたのは1,2スラブの中間リッジとなる。2スラブはビバーク地点あたりで傾斜を増し、垂直となっていたので中間リッジに逃げたのだ。
ビバーク地点からは2スラブにおりず、草付き帯を行く。さらに約10Pで登攀終了。はいまつの藪漕ぎで茶臼の頭に至り、奥又経由で徳沢に下山。

赤沼の山日記より

この後、8月5日には下又白谷正面壁中央稜を途中まで登っている。

1980年のルートは山巡ルートとした。この図は「岩と雪」誌に掲載したもの。

さらに翌年1981年の夏合宿で、第2スラブの直登ルートおよび第3スラブの初登攀を行っている。

1981年8月8日
屏風岩を登っていた赤沼、津賀は徳沢に移動。今日入山してきたわたべ、小野寺、赤塚、宮本と合流。

8月9日
全員で下又白谷F1偵察。
雪が多くF1は右端を楽に登れる。フィックスも発見。バンド上に1P新しいルートを伸ばす(注:意味不明)

8月10日
わたべ、赤沼、津賀、赤塚で下又白谷菱型スラブ2スラブを初登攀。山巡ルート開拓の際逃げたルンゼを直上して2スラブに入る。このピッチはⅥ級以上あった。

小野寺、宮本で3スラブを初登攀。
(注:こちらも「岩と雪」誌に掲載したはずだが見つからず)

赤沼の山日記より

下又白谷菱型スラブ山巡ルート開拓についての、わたべ氏の記事も紹介しておく。これは山巡の新人募集冊子に掲載したもの。

◎ 穂高岳下又白谷下部菱形スラブ初登攀(抄)
            わたべ ゆきお

・・・・時刻は八時になっていた。ライトを出しビバークの準備を始めるが、ビレーをしていた所は、二人がしゃがみこむにはあまりに狭すぎるので、細いリッジを五mほど下った所に場所を見つける。ブッシュとブッシュの間にもぐり込むようにして、坐り込み身体をブッシュにくくりつける。私たちがはい上がってきたのとは反対側にもルンゼ状のスラブ(第一スラブ)が走っており、そこまではすっぱりと切れている。リッジの上方はブッシュを混じえた露岩がかぶさっており、下方もブッシュのついた鋭いリッジで、すぐ空間に消えている。つまりは、四方がすべて急峻であって、平らな所はどこにもない。ここまできては、もう下降は考えられず、登り切るしかないのだが、どうなることやら・・・・。
曇天のせいかそう気温は低くないようだ。私は軽羽毛服を取り出し、下半身だけシュラフカバーに沈める。ツェルトはちょっと使える場所ではないし、雨でも降らない限りはいらないだろう。空腹感はそれほど覚えはないが、水のないのが何よりもつらい。
赤沼が「横尾の灯が見える」と言ったのは、横尾ではなく、徳沢だった。夜の森の中にポッカリと徳沢園や天幕たちの明かりが、みじめなビバークの私たちの目の下にあって、それはまるで幸福の定義そのものだ。清冽な水があふれ、ビールやウィスキーのボトルが並び、歌声がしみ出し、それに時折り少女たちの歓声が混じり、花火だって上がるかもしれない。だが、私たちは・・・・。
足先の方が下っているので、ともするとずり落ちて行く。
「上の方も悪いですよ・・・」赤沼が不安を隠さずにいう。さらに、冗談とも本気ともつかずに「これをいい機会に山なんかやめようかな・・・」ともいいだす。「山をやる理由なんかないんだ。別に山でなくても・・・・」
私はいうべき言葉を持たず、ひたすら少しでもマシな体位を求めてセッセと身体を動かす。いままでのいくつもの経験で、意志と、時間と、そして・・・・そういったものが、すべてを解決してくれるのだ。昭和残侠伝(唐獅子牡丹)の高倉健だって、修羅場をいくつもくぐり抜けて立派なヤクザ屋さんになっていったのだ。またフランスのおじさん(サルトル)は「経験には死のにおいがする」といったし、「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それこそが、賭ける者、戦う者の宿命と名づけられるべきなのだ」とは寺山修司の競馬エッセイによく引用されるウィリアム・サローヤンの言葉だ。要は、運のいい男には人生の終わりよりもルート・登攀の終わりの方が先にやってきて、運が悪ければ、平田や上村のように激しく短い生を終えて夜空輝くお星さまになれるのだ。
夜半、月明かりで目が覚める。半分にも満たない欠けた月だったが、それでも人っ子一人いないこの下又の岩の大伽藍を銀色に浮び上らせるには十分だ。それまで、私は夢の中なのか、それとも実際に身体がずりお落ちたのか、何度も墜落感を覚えてギクっとした。光速でもってブラックホールの中に、私の幼児期の混濁した意識の海の暗黒の中に、収束していくような、ひどくメタフィジカルな、パスカルの深淵のような、メチャクチャ冷汗感覚。
——朝は、もう今すぐくるべきなのだ。
私のビバーク。私の《山》。五彩のトキ。—–心配無用の日々だけがあって、鋭さを持たぬために、瞳孔はやや開きかげんで、抒情は水分を失い、鮮やかな色彩も、急激な気温の変化も、熱すぎる眼差しも危険すぎる街での曖昧なゼリー状のトキ——こいつらを束ねて葬り去るのが、私の《山》でのトキ—–だ。
ようやく、私たちにプレゼントされた夜明けは、重そうな鉛色をしたそれだった。蝶や大滝の稜線には、「ネズミの心はネズミ色、悲しい悲しいネズミ色」の雲たちがザブリとかむさっていた。だが、アリスの歌にもあるように「狂った果実には、青空は似合わない・・・・」(狂った果実)のであって、空が泣き出す前にと、早々に腰を上げることにする。五時だった。
出発前に、昨日の残りのパンとビスケットの一かけらを口に放り込んでみたが、全然唾液がわいてこず、とても喉を通るものではなかった。どんな極上のワインやコニャックよりも、今は《水》だ。私たちのすぐ背後のはずの奥又の池まで行けば、岩の間からしみ出す冷たく甘美な水が涼し気な音を立てているのだ。
赤沼、トップで目の前のブッシュの付いた露岩に取付く。やや、かぶさっており、悪い。彼はその三m程をかち取ると、リッジ上を直上するのではなく、左へとブッシュの中をトラバースして行った。二十m。私がこのブッシュでうるさく、腕力を酷使するピッチを終えてトップの所まで行くと、もう容易とのことだった。すぐ左側には、私たちが突破すべきだったルンゼの涸滝落口が見え、下からは全く予想もし得なかったルンゼ状スラブが真直ぐにのびている。難しそうには見えないが三~四ピッチはあろう。今となってはリッジに逃げてしまったことが悔まれる。
ブッシュを再びリッジ上へ登ると、易しい岩稜となった。左に第二スラブ、右に第一スラブを眺めての登攀である。第一スラブの方が二スラよりも急峻で、よく磨かれていて美しい。登攀自体も難しいだろう。第一スラブはピナクル状の小岩峰で二股になっており、右が本流で菱形岩壁の頭の裏側方面へとのびている。
階段状のリッジを登ると、畳二枚分程の完璧に平らなテラスに出た。ここでビバークをしていれば、二人で楽に横になって寝られたはずだ。ここから目の前の快適な岩稜を三十m程登り、このリッジがピナクル状になる手前で、右に出て、第一スラブの左股ともいうべき小さなルンゼのつめの中に入る。もうすでにここは草付で、さらに草付とブッシュの中を百mくらいも登ると、茶臼の頭へと続く頂稜に出て、広大な下又白谷の上部と前穂の東壁等が望まれた。私たちの待望の、本当の終了点—–そいつが今、私たちの足の下になったのだ。ルート選定には悔まれる点が残ったとはいえ——注:翌年(1981年)第二スラブルートの初登に成功した—–、未踏の、本谷F1の手前から数えれば、二十ピッチを越える私たちの、私たちだけにしか見えない一本のラインがくっきりと引かれたのだ。
一秒でも早く、甘やかな、ココロの内側にまでしみ込んでくるであろう《水》に到達するために、ザイルだけを巻くと、すぐにうるさく繁茂したハイ松の中を池を目指して歩き出した。茶臼の頭は指呼の間に望まれるのだが、踏跡の全くないハイ松こぎには辟易させられる。時折、ハイ松がジンの香りとして強く香る。バテバテになりながら、茶臼の頭には出ずに、トラバースの藪こぎをして、直接池から下又白谷への下降点になるコルに出た。いつもの柔和な面をたたえた奥又白池と人間たちのにおいのつまった天幕たちが眼に飛び込んでくる。私たちは水場に直行し、前穂の私たちに対する友情あるいは好意ともいうべき珠玉の水に口づける。We could drink a pond of water!だったのだ。「生きて帰れた!」などとジョークをいいあい、赤沼と完登の握手をかわす。朝の九時だった。
ビール壜百万本ほどの水を飲み終えると、私たちは雨の降りだした中畑新道を徳沢のウィスキーのもとへと幸福な気持ちで下って行った。

山岳巡礼倶楽部入部のしおりより

黒曜石の露頭を求めて冷山

「あと15年で設立100周年」となる山岳巡礼倶楽部。
どんどん部員が高齢化する山巡の活動は年1回程度のハイキング&山宴会が恒例化しつつあるのみ。

「次の活動は八ヶ岳の知られざるピーク冷山付近にあるという、謎の黒曜石巨大露頭を探索に行こう!」
と言い出したのは、山巡にあってその緻密な調査力とこだわりの強さで一頭地を抜くわたべ氏。ちと面倒くさいタイプとも言うが、そのおかげで下又白谷のウエストンリッジというユニークなルートが発掘(開拓でも登攀でもなく発掘と呼ぶのが似合う山登りでした)されたのも事実。わたべ氏は「ついでにバードウォッチングがどうしたこうした・・・」とも言うがそちらは完全スル―。

要は楽しくハイキングでも探索でもやって、その話題を肴に楽しく飲めればいいやというのが本音の山巡じじい会にとっては、それはある意味最高の提案であった。奥様から「じじいは無理しないっ」とストップのかかった最高齢のSさんが不参加となり、今回はわたべ氏、二階氏と私の3人のみ。ちなみにヒマラヤカラコルム某ピーク初登頂時のサミッター二階氏は、「翌日は天狗山ダイレクトか瑞牆山本峰正面壁でクライミングな」とか言うので、納戸の奥からカビのはえたロープやらボルトキットやら引っ張りだして持って行ったのに、本人は「クライミングシューズ捨ててしまったのでズックで登れるかな?」とか言ってるし。山巡おとぼけじいさんずとでも呼び名変えようかな~

まずは冷山山頂に向かう。

早朝都内某所で集合。一路、麦草峠へとドライブ・・・・のはずが、近づきつつある台風の影響で通行止め。大回りして現地についたときは昼をまわっていた。
前夜あたりからようやく始まった黒曜石露頭探索の作戦会議で、まずは冷山の山頂に立ち、しかるのち、ターゲットに向かう踏みあとがあるはずだから車で探すという方針が決まったばかり。
麦草峠近くに車を停め、狭霧園地から渋の湯への踏みあとへ。冷山へは登山道がないが、GPSを頼りに途中から踏みあとをはずれて小一時間であっさり山頂に至る。

冷山山頂

この辺一帯は北八ヶ岳らしい苔むした露岩と樺類の疎林に覆われた気持ちのよいところ。歩き始めが2000mを超えていることもあって標高2193mの冷山までも楽な行程。
山頂は見晴らしもなく、さあこれで酒の肴(話題)もできたし帰るか~というとき、樹に張られたテープに「至る 冷山黒曜石」の文字が・・・
もう昼も回っているし、今夜の宴会場になる山梨の私の別宅にドライブする時間などを考えるともう引き上げたいところ。「悪いものを見つけてしまったな」と思いつつも、同じピンクのテープをたどると、わたべ氏が黒曜石露頭があると予想していた方向にまっすぐに向かっている様子。

結局、現場興奮症の二階氏を先頭にどんどんと斜面を降りて行くこととなった。わたべ氏の予想が正しいと黒曜石までは標高200-300mは下りていく必要がある。地図を見るとそこまで下りて行った場合、うまく国道に戻ることはできず、同じ踏みあとを冷山山頂まで戻ることになる。

大声で二階氏を制止し会議の結果、黒曜石は今日は無理と判断。少し登り返し、途中からGPSを頼りに麦草峠方向に山腹をトラバースして最初の踏みあとに合流することとなる。全身泥まみれのやぶ漕ぎで踏みあとになんとか帰着し無事麦草峠に。
地図を持たない二階氏は、そのまま斜面をおりて黒曜石を見たら、近くの国道に出て待っていれば、赤沼が車をとりに行くだろう( ^ω^)・・・という不埒な考えをもっていたようで。

探検終了後の宴会

戸隠山

息子との恒例夏山登山ですが、やつが忙しくてしばらくぶりとなりました。
今回は一日だけのハイキング。
息子は「クライミング」がいいね~と言いますが、最近登ってない自分が初心者のビレーで登れるようなところはほとんどもう行っちゃってるしね。
迷った結果、自分自身もまだ登ったことのない戸隠山に行ってみようとなりました。

 登りだしから結構岩場だらけ。

クライミングではなくただの鎖場ですが、鎖を使わず登ればそれなりのクライミング。
父ちゃんは鎖つかまりまくりで手抜き登山やってますが、息子は一切鎖には触らないと決めているらしい。

さていよいよ難所と言われる「蟻の塔渡り」ですが・・・
(動画。音がでますよ)

蟻の塔渡り
蟻の塔渡りのつづき

はい。息子にはお遊び気分だったらしい。
まああっさりと山頂に到着しまして。

でも実はここからの稜線が気持のよいところでした。

岩壁と、湧き上がってきたガスと、高山植物のコントラストが絶妙です。

実は沢沿いの下りが技術的にはもっとも悪かったりしますな。
お昼までにはあっさり下山しましたが、戸隠のこのあたりって山深くて、開けていて、深山幽谷の趣っていうんですかね。いいところでした。

お散歩シリーズ第11弾・箱根屏風山(948m)山巡ハイキング部小田原支部

2016年6月14日 (わたべ)

今回はまさにお散歩で、家を10時過ぎに出て、12時5分前箱根関所跡から登り始め、12時40分山頂、のんびり下って13時半下山地点の旧東海道甘酒茶屋へ。
 このコースは、芦ノ湖の湖畔にあるにもかかわらず、湖の眺望は全くなく、前回の長九郎山のように渓流があるわけでもなく、ただひたすら樹の中を歩く。頂上も同様で、標識が立っているだけの薄暗い樹木の中。森林浴と数多い種類の木々を愛でるコースといってよいだろう。創価学会員が仏壇に飾るシキミという樹木の実物を初めて見た(小さな名札がつけられているが古く読みにくいのも多い)。「屏風」というと穂高の屏風岩を思い出すが、このコースはそんな切り立ったところも岩場も全くなく、1か所階段状の急登があるだけで、長九郎山のような落ちれば死ぬかもしれないような所もない。頂上の説明書きには、須雲川沿いの屏風のように切り立った岩壁から命名されたとあるが、4枚目の写真の甘酒茶屋前のものがそれか?小さくてあまり迫力はないが。
 甘酒茶屋はなかなか雰囲気があり、1杯400円の甘酒もいける。砂糖を使っていないのに、発酵した麹だけでかなり甘かったのが不思議だった。帰りはここから旧東海道をバスで湯本まで下ったが、七曲という所は急勾配とヘアピンカーヴの連続で、日光のいろは坂のようだった。次はこの辺りの旧東海道石畳の道を歩いてみたい。

松木沢ウメコバ沢中央岩峰・右岩壁右ルート

2016年6月12日(赤沼、石鍋)

R君と知り合ったのは彼が中学生くらいのころだから、もうかれこれ30年近く前の話か。
その彼も今では二人の子持ちで、立派なおっさん。
忙しかった仕事も多少の余裕がでたとのことで、週末の一日くらいならあけられるからクライミングしたいってことで・・・・

先月はまず足慣らし。
瑞牆山の不動沢方面でかる~くクライミング・・・・のつもりが、調子にのって岩茸だらけのオフウィズスクラックでルート開拓(?)までしてしまう。

今回のテーマはカムを使ったナチュプロでのクライミング。
高度感はあるものの、摂理がしっかりしていてカムを使いやすいのを以前登って知っているこのルートに出かけることになった。


土曜深夜に銅親水公園駐車場でテント泊。
日曜は夕方、息子の高校部活PTAのバーベキュー大会(笑)があるので、さっさと登ってさっさと帰宅するぞ~と4時起きで出発!

ウメコバ沢手前の渡渉ポイントは水が少なく渡渉なしで楽勝!

7時過ぎには取り付き到着。さっさと登りだす。

右ルートの取り付き

1P目フォロー中のR君。

この辺が核心かな。
高度感はあるがガバホールドいっぱいだし、硬いし、快適クライミング。
思わず「楽しい~♪」と叫びだす。

そしてR君のカムリード、デビューピッチです。
あっさりと登ったように見えたけど、「久々でミシン踏みました~」だと。

さっさと登攀終了。
岩峰の左方向につけられたフィックスロープをつかんで下山して、11時には駐車場に帰ってきておりました。

鬼怒川湯沢

2011年8月(二階、赤沼ほか)

噴泉塔と呼ばれる温泉の湧出があることで知られた沢を登り、沢中で焚火宴会もやってきた。

装備にはしっかりと1升びんが
温泉が噴き出してます。
なんということもない沢を登っていく。
今回のメインのひとつはまあこれです。

ここから先は少し急峻になってきます。

海谷・船浦山東壁第一岩稜

海谷への想いははるか昔の1980年、山岳巡礼倶楽部の春合宿で雨飾山ふとん菱の登攀をした際に遡る。まだ20歳前の生意気盛りだった自分が、まだ30歳前だったわたべ氏とロープを組み、今にも折れそうな細い岩稜にまたがっての恐ろしい登攀を終え、雨飾山の山頂から遠望したのが海老嵓の雄姿だった。今登ってきた悪絶としかいいようのない岩稜と比べても、はるかに隔絶し、実際の距離よりも遠く感じる存在だった。
海谷への興味は、海谷の岩場の初期開拓者のひとり、遠藤甲太氏の著書「山と死者たち」を読んでいっそうあおられた。
以降、海谷には何度か足を運び、海老嵓以上に悪絶で規模の大きな千丈岳の南西壁や駒ヶ岳といった岩壁により一層魅せられる結果となった。

1980年10月:単独で海谷に入山。雨がひどくただビバークしただけで敗退。
1981年3月:単独、山スキーにて入山。昼闇山の山頂に到達するが、海老嵓には届かず。
1981年5月:山岳巡礼倶楽部春合宿でこの地域に入るが、明星山でのクライミングと雨飾山登頂のみ。
1981年9月:単独で海老嵓を狙い入山するが、取入口の小屋前で岩壁の悪相にびびって敗退。
1982年5月:山岳巡礼倶楽部の新人を連れて入山。船浦山東壁第三岩稜を登攀。
1983年4月:山境峠から入山。千丈岳に向かうが目の前で雪壁が全崩壊しびびってクライミング中止。船浦山を西尾根から登っただけ。


3年間をかけて通った海谷で登れた登攀が船浦山の第三岩稜のみ。この時期は谷川や穂高などで名だたる岩壁を登り歩いていた時期だったのに、ここまでびびって帰ってきたりしているのは珍しい。それだけ悪い岩場であったということだろうか。

「海谷を登るには、そこをよく知る人と仲間になればよい」と、いかにも安直な発想で、遠藤氏のいた山岳会に入会した。(山岳巡礼倶楽部はわけあってやめた)ここで海谷フロンティアの遠藤氏や黒沢氏、大内氏などとも知り合い、山登りはほかの方向に走っていき、海谷からは逆に離れることになったが・・・・

その後、いつでも山に登れる生活を求めて海外で事業をはじめたりしたが、逆に仕事に夢中になって山登りから遠ざかっていたが、「登り残した壁がいくつかあった」ことに気が付いてクライミングを再開したのが2010年。
その第一弾として海老嵓をやろうと決めた。

パートナーを求めて嗜好性の近そうな山岳会に入会。
さあ海老嵓に登ろう。
深山幽谷を絵に描いたような海谷の最奥部に位置する海老嵓の、最大の課題はアプローチにある。両岸をせまく岩壁に囲まれたこの谷は、冬は雪崩の巣窟。雪崩で固められた雪は春遅くまで残る。そして雪解け後は大量の水が奔流となって谷を埋め尽くす。
可能性があるのは雪崩の落ち切った春に雪を利用していくか、水流の減った秋に渡渉を繰り返すか。

2010年4月29日入山。新しく入った山岳会の女性クライマー2人が今回の登攀につきあってくれることになった。登山口となる山境峠の駐車場から出発。1メートル以上の残雪があるようだ。

駐車場から谷へは山腹の雪面をトラバースしていく。海川の上流部は、両岸からのデブリに覆われているが、豊富な水流がところどころ雪の間からのぞいている。雪は海老嵓までつながっているだろうか。

4月30日。ここから海川沿いに奥を目指すが、雪の崩壊がかなり激しい。

結局このスノーブリッジをロープをつないで何とか渡ったものの、後続は渡れず。

ここでいったん敗退して駐車場に戻る。

5月1日
仕切り直しで船浦山第一岩稜を登る。

船浦山は駐車場からも近い。雪面をピッケル、アイゼンでアプローチし、しじみ岩稜左のスラブから岩壁に取付く。雪で高度を稼いだため、ロープ1Pで中間バンドに達する。草付きバンドのトラバースで第一岩稜の取付きへ。

高度感まんてんのリッジを2P登ると、傾斜はさらに増してきて、いよいよ垂直の核心部にいたる。

垂直部は取付きに残置ボルト一本があるばかりで、支点は見当たらない。10メートルほどの垂直部がどうしてもふんぎりがつかず、登っては戻りを繰り返すが、リッジ左手に巻き込んだところでホールドのつづくラインを見出し登路とする。ようやくみつけたリスにアングルハーケンを叩き込んでランアウトで突入。すばらしい高度感だ。このピッチ終了後は2Pで終了点。下降は壁の右端にかかる送水管のはしごを拝借して一気に下山。

【記録】
4月29日
 新宿6時~三峡パーク12時~海川本流(千丈南西壁右岩稜下)15時半(幕営)
4月30日
 出発6時~海川二股手前7時半~三峡パーク9時半~海川第二発電所10時半~船浦山東壁基部11時半~海川第二発電所12時半~糸魚川周辺をうろうろ~三峡パーク18時(幕営)
5月1日
 出発6時~海川第二発電所6時半~船浦山東壁基部7時半~登攀終了11時~送水管上部12時半~海川第二発電所14時

【ガチャ】
 アングルハーケン1使用(回収)、小さめのカムが何箇所か使える

西上州・毛無岩「ボレロ」開拓記(昔話)

「西上州に未踏の大岩壁あり。」
そんな情報が出回ったのは、今にして思えば当時クライミングジャーナル誌編集長だった吉川栄一氏の仕掛けだったように思う。
なんであれ、この仕掛けに乗っかって、多くの関与者とともに楽しい一大イベントの一角をなすことができたことには感謝せざるを得まい。

毛無岩の全貌。左がボレロ、右が烏帽子岩直上ルート

吉川氏は有能な編集者であり、かなりの奇人でもあった。記憶が曖昧だけど、たしか白山書房(クライミングジャーナルも発行)の「フォールナンバー」という沢登りと渓流釣り専門誌の名物編集長だったと思う。どういう経緯でクライミングジャーナルの編集長になったかは忘れた。
その奇人吉川氏が、クライミングや沢登りの世界の奇人変人を集めて「同人 栗と栗鼠」というふざけた名前の会を設立した。赤沼がその創立メンバーに選ばれたのは光栄と言うべきなんでしょうね、きっと。
思い出せるメンバーは、ウォータークライミングの黒田薫氏、アイスクライミングの広川健太郎氏、東京マタギの深瀬信夫氏、沢登りの先駆者高桑信一氏、名前思い出せない(たしか牧野氏?)けどやぶこぎのスペシャリストもいたな~。
同人 栗と栗鼠では激流を泳ぎ登るウォータークライミング大会を企画したり、あほなことばっかりやっていた。
吉川氏が「西上州に残された最後の未踏大岩壁」情報を広めたのは、その同人 栗と栗鼠がらみの遊び心で仕掛けたイベントだったのではないかと、今では想像しているわけですな。
この初登攀イベントには何人かの著名クライマーが関わったと聞きます。
結局、言い出しっぺの吉川氏を中心とした栗と栗鼠チームと、東京白稜会で甲斐駒ヶ岳登攀の第一人者、恩田善雄氏のチームにより1986年5月18日、同日に2本のルートが開拓されることで終わった。

毛無岩はここ

毛無岩へは下仁田からアプローチ。南牧川沿いの道を砥沢の先で線ヶ滝方面に星尾川沿いの道に入り、道場という集落の神社裏から登山道となります。神社裏の川におりると対岸に踏みあとがあるので、ここを辿ります。
この河原、今はだいぶ荒れてしまってますが、1985年当時はちょうどよいテントサイトになってまして、ここがベースとなっておりました。
勝手に名付けたここ「お毛ケ河原」に最初に集合したのは1985年11月23日。この時は総勢7名の宴会山行。登ったのはゲストで呼んだクラブ ポリニエの売り出し中若手クライマー、今は亡き小林一弘(その後ヒマラヤ・メルーで遭難死)と赤沼だけ。ボレロの下半分を開拓したところで時間切れ。翌日は雨で敗退してます。この時恩田チームもたしか一緒に宴会してました。
第二回は翌1986年4月5日。この時も河原にはわれわれ6名のほか、恩田チームもまた一緒。仲良く宴会してのスタート。恩田チームはどこか右手のほうを登っている様子ですが、どこ登ってるかはお互い内緒。
この時はやる気はあったものの、6名がだらだらロープにつながって登ったもので、同人 栗と栗鼠随一のまともなクライマー、安田秀巳氏の奮闘で1pルートを伸ばしただけで時間切れ。
そして最後の十数メートルは同年、11月に安田氏と赤沼で登り切り、ボレロの完成。恩田隊長チームの烏帽子岩直上ルートと同日の完成でした。

さて、毛無岩にはこの日開拓された「ボレロ」と「烏帽子直上ルート」、そして16年後になる2012年5月26日に赤沼がフリークライマーの小見麻紀子さんと登った「ルンゼ状スラブ」の3本のルートがあることになります。

「ボレロ」は、フリークライミングの洗礼を受けつつあったクライマーが、フリーにある程度こだわって作ったルートです。最終ピッチに一歩のA1(リードした赤沼の記憶ではA0)の一歩があるだけで、トラバースの多いフリールートとなっています。
「烏帽子岩直上ルート」は、実力派&頭脳派の恩田隊長チームが、美しい直上ラインをボルト連打の人工を苦にせず、着々と作ったルートと言えるかと思います。赤沼も後日登りましたが、ボルトがたくさんあるおかげで、フリーでも登れる好ルートとなっています。支点の多さ、ラインの美しさなどのせいかこちらのルートのほうが再登が多くされているようです。

ところで16年後に登った「ルンゼ状スラブ」には、残置ボルトが打たれており、だれか先登者がいたものと思われます。記録は見当たりません。
実は「ボレロ」の開拓時、吉川栄一氏がそちら方面に消えていた時間があって、あとで「隅っこのほうを登ったんだよ」と言ってたように思うんですよ。あれだけのルートを登りながら、記録もださないとなると、吉川氏の奇人ぶりが思い出されてしょうがないのですね。

というわけで、ルンゼ状スラブ(赤沼、小見命名)の初登攀者は吉川氏ではないか疑惑があるのですが、当人と最後にあったのは「知床で自分にとっての神であるブナの木に出会ったので、移住する」とか言ってたときではないかと思うのです。それ以来音信不通なんです。
もっともあえて探したわけではないので、案外帰ってきてそのへんで楽しく暮らしてるのかもしれませんが。誰か消息知ってたら教えてくださいね~

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