アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

投稿者: gams Page 1 of 14

山岳巡礼倶楽部のサイトを運営している赤沼です。
人手不足につき、登っているのもほぼ赤沼中心です。

西上州・毛無岩「ボレロ」

以下は1985年~1986にかけて開拓した「ボレロ」について、Climbing Journal誌の掲載記事から書き起こしたものです。
同誌は廃刊となり、バックナンバーも入手困難なので、こちらに掲載させていただきます。

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手書きの挿絵

2本の新ルート

ボレロ

赤沼正史

西上州に佳き壁あり。吉川栄一氏からきいて心踊るのを覚えた。西上州の岩峰群にはぜひ一度手をつけてみたいと思っていたのだ。ましてや、メンツが我が「同人栗と栗鼠」の面々で、「一発攀って、ひと騒ぎやろーぜ」ということならばもう逃がす手はないというものだ。
さて同人の命運を賭けた大狂宴(マツリ)、否遠征はここに幕を開けた。

かくして登攀は始まる

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毛無岩全景、右が烏帽子直上ルート、左がボレロ

第一次攻撃は総勢7名。吉川栄一、安田秀巳、山田武、板本恵子それにぼくと栗と栗鼠メンバー。客員としてパンチパーマの元気クライマー、クラブ・ポリニエの小林一弘(注:その後メルー峰で遭難死)と、同じく元気山屋の柴原生依さん。1985年11月23日御毛々河原(おけけがわら)に集う。 アプローチはほとんど寝てない体にはきつい急登を含むもので、所要時間は40分〜2時間なり(個人差あり)。

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「へ、楽勝だぜ」「もらい!」とかいいつつ見上げる壁はなかなかの圧巻ではある。やれ「ぼろい」だ「プロテクションがとれない」だ言ってる一方、悩みを知らない小林は「あ、岩登りは危ないよ」の制止を振り切ってさっさと登りだす。下で「ヤベ ーな」とか「死ぬなよ」とかワイワイ言ってる間に小林は「勝負」「セイッ」と元気一杯の孤軍奮闘(クライム)。 小林を確保するぼくのとなりで何か悩んでぶつぶつ言ってるコアラ安田氏に「ちょっと上がって小林を制止してきますわ」かなんか言って登りだすが、そこは現場興奮症の烙印を押されたぼくのこと、まして11月とはいえ快晴無風、Tシャツ一枚の快適な登攀日和。あっさり小林の側に寝返ってルートを伸ばす。結局この日はコアラ氏から借りたボルトまで打ちつくし、4ピッチを登る。あと2〜3ピッチで終わりそうだが、腹が減ったのと眠いのとで、「あとは明日、皆してかたづけるべ」と下りだす。

夜は当然ながら御毛々河原で「完登前祝い」の大宴会。ここは静かで、流木にも恵まれたまことによろしい河原である。思うさま酔う。

しかしながら完登予定の翌24日、酔眠を覚ましたのはテントを叩く雨音だった。若えーもんはさっさとフィックスロープの回収に行き、「年が明けて暖かくなったらもっぺん来るか」なんて、ちょっと悠長なことをつぶやきつつひきあげる。

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2P目のフェース(トラバースバンドの手前)Ⅴ-

1986年 登攀はつづく

何せ忙しい冬だった。あいつぐ忘年会、温泉行、秘かに狙う冬壁の試登、ハイキング、氷瀑登攀、山スキー、ヘリに乗って遭難救助、奈良吉野古寺巡りetc…と無節操にとびまわっているうち、4月の声をきくと誰からともなく毛無岩をかたづけようとの話が高まってきた。
かくして第二次攻撃隊は4月5日、再度御毛々河原に集合した。総勢6名。
吉川、コアラ、山田、ぼくの栗と栗鼠メンバー+山猫より参加の井上博之、小林建也の二氏。 考えることは皆一緒らしく、恩田隊長パーティともこの河原で再会。隊長パーティも独自にルートを作ってるとのこと。
恩田隊長パーティを加えての野宴から第二次攻撃は始まる。

翌6日、攻撃隊はちょっとテレくさい“決意と自信”を背に、やけに冷たい強風の中、岩と再会。これはもうほとんど嵐と言ってよい。
しかし登攀は始まる。ここに我が同人栗と栗鼠の意志の強さが、完膚なきまでに発揮されたわけだ。全員登頂を目ざす今回、6人だらだらとロープにつながって登る。前回小林が“浅打ちボルトのタイオフ”をプロテクションに乗り越えた、ボロいがホールドは細かい“勝負ピッチ”はあまりにも美しい、ということで下降の際ぼくが発見した草付バンドのトラバースで危険部をあっさりと巻く。ここからは雪のちらつくものともせず、フェース、高度感あるトラバースと前回ルートをトレースし、さらにコアラ氏の奮戦で1ピッチルートを延ばしたが、案の定人数が多すぎ、時間切れ、下降。

ルートは終了点まで十数メートルを残すのみ。

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岩峰探しの楽しみなど

ぼくと西上州の岩峰群のつきあいを想いかえせば、オフロードバイクを駆って岩峰群の中をツーリングした昔にまでいたるのか、あるいは毎週のように二子山南面の岩場に通っていたころからと言うべきか。

もとよりぼくには奇岩、奇景の地への憧れが強かった。いくたび訪れたかしれない明星山や海谷の岩場。そしてドロミテやユーゴスラヴィアの石灰岩岩塔群。さらに西上州の今では単なるセメントの材料になってしまった武甲山や叶山牢ロルンゼ…。

たしかに奇岩、奇景の地にはその異質さを包みこむ強い風土があるし、そこは又、よき酒、よき人のあるところでもある。(「西上州に旨い酒なんてねーよ」というコエあり。たしかに旨い地酒と思って呑んだ“百萬弗”は実は京都伏見の酒であった、が、それはともかく)

風土のあわいを巡り、異なる本質を歴訪しながらも、唯一不変の“クライミング”という様式を追求し、それら風土の差異を足蹴にする時、むしろぼくの裡にある「山登る心」(アルピニズム?)は奇岩、奇景の地に棲まう魑魅魍魎と感応し、ひとときその姿を怪しく見せ、またおどろおどろしくも酷悪な混沌の裡に沈んでゆく。

ぼくにとってのアルピニズムは、けだし忌むべき内面の律動であると同時に、対人的価値(ヒロイズム)に容易に回収され得る欲望の交錯体でもある。

西上州と言えば又、かつての天狗の住み処でもあった。水戸藩の尊皇派“天狗党”と、ラーメン屋の親父からきいた話、物語山の壁を蔓草つかんで登り、その蔓を断ち切って追っ手から逃れたという一団は果たして同一なのか。ところで蔓草を切ったあと彼らはどうやって壁を下りたんだろう?
それぞれの岩峰の数ごと、それにまつわる言い伝えを有するここの岩峰群は、人の生活と深くかかわってきた雄弁な歴史の語り手でもあるのだ。

さらに続く毛無岩参り

さてゴールデンウィークの前半、4月27日安田コアラ秀巳氏とぼくは、有明山でのルート開拓から転進、サミット厳戒体制の中、われらがロケット弾搭載車は検問のおまわりをからいつつも、一路毛無岩に向かう。
このいわゆる抜けがけ行為は、雨の御毛々河原二泊(宴会付き)の結果に終わった。この時の毛無岩には、他にも恩田パーティ、雲表パーティ等いたようで、なかなかの賑わいを見せていた。

さらに5月11日。今度こそはの完登を期して、一行五人は壁に向かう。予報では天気悪くないはずだし、昨日の酒も抜けて体調はまずまず。今日こそは完璧に登れるとアプローチを急ぐが、「おい赤沼、これ雨じゃないか」とコアラ氏。ま、まさかと見上げて悲嘆にくれる。「もう4回目やで〜」。どこかにウンチをしに行った吉川氏に我が同人栗と栗鼠の「オオカミが出たぞ」コールをとばす。吉川氏もしゃがんだまま「ヒエーイ」とか……。
この日はフィッツロイのようなミドリ岩南面の見学に行き、コアラ氏は山菜ツミの翁と化してタラの芽を集めた。

毛無岩、未だその登攀を許さず泰然と構う。

“ボレロ” かく攀らる

ぼくらを拒絶しつづける毛無岩はついにコアラを本気にさせてしまった。もろにくらった右フックに霞む目に毛無岩は、しかし今日は優しく微笑みかけているように見えた。どうやら今日はぼくらにとっておきの“幸運のストック”を分けてくれるつもりのようだ。見事に晴れあがった春の空の下、アプローチを急ぐコアラ氏とぼく。山菜とりの翁ことコアラ安田氏はとても張り切っていて、体中に流れる誇り高きヤクート族の血が脈打つのが、時折その挙動にうかがえる。ぼくとて例外ではなく、受け入れる意志を示しつつも恥じらう毛無岩が妙にまぶしい。

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4P目のランペ(Ⅴ)岩は硬くて快適

3ピッチ目のトラバースを終了してバンドに立つと、そこに下降用らしい残置支点があった。ぼくらのルートよりはるかに急な右のフェースを登ってきたもののようだ。「スゲ ーな、こんなとこ登ってんのかよ」「人工で努力したんじゃないの、ほらこの間の連休の時にも」「ヒエ ー、隊長こそこそと結構やってんじゃない」とか会話しつつ4ピッチ目を再登する。ふと下を見ると隊長パーティがかけ離れたヤブの中より姿を見せる。「え、じゃあれ誰が登ったのかな」「雲表じゃない?」「 何を言ってる、雲表は下降しない! 登山規制条例は違憲だ」とかわけのわからないことを言うが、後にこれは隊長関係者の鈴木氏なる人の手になるものだとわかった。

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最終ピッチのジェードルへ入り込む

さて壁の最上部は完璧な垂直壁で、下から双眼鏡で見つけたクラックに唯一フリークライミングの可能性を求める。前回到達点から左方にあるそのクラックを求めてトラバースし、小さなピナクル状を越えると、勘がどんぴしゃにあたってクラックまでバンドが続いている。ボロ岩のアンダークリングでクラックの取付へ。
しかしクラックと思っていたところは少々ぶり気味のジェードル状で、浅いクラックには泥草がつまっている。ここはルート中唯一の人工となる。ボルトと泥の中に打ったアングルハーケンが割と効いて……ちょっとかぶり気味だがホールドの増えたフェースを、ボルト一本根本まで埋めてからフリーで勝負に出ると、いきなり目の前が明るくなった。 5月17日、最後のホールドが山頂だった。

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最終ピッチ(6P目)は人工となる

1986年5月17日完登 完登メンバー:安田秀巳、赤沼正史 (同人栗と栗鼠)

烏帽子岩直上ルート

(同日に登られた恩田隊長らによる烏帽子直上ルートの記事も掲載しておく)

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滝沢孝弘

毛無岩にも通うこと数回となり、手をつけたルートは計三ルートとなった。そのうち完登できたのは一ルートだけで他の二ルートは、核心部と思える上部岩壁を残している。今回はそのうちの岩壁の右端の稜からのルートをねらう。一路、千賀嬢の運転する車は道場の集落へ向かう。 明朝、快晴。絶好の登攀日和だ。登攀開始は結局11時頃になってしまい、今日中の完登も微妙となってきた。5P目までは、前回までに登っているので順調にザイルを延ばす。 1P目、取付から右のフェースを7〜8m登ると左側にフェース、右側にはクラックとなり、クラックにルートをとる。クラックを直上し、出口から右側のフェースに回り込み直上する。右側は深くルンゼが切れこんでいる。ブッシュをこいで枯れかけた白い立木でビレイ。
2P目、ブッシュ帯を登る。時おり、小さなフェース有り。フェースの前の立木でピッチをきる。
3P目、フェースを左に回り込み、クラックをたよりに直上し、ブッシュをこいで行くと手には上部岩壁が見えてくる。コル状となった所でビレイ。
4P目、草付のフェースから小さな凹角を左に回り込み、泥と草付の溝状を直上しバンドを左へトラバース。
5P目、バンドからかぶったフェース(出だしのみ)を人工で直上し、草付のある所から右へ2mトラバースし草付をたよりに直上。やや外傾したテラスとなる。
6P目、クラックぞいに再び人工で直上、バンドへ出たら右へトラバースしピッチをきる。ここが烏帽子岩(仮称)右側の基部となる。次のピッチはフリーで行けそうだ。
7P目、左手の緩傾斜のフェースを左上し、二つ目の凹角(10m位)の下のテラスへ。最初に見える凹角はかなり立っており15m位ありそうだ。
8P目、テラスから2m程直上し右へ回り込み凹角下のレッジに立つ。凹角内のクラックは下部で2〜3㎝、上部では20㎝以上の幅となっている。

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取付前にはフリーで行けそうに見えたところも、実際取付くとかなり困難で、あっさりと人工となる。結局はボルト連打となり凹角の左側を直上し終了。何とこのピッチだけで2時間を費してしまった。ビレイしながら後続の二人を待つ。まさに「終ったァ」という実感がこみあげる。

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最終ピッチ(8P目)の凹角はボルト連打

終了点のすぐ横には縦走路があり、50m位登ると毛無岩のピークとなる。無事の登攀と初登を祝い、三人で握手をかわす。これまでに登った既成ルートとは、一味も二味も違った最高の気分だ。
終了点からアブザイレン6回で基部にもどる。あたりも暗くなり林道の終点のベースに急ぐ。
なお、このルートに限らず、毛無岩は、平気でホールドがガバガバとハガレ落ち、後続となる程ホールドがなくなりますので早いうちの登攀をおすすめ致します。

1986年5月17日完登 メンバー=恩田和義、千賀薫、滝沢孝弘(同人泉山岳会)

注:
ボレロは(2026年現在)まだ第二登がされたという情報はない。
烏帽子直上ルートはある程度クライマーを迎えており、残置されたボルト類を利してフリーで登られるようになっている。(赤沼も後日フリーで登った。)
またこの後2012年に赤沼と小見麻紀子にて烏帽子直上ルート右手のルンゼを登った際、残置ボルト等登られた形跡を見つけている。

ルンゼ状スラブ登攀記

南高尾・柚木沢の遡行

いや、遡行っていうほどの沢でもなかったんですが。

「高尾を遊びつくす作戦」の一環で、今度は南高尾あたりで遊んでみるかと地図を眺めていてちょっと気になった沢。登山道表記はない。
ただ道を歩くよりは涼しそうだし、ちょっとは変化があったほうが楽しいしってことで。

「気になった」というのはこの沢を真横に横断する青い点線。
調べてみると青の表記は水に関わるもので、この真横の点線は地下水道が通っているということらしい。
それともうひとつ「気になった」のは、「底沢の謎」のときと同じ、沢の中にいきなり現れる水たまり?表記。
底沢の場合はそこに堰堤群があった。まあ今回もそんなところでしょう。

ちなみに青い点線の地下水路は横浜や川崎の水源地のひとつ、沼本ダムあたりの水を、「自然流化方式」で浄水場に(ポンプを使わず)届けるための水路なんだと。山中の地下水路ってどうやって掘るんだろうね?

プチ沢登りの起点は津久井湖畔の三井というあたり。

入渓(ってほどじゃあないんだけど)点近くにもバス停があったんだけど、間違って津久井湖の反対側を行くバスに乗ってしまったので、津久井湖にかかる橋を渡って三井へ。
くそ暑い車道を歩いていたらこの橋になって、「わ!車道しかないじゃん!」と思ったら、右側にもうひとつ歩行者用の橋があった。三井大橋っていうんだと。

歩行者用の橋から前方右のほうに見える沢が目指すあたり。
三井自治会館の向かいの八幡神社はお祭り準備中
入渓点は建築会社の資材置き場になっている。
趣のない入渓点ですが、まあ里山なんでこんなもんでしょう。

沢には思ったより水が流れてる。
作業道と思われる踏み跡を拾いつつ遡行していく。
たまに倒木がある程度で藪もそれほどなくて歩きやすいほう。

突然あらわれる林道跡
そして水たまりの正体。思ったとおり堰堤だった。水たまりじゃなくて、堰堤表記みたいのつけてくれればわかりやすいのにね。水たまってないし・・・
少し手前から踏み跡をたどって大きく高巻く。
沢筋の踏み跡を辿り・・
開けたところが涼しくておにぎりタイム

神奈川県が買い取った水源地らしい。
地名、大沢入となっているのはこの一帯の上流や支流を含めた地名で、沢名が柚木沢ってことなんだと。
ちなみにこの一帯は、神奈川県の水源林保全エリアとなっていて、その命名権(ネーミングライツ)を買って「津久井の森」と名付けたSONYグループが資金提供などもしつつ、環境保全や間伐などを行っているそう。
踏み跡が結構あるのはそのせいかな?

突然現れる整備された道。

沢の源頭近くになって整備された道が山腹に伸びている。
最後まで沢をつめるかこの道に入るか。
少し迷ったけど、この道の誘惑は強いよね~。

道はじぐざぐを繰り返しながら南高尾の稜線へとつづく。
なんか前方をいきなり人が走ってると思ったら南高尾の稜線。トレイルランナーには知られた道なんだって。

南高尾の山々をハイキングして草戸山。この辺から今度は東高尾となる。そのまま稜線を歩いて高尾山口の駅に到着。お風呂おふろ~♪

てか、高尾山口駅の真ん前は水遊び場になってるみたい。人が多いけど平和な光景ですな。

そ~し~て~。
下山酒はいつもの味はる。
店主はまたまた店しめてスペイン、ポルトガルあたりの巡礼旅をしていたらしいが、やっと帰ってきてちょうどこの日から開店。
「誰か一緒に飲む人いな~い~?」と地元クライマー仲間に連絡。
ニコちゃん、梨恵さん夫婦は白山あたりでハイキングしていて留守。
嬉しいことに山金さんが二つ返事でおつきあいしてくれた。
山金さんも近くのルートをひとりで歩いていて、「さすが現役、歩くの早いね~」とか言ってくれたけど、どうもこの日は私の倍くらいの距離を歩いてきたみたいよ。70台後半の現役クライマーには頭が下がるわ。

山金さんがメッセージで送ってきてくれた途中経過。
この間1時間半。しかも城山湖経由。コースタイムの半分以下で歩いてるように見えるが・・・・

トラックログ消し忘れて電車乗った。実際はのんびり歩いて4時間程度の行程だった。

ユリアンアルプス再訪

ユリアンアルプス(Julian Alps)は、イタリア北東部からスロベニア北西部に広がる山塊で、多くの石灰岩岩塔が重なるように屹立している。
最高峰はトリグラフ(Triglav)。
スロベニアの象徴であり聖峰だ。
日本語ではトリグラウと表記されることが多い。
スロベニア語発音のVはウとブの間くらいに聞こえ、赤沼が最初に登った1983年頃はトリグラフというのが一般的だったと記憶する。あるいは日本語情報のほとんどなかった時代なので、赤沼が勝手にそう表記していただけかもしれない。
ここではトリグラフで通させていただく。

1983年夏、山岳巡礼倶楽部の川崎、井出、赤沼の3人で日本人としてははじめてトリグラフ北壁(スロベニアルート)を登攀。
その後井出、赤沼にてドイツルートを登攀。
ドイツルートを登攀の際、赤沼が20メートル以上の滑落をした。(左は滑落後のビバーク中の写真)


登攀の様子をずっと双眼鏡で追っていた地元の人たちの要請で、レスキューチームがヘリコプターを飛ばして様子を見に来てくれたが、何とか歩けそうだったので救助をお断りしてビバークをしつつ完登し、山頂経由で自力下山。
翌日ようやく下山したら登山口の村人たちが迎えに来てくれ、「やっと病院に行ける」と思ったら、そのままバーに運び込まれて宴会となったというエピソードが忘れられない。とても暖かい人達だった。

2回目の訪問は1986年。
2か月以上、地元のトップクライマー(当時)ブラーネ ペチャールの家に居候しながら、地元クライマーたちとトリグラフ北壁や名峰ヤロベツ(Jarovec)などの多くのルートを登ってきた。村の人たちにも多くの友人ができた。
この時はトリグラフ北壁では最高難度のスフィンガをはじめ、名だたるルートを登り、近郊の岩場では新規ルートの開拓なども行った。
その記録をクライミングジャーナル誌に発表した。

クライミングジャーナルの記事(巻頭見出し)

クライミングジャーナル誌は廃刊となり、バックナンバーも入手困難となったので、以下に書き起こした。

クライミングジャーナル誌の記事「トリグラフのクライマーたち」

その後、仕事のついでなどでブラーネとは2回ほど会う機会はあったものの、もう一度彼の家に泊まりながら、ともにクライミングのできる日がくるとは思わなかった。あれから実に40年ぶり。
期せずして、「じいさんになったら、古いクライミング仲間と、昔登った岩峰を共に眺めながら一杯やったり、昔ばなしをしながらクライミングしてみたい」という、若い時からの夢をかなえることとなった。

きっかけは妻との旅行プラン。
「アドリア海を見たい。クロアチアの美しい街並みも見たい」という妻のリクエストに乗っかって、旧友との再会、クライミング実現の運びとなったわけだ。


ところでユリアンアルプスとはどんなところか?


クライマー目線で言えば、巨大な石灰岩峰の屹立するクライマー天国だ。
最大のトリグラフ北壁は高差1000mほど。登攀距離は最大で1500mにお達する。
ドロミテに匹敵・・・というか、それ以上の素敵な岩峰が多いにも関わらず、日本人にとっての知名度は低く、登ったという話はあまり聞かない。

今後ここを訪れてほしい日本人クライマーのために、簡単な情報を残しておきたい。

もっとも有名な岩壁はもちろん最高峰トリグラフの北壁。

もっとも簡単なのがスロベニアルートで、技術的には慣れたクライマーならロープがいらないレベル。ただしルートファインディングが難しく、地元クライマーですら登るたびに違うラインを登ってしまうらしい。
それで行き詰っての事故も多いと聞く。
お薦めはそれより少しだけ難しいドイツルート。
ヘルバルートは中央部を行く、難しすぎなく長い好ルートだ。
下部ババルスカルートから上部岩壁につなげるのもおすすめ。
そして露出度が高く、技術的にもここでは最高難度のスフィンガも余裕があればぜひ登っていただきたい。

スフィンガはトリグラフ北壁右寄り最上部の垂直岩塔分を登るもの。
7級クラスのフリークライミングでプロテクションも乏しいので、ルートファインディングと確かなプロテクションワークが必要。
傾斜は強いものの、フリクションは効き、石灰岩特有のカチホールドも多くあるので、7級プラスというわりにグレードは案外と甘目に感じるかもしれない。

トリグラフの北壁はVrata谷の最奥。
Vrata谷の入り口のMojstrana村が拠点となる。

右上がMojstrana(モイストラーナ)。
トリグラフ北壁を見上げる圏谷にあるAljažev dom(アリャージュ小屋)までは車であがるか、あるいは村から無料のシャトルバスも出ている。
(シャトルバスサービスは6月から9月中旬の間。)
車の場合、谷の入り口で入場チケットを受け取り、滞在時間に従って帰りに入場料を支払うこととなる。
Aljažev domでは北壁を眺めながら食事もでき、ここが目的のツーリストも多い。

Aljažev domから北壁に向かっていくつもの登山道が伸びているので、登ろうとするルートに応じて適宜選択していけばよい。
時期によっては雪渓が残るが傾斜は強くない。

Vrata谷の両岸にはStenar, Skrlaticaをはじめ壮大な石灰岩岩塔が展開し、そのどれもが登攀対象となっている。

各ピークや谷を歩く登山道(Trail)についてはAll Trailsというサイトを参照されたい。
Vrata谷の情報はこちら。

クライミングのルート図(トポ)はMojstranaのSlovenski Planinski Musez(スロベニア山岳博物館)で購入可能。
右がトリグラフのルート図集、左がユリアンアルプス全体のルート図集。ただしすべてスロベニア語。

スロベニア山岳博物館に入ると頭上に展示してある古い救助ヘリコプターはわがパートナー、ブラーネが吊ったらしいが、
「吊ったワイヤーが細いから下には立つなよ。」だと。

展示物も楽しいのでぜひお立ち寄りを。

JarovecやŠiteなど急峻で硬い石灰岩からなる、クライミングの楽しい岩峰群はKranjska Goraという観光地を経由して、Tamar渓谷のPlanica Nordic Centreからのアプローチが便利。

紙の地図は上記、Mojstranaの博物館やKranjska GoraのInformation Centerでも入手可能。
現地の地図アプリもいくつかあるが、赤沼はGeographicaでOpen Street Mapに設定(無料)するだけで十分と感じた。


さて今年(2026年6月~7月)。
妻がクロアチアのアドリア海に沿って、古い街並みを見たいと言う。
そしてスロベニアのユリアンアルプスとそこに住む仲間たちに会いたい赤沼。
前半でユリアンアルプス周辺。後半がクロアチアの海岸線に沿ってのドライブ旅行ということで、2週間の旅プランが成立した。
ここではユリアンアルプスの部分だけのご報告。

まずは40年前に何か月かにわたって滞在して、友人たちのいるMojstranaへ。
Mojstranaへは、スロベニアの首都Ljubljanaからアプローチするのが最速だが、われわれはウィーンでコンサートを聴いたり、カフェに立ち寄ったりしてからレンタカーを借りてスロベニア入りするという観光プランでスタート。
オーストリアのVillachという町からだとWurzen Passの国境を越えてMojstranaまでは1時間もかからない。

40年前の古いパートナーたちと。Mojstranaのブラーネの家にて。

今回もこの家に4泊させていただいた。

スロベニアのパートナー、ブラーネの家。ここに泊めてもらった。

ブラーネ宅と裏山のGrančišče.
ここには赤沼の拓いた「はらきりルート」があったが、今はブラーネらによってVia Ferrataが整備され、多くのツーリストがここをよじ登っている。

まずは妻と二人でトリグラフ北壁の基部となるAljažev domまでのトレッキング。
Aljažev domに近づくとまず名峰Škrlaticaが右手(Vrata谷の左岸)に見えてくる。

Škrlatica(スロベニア第二の高峰)
Aljažev domの後ろにそびえるトリグラフ北壁

Aljažev domに車を停めてここからVrata谷を歩く。

40年前に登ったSfingaルートを指さして自慢する赤沼
トリグラフ北壁のSfingaルート(中央の岩塔を登るもの)

トリグラフ北壁に向かって何本か伸びる登山道(Trail)を適当に登っていく。
北壁に左よりを登って行くVia ferrataの整備された登山道もあり、山頂まで行くこともできる。
われわれは北壁の基部付近まで歩いてから引き返す。


Aljažev domでかつて登った北壁を眺めつつビール。
じじいになったらこんなことをやってみたいと、若いころから思っていた。

翌日はブラーネと2人で近くの岩場でクライミング。
その間妻はその周辺の山をハイキング。

Mojstranaからほど近い岩場Braščeva skala。古くから登られた形跡はあったが、ブラーネたちがここを整備し、フリークライミングの岩場として開拓した。

旅行前、ブラーネに「どこかで一緒にクライミングしよう」と誘うと、「クライミングシューズとハーネスだけ持っておいで」と言ってもらっていた。
ギアやロープなどすべておんぶにだっこでのクライミングの一日。

岩場へは10分程度の歩き

ブラーネの作った2ピッチのフリールート。ブラーネリードで離陸。

この辺の石灰岩の岩場には珍しいクラック中心のルート

1ピッチ目終了点でビレイ中のブラーネ

岩場からMojstrana、そしてトリグラフ方面の山々が見える。

2ピッチ目はワイドクラックの核心部分。赤沼がリード。

ブラーネフォロー中

1時間ほどのクライミングだったが、じいじ達にはこれで十分だったらしい。

さあ村に戻って宴会しよう~♪

というわけでさっさと下山

登山口に合流した妻が撮影。
左から赤沼、ブラーネ、マルティン。
マルティンはアッシーでお迎えに来てくれた。

そして村の懐かしい仲間が集まってディナー。
40年ぶりとは思えないほどみんな変わってなかった。

美しい夕方のMojstrana

さてさらに翌日。
妻とふたりで Vršič Pass を越えてTrenta谷の有名なSoča川へ。
まあいわゆる自然景観を楽しむ観光地ですが・・・・
道中、Mala Mojstravka, Velika Mojstrovka, Planja, Prisojnik, Razor等々の錚々たる岩峰群を見ることができるので、お薦めドライブコース。

Soča川はまあ有名な観光地なので説明は省くけど、この川の美しさは一見に値するかと。

観光のあとはさっさと峠道を引き返し・・・

Tamar谷のPlanica Nordic Centreへ。
こちらもトリグラフのVrata谷と同じく、美しい氷河に削られた氷河谷。
Šite峰の北西壁やJarovecの大岩壁に囲まれたクライミング基地でもある。
ここからはMojstrovka, Travnik, Jalovška škrbina, Goličicaをはじめ、当然Jarovecへのアプローチも最奥に控えている。

ここをTamar谷の山小屋Planinski dom Tamarまでのハイキング。

最奥のJarovec峰

Jarovecの左側の側壁群はŠiteをはじめとする硬い石灰岩の壁が続いており、フリークライミング的に困難度の高いルートがたくさん開拓されている。

Tamar谷の山小屋でも錚々たる岩壁を眺めながらのんびりできる。


この後1週間ほどクロアチアのドライブ旅行をして・・・・


帰りがけにもう一度ブラーネ宅に立ち寄り。

ゆっくりとお茶をして、別れを告げ。

帰国前にスロベニアの山々を眺めようと、スロベニア、オーストリア国境のWurzen Passからちょいとハイキング。
行先はDreiländereck。
イタリア、スロベニア、オーストリアの3国の国境が交差地点が山頂。
イタリアではモンテフォルノ、スロベニアではペチ、オーストリアではドライレンダーエックと呼ばれる山。

Wurzen passから整備された登山道を辿って3~4時間で往復できる。

Wurzen passから赤白赤のマークを辿っていく。

急なところもあるけど、道はよく整備されている。

スロベニア側のトリグラフ、ヤロベツなどが一望できる。

オーストリア側からはロープウェイでもあがってこられる。

山頂付近は牛が放牧されていたりする。これを横切るのはちょっとどきどき。

三国国境の山頂にて

かつて登った錚々たる岩峰群がすべて一望

さてオーストリア側に帰るか。

というわけでオーストリアのVillachに帰って来た。
あとはウィーン経由で帰国するだけ。

弾左衛門の峰

弾左衛門の峰はとんがり山だった。
しかもあるはずだった針葉樹林は伐採されはげ山のようになっていた。
しっくりこない歴史検証と実地のパズルが、かちっと音をたててはまったような気がした。

弾左衛門の峰は、高尾を遊びつくす作戦の一環として目にとまった山。

弾左衛門といえば、徳川幕府の時代、関八州のエタ、非人の頭領として初代から13代まで代々の当主が名乗った世襲名。浅草弾左衛門としても知られる。
徳川幕府からは幕臣なみの立場を公認され、裁判権や徴税権、革細工の利権を持って賎民を統括、支配してきた。

浅草弾左衛門は浅草に3000石の旗本ほどの屋敷を構え、関東全域および伊豆、甲斐、駿河などのエタと言われた特定の職能集団(皮革製品の製造および専売、死牛馬などの処理、刑の執行と事後処理、警備、清掃など)を統括し、大きな利権を持っていたという。
賎民の頭でありながら幕臣に近い待遇を受け、江戸城への登城も許されるほど高い社会的権力を持っていたらしい。
ところで、その名が付された山はどこにあるのか。

弾左衛門の峰は奥多摩の戸倉三山(臼杵山、市道山、狩寄山)の途上にある標高669mのピーク。
弾左衛門の峰からは東に恩方アルプスと呼ばれる尾根が陣馬街道の北側に沿って伸びる。陣馬街道の南は北高尾山稜。さらに南が甲州街道(小仏峠)をまたぐ表高尾となる。

登山の対象としては大して目立つこともない小峰に過ぎない。

なぜそんなマイナーな山に弾左衛門の名が付されたのか?
浅草弾左衛門や、八王子から陣馬街道の民俗史の資料をいくつか調べてみた。

八王子は甲斐、信濃からの敵の進入経路である甲州街道の関門にあたる、軍事防衛の要衝であり、交通、物流の拠点であり、経済産業の心臓部であった。そのためここは天領すなわち幕府の直轄地として管理されていた。
徳川時代の稀代の実務家大久保長安によって八王子千人同心など、半農半士の防衛システムが組織され、(おそらくはその大久保長安の差配により)弾左衛門傘下の職能集団もここにいたこともわかってきた。
この職能集団は軍事物資として重要な皮革製品の製造、管理、流通をひとつの生業としつつ、幕府の命を受け街道の監視、処刑の手伝いなども行った。

ところで当時八王子には大和田刑場という処刑場があり、そこでは見せしめのための公開処刑も行われていた。
鳥越の刑場で山田浅右衛門などの武士によって行われた非公開処刑と違い、公開処刑には一種のパフォーマンス性が求められた。
そこで刑の執行役として登場するのが日頃乞食のように村はずれでごろごろしている(ように見える)、エタ非人たちであり、河原ものと呼ばれた彼らは首切りや遺体を刻んで運ぶ役割も負っていたという。
牛馬の死体を処理し、皮革製品を製造する仕事とも共通するが、「穢れ」としてタブーとされた仕事を行う、聖なる清めの力を持つものとして扱われた部分もあるようだ。
ちなみに彼らには遺伝子的特徴として髭面、長頭の者が多かったとも言われる。

さて彼らは幕府の命を受け、以下のような治安維持の仕事を行っていた。
● 罪人の捕縛、護送、処刑の執行
● 諸国巡察(見回り)
● 不審者の検察、取り締まり
すなわち特定の場所に人を配置して、怪しい人間を監視するのは、弾左衛門傘下の職能集団にとって日常的な公務であった。
そういう見地から弾左衛門の峰の地理的条件をとらえると面白いことがわかってくる。

高尾の中心を通る甲州街道には小仏関所という非常に厳しい関所があった。
手形を持たない罪人などは、関所の正規ルートを避け、北側の山を越えて陣馬山やあきる野へと抜ける山道を使って山抜けを試みた。
弾左衛門の峰はまさにその、小仏関所を迂回して北側へ逃げようとする山道(北高尾山稜やその周辺の尾根道)を広く見渡せる立地にあった。ここに山番を置くことは防犯、警備上の定石とも言えるわけだ。
多摩や武蔵国の山における山番の多くは、弾左衛門の配下にある長吏(職能集団)が任命されていたこともわかった。
弾左衛門の峰は、弾左衛門配下の山番たちが駐在した拠点だからこそそう呼ばれたのではないか?
さらに弾左衛門の峰のすぐちかく(ピークから見下ろせるなだらかな尾根)に鳥切場という名のピークがある。
かれらは幕府の鷹狩の餌となる鳥などをここで捌き、処理していたのではないか?

ただ、こういった仮説のすべてを否定する致命的な要素がひとつあった。

弾左衛門の峰を訪れた登山者の記録のどれを見ても、ここは樹林に覆われた地味なピークだったのだ。
展望のまったくないピークで街道の監視?

そんな仮説の検証のため・・・・と言いつつ、楽しい仲間と八王子城址近くから弾左衛門の峰へと続くマイナー尾根「恩方アルプス」を歩いてみた。

この山行は夕方早くから高尾で酒を飲む予定が優先されたため、時間切れで目的の峰にはたどり着けず途中下山。

今回、ひとりでこの下山ルートから稜線のさらに先を踏破し、鳥切場を経て弾左衛門の峰を踏んできた。

前回は東の恩方アルプス稜線を縦走してきて、高留沢の頭から夕焼け小焼けふれあいの里に下山。
今回は夕焼け小焼けから下山コースを高留沢の頭まで登り返し、西に弾左衛門の峰まで歩き、その先の登山道は長いので送電線下の尾根を下山してきた。

湿度の高いくもり空のもと、前回の最終到達地点、高留沢の頭に至る。

稜線を進むと山頂付近に送電用の鉄塔の立つ、弾左衛門の峰が見えてきた。ピラミッド型のピークがよく見える。なんであそこだけ禿げてるのだろう?

鳥切場から見た弾左衛門の峰。
山頂部分から北側斜面一帯のほとんどが伐採されていた。


そういえば北の入山峠を通って弾左衛門の峰に行く道が伐採作業のため閉鎖されていた。看板には東京都農林水産振興財団、花粉対策室とあった。
花粉の元となる針葉樹林を伐採しているのかな?

鳥切場の頭という標識の向こうは黄色テープで閉鎖中。

かなり大掛かりな伐採のようです。

そして弾左衛門の峰に到着。


弾左衛門の峰から。かなり遠くまで見晴るかすことができますな~。
ん?
これが全部はげ山だったとしたら、ここって最高の監視場所になるね。

なだらかな尾根の左端。ここだけ樹林に覆われているのが鳥切場の頭
弾左衛門の頭からもよく見通せる、なだらかな作業場に最適な場所に見える。

そういえば。

江戸時代って、薪の供給などのために関東一円の山で樹林が刈られてしまい、はげ山だらけだって話を聞いたばかりだったわ。
針葉樹林なんて江戸時代以降に植林されたものだものね。
てことは、この辺もはげ山だった可能性が高い?
だとしたら山番にとって絶好の監視場所じゃん!
弾左衛門の峰ってはげてみると、きれいな三角形にとがった姿形のよいピークだよ。(というか北高尾一帯の山は針葉樹林に覆われていてわからないけど、歩くとピーク付近はどこも急登になっていて、こんな風に格好よいのかもしれないけど。)

「たまたま」山の樹林が伐採されていて、
「たまたま」当時の山がはげていたかもという話を聞いて、
なんか仮説が事実だった可能性がぐんとあがったかも。

さてさて。
なんとなく弾左衛門の峰まで実際に来てみて、ほとんど期待もしていなかったのに、楽しくなるような成果があったよ。
気分をよくしながら、同じ道を戻るよりは地形的には歩きやすそうな尾根があるのでまっすぐ里までおりてしまえ・・・と登山道表記のない尾根へ。

登山道表記はないけど、下りてみたらピンクテープとしっかりした踏み跡がついていてとても歩きやすい尾根でした。

カヤトの原東南壁

赤沼がクライミングを始めたのは1970年台の後半。
そのころ登山に使っていたのは主に国土地理院発行の地形図だったが、まわりの登山者たちからは「りくそくの地図」と呼ばれることが多かった。
陸軍陸地測量部(りくそく)は1945年の終戦のときに解体して、地図関係の仕事は内務省国土地理院に引き継がれたわけだが、1970年台になってもまだ「りくそくの地図」と呼んでいたのはなんだか不思議な感じがする。

まあそれはともかく。

RCCⅡ発行の「日本の岩場」に紹介されている著名な岩場をある程度登ると、ルート図のあるクライミングに少し飽きてきて、未踏(未知)の岩場を探し出しては登る自由さが楽しくなってきた。
地形図上で「毛虫」のような岩記号を探しては偵察に行くわけだが、よい岩場にあたる精度は低くて徒労に終わる場合が多かった。
やがて自分の勘が働くようになってからは精度もあがってきたが、そのころには体力が落ち目に・・・・
傍らでテクノロジー?も進化してきて、地形図に岩質マップのレイヤーをかけてみたり、篤志ハイカーのブログの写真をあさってみたり、Google earthで確認したりもできるようになってきた。
そうやって見つけた五郎山の岩場でのクライミングは最近の成功例のひとつ。

さてここで最近売り出し中で世間をぶいぶい言わせてるAIの力試しでもしてみようかと思い立った。
前日妻と十石山で長めの登山をやって北杜市の家に帰ってきて、午後から東京の家に戻る予定なので、午前中に周辺の岩場でも探しに行くかとGeminiに「北杜市周辺でまだ人に知られていないが、クライミングの楽しそうな岩場」の調査をさせてみる。
見つけてきたのがこれ。

おなじみの信州峠から横尾山に向かう途上、カヤトに覆われたなだらかな展望ポイントの東南面にたしかに小さな岩記号がある。
たしかに花崗岩の多いエリアだし、ちょっとしたスラブなりクラックくらいはあるかも?
そういえば瑞牆山あたりのクライミングで名を馳せた兄貴分の中尾さんも「最近はボルダーすら開拓されつくされてきて、山奥に行かないといい岩場が見つからん」なんてぼやいてたっけ。
面白そうな岩場でもあれば誘って登りに行けるね~。

家から信州峠は車で30分。
ここから登山道を30分程度でカヤトの原にあがる急斜面の手前。ここから左手におりていく。

この辺から登山道をはずれて左斜面を下りる。

あっという間に岩記号のあたりについたが・・・・あはは。
岩ごろごろの中に藪だらけの露岩がいくつか。
まあ地形図には岩記号つけるわな。これなら。

岩記号のどまんなかあたりにきれいなルンゼが伸びている。
写真の見た目よりはだいぶ急で結構いやな登りになるな、これは。

ルンゼの両岸が一応やぶやぶの岩稜となっている。右の岩稜のほうが岩の露出が大きいかな?樹林やブッシュがついていてすっきりはしないけど、難しくはなさそうだから登ってしまおう。
位置的には中央岩稜ってなところ?(笑)

こんなところをなるべく岩稜沿いに登る。
やぶ岩稜登り初級って感じで案外と楽しい。

最後の方は岩が減って、傾斜強めの木登りフェース。

傾斜が落ちてくるとまもなくカヤトの原直前の登山道に飛び出した。

うしろを振り返ると稜線上に素敵な岩塔がにょきにょきと。
あれ?あっちのほうが楽しそうじゃん・・・とよく見たら瑞牆山でした。

カヤトの原に到着。
南アルプスや八ヶ岳、北アルプスまでよく見えてますな。

カヤトの原からののどかなパノラマを動画撮影。

信州峠からアプローチ含めて1時間半ほどの楽しいお遊びプランとなりました。
まあクライミングの岩場探しとしては失敗ですが、Geminiにこれからノウハウを詰め込んで学習してもらうといたしましょう。

十石山

乗鞍岳から北に延びる乗鞍連峰は、信州(長野)側と飛騨(岐阜)側の国境稜線を形成しつつ、焼岳を経て西穂高岳に至る。
かつて信州と飛騨を結ぶ峠越えの古道があり、鎌倉時代にはそこが整備されて鎌倉街道の一部となっていたらしいが、安房峠を越える道とトンネルが開通してから廃道化している。
国境稜線上には整備された登山道は一部しかなく、静かな登山の楽しめるエリアとなっている。
そんな中で十石山(標高2525メートル)には白骨温泉からの登山道が整備されていて、比較的登りやすい山のようだ。
穂高連峰や乗鞍岳などに囲まれた眺望のよい山としても知られている。
思い立ってゴールデンウィーク明けの平日に妻と登って来た。
他の登山者にはまったく出あわない静かな山旅となった。

白骨温泉近くの登山口に車を停めてスタート。
上部にはまだ雪が残っているようなので、登山靴とストックにアイゼンも一応持参。

笹薮と樹林に覆われているが、登山道はよく刈り払われ整備されている。


標高2000メートル付近から残雪が増えてくる。
シャツ一枚で汗ばむくらいの陽気。雪もいくらか緩んでいるが、ごくたまに足がはまり込む程度ですんだ。
標高2200メートルあたりで穂高が見えてきた。

標高2400メートルあたりから稜線までは広大な雪の斜面となる。
表面が凍ってはいないので危険はないが、妻はここからアイゼン装着。
赤沼はツボ足でステップを切りつつ先導。

間もなく稜線

ここまで約4時間の単調な登り。しかもアイゼンをつけていた妻はこの辺で「もう疲れた。下りたい」とか言い出すが、稜線まで行けば眺望が広がるはずともう少し進んでみることに。

ようやく稜線上の避難小屋が見えて来た。ここまでくれば山頂は至近。

なだらかな稜線に雪は少なくハイマツに覆われている。
小屋から少し山頂方面に歩くと一気に視界がひらけ北アルプスの峰々が姿を現す。
手前が焼岳、その向こうには笠ヶ岳から双六方面への稜線、その右は穂高連峰から槍ヶ岳までが連なっている。

疲れもすっかり吹き飛び、嬉しくてしょうがないらしい。
とても小さな山頂標識がハイマツの中に立っていた。

山頂からハイマツに覆われた踏み跡を少し辿ると、ようやく乗鞍岳方面の眺望がひらけた。

午後から雨の予報だしと下山開始。
先にどんどん滑りおりていったら、「そんなに離れて、私が熊に襲われたらどうやって助けにくるのよ!」とか怒ってるし。
いや熊と戦っても勝てる自信ないけど・・・・ま、一応熊対策3点セット(鈴、匂い袋、熊スプレー)は赤沼が携帯しているんですが。

約8時間の行動となりました。

下諏訪の矢木温泉(300円、この日は無人、石鹸等なし)に立ち寄ってさっぱりしてから、北杜市の家近くの行きつけ居酒屋に直行しました~。

高尾・恩方アルプス

弾左衛門の峰というピークがある。
戸倉三山の刈寄山と市道山の間にある669mのピークだ。
高尾周辺を遊びつくす作戦の一環として、バリエーションルートのとれそうな山を探していてたまたま見つけた。
弾左衛門?
江戸時代に関八州のエタ頭として、徳川幕府からも公認されて威勢をふるった浅草弾左衛門と関係があるのか?
調べ始めると、弾左衛門と八王子の西にある恩方町、そこを横切る陣馬街道などとの関係性についてのある仮説が浮上してきた。
ならば陣馬街道の北辺に連なる恩方アルプス(千手尾根とも言われる)を縦走して弾左衛門の峰まで行ってみよう。

さて今までは、高尾周辺のバリエーションルートを中心にテーマをこじつけてお遊び登山をし、午後早い時間から「下山飯」で有名な焼き鳥屋「味はる」で宴会をするというのが定番化していた。
でも今回は「味はる」の店主、久保さんが山遊びに参加を表明。
そうすると「味はる」打ち上げはないね。
まあ打ち上げ場所は高尾地元の久保さんにまかせることにしよう。
クライミングの世界の兄貴分、中尾さんにT田さんも加わり4人での里山縦走となった。
恩方アルプスの尾根自体はなだらかなのだが、稜線上に多くあるピークのひとつひとつが急傾斜の登行で、想定外に時間がかかってしまい弾左衛門の峰にはとどかず。というか予定コースを歩ききれないこともなかったけど、早くから飲みたい我々としては夕方遅めの下山はNGということで、恩方アルプスのみの山遊びとなった次第。

弾左衛門の峰と浅草弾左衛門の関係についての検証は次回、ちゃんと歩いた後に味はるでディスカッションをやるということにして、今回は恩方アルプス縦走のご報告となりました。

高尾駅から「陣馬高原下」行きのバスにのって、大久保下車。
本日のコースを赤沼が説明しますが、中尾さんは初対面の味はる店長、久保さんのインパクト強めの風体に目をとられて、内容がちっとも頭に入らなかったとか。

今回のトラックログ

大久保バス停前のお寺の中を突っ切り、浄福寺城址ともなっている千手山を目指す。

お寺の中から登山道が始まる。


なかなか急な登りだが、道中は仏像などの遺構が立ち並んでいる。

山頂には浄福寺城という標識と祠。

浄福寺寺址(千手山山頂)から西に急な斜面をおりる。

10分ほど歩くと樹林が刈られて視界の開けたピーク。
ここから先は恩方山まで地図の登山道標記はなくなるが、実際はほぼ全行程で踏み跡を辿ることができた。

陣馬街道(恩方)を望む。陣馬街道の向こうは北高尾山稜。
浄福寺城址を振り返る。
手前が皎月院。奥は下恩方あたり。

浄福寺城址から天神山に至る真ん中あたりで、切通と稜線上の踏み跡が交差している。このあたりも城の一部だったのかな?

天神山山頂
興慶寺山山頂

興慶寺山から10分ほどで林道を横切る。
擁壁を下りて、向こう側の擁壁を登るルートファインディングがポイント。
擁壁沿いの踏み跡をたどると階段状のおりくちがあった。

林道の向こう側も擁壁。迷いながら林道を右に。

擁壁の切れ目。

擁壁の切れ目まで行き、今度は擁壁沿いに登れば353mピークへの比較的緩い尾根に乗れる。

林道を横切ってから1時間強で恩方山。

いくつもある稜線上のピークがどれも急傾斜で、ここまで想定外の4時間ほどかかり、もう14時。恩方山からは登山道がしっかりとついている。

このペースで弾左衛門の峰まで行けばあと2時間程度か。
そこから下山すると17~18時の下山。
頑張って目的達成するか、この先の高留沢の頭から下山して宴会になだれこむか。
一応話し合いをするふりをするが、内心はおそらく全員一致で下山一択。

登山道上は椿の花と桜の花びらが敷き詰められている。そして久保さんの足。本当は裸足で歩くほうが気持ちよいらしい。
上恩方の宮尾神社に下山

宮尾神社のすぐ下、夕焼け小焼けふれあいの里からバス。
ちなみに宮尾神社の宮司の息子さんが夕焼け小焼けの歌詞を作ったんだって。

高尾駅前の蕎麦屋で宴会。
なんかいろいろ美味しかった~。

静かなる登攀(高須茂)

山岳巡礼倶楽部の先輩、簔口さんの寄贈蔵書からの1冊目。
本書は昭和16年朋文堂発行。
高須茂は登山愛好家、登攀者であり、民俗学者。
そして佐藤春夫に師事した俳人でもあった。

高須の著作「山の民俗誌」は私の愛読書だったが、これは民俗学よりの著作であり、氏が山の雑誌「岳人」の編集者であったことは知っていたものの、クライマーであるとは知らなかった。

岩壁は風雪の中に暮れつつあった。
(あそこをなだれ落ちる雪のみが、あの岩壁を知っている!)

こんな詩が、
ただのクライマーに書けるか?
ただの俳人は昏い岩壁を落ちて行く雪を経験することができるか?

クライマーが、それを「よい壁」であると認定するのはどんな時か?
壁が自分の身体能力で登れそうだとの予感があり、そのピークに到る必然性を持った美しいラインが描ける。山麓には人が住み、歴史や民族、風習があり、それらが壁との一体をなしているのが感じられるようなとき、筆者はそれをよい壁と感じ、登攀意欲が増す。
子供時代の私(赤沼)を山へと導いた祖父は、山に登り、地元の人々からの聞き取りを行い、遺構を見て、それらを記録していた。その影響が大きいのかもしれない。


山や壁と人々との宗教、政治、民俗等に係る有機的関係性。
そこに展開された登攀史。
それらによって山を攀じ登る行為に深みが生じる。
高須の視線のあり方にシンパシーを感じる。
そして高須はそれを美しい言葉によって紡ぐ技術を持っていた。

本書には暮れかかった、あるいは暮れてしまった峻険な岩場や山にいる場面が多い。それをあえて選んだのか、山が好きすぎて、日のあるうちに下山できないことが多かったのか。
暮れた岩壁にある時、人は下界の光に満ちた世界を想う。
少なくとも私はそうだった。
下界の人々のうえに流れて来た歴史、光と翳が、雲上の世界にありながら俯瞰され、そこに自分も融和している気持ちになる。
暗い岩壁と、下界への想いの世界を行き来するクライマーは浮気者。
その近くをなだれ落ちる雪だけが、本当の意味で岩壁を知っている。
まあこんな読み方もありえるんじゃないかな?

高須は明治41年生まれ。
山巡の先輩、簔口さんは明治43年生まれ。
ふたりは同世代人だった。
2人とも15歳くらいで山登りをはじめ、20歳くらいから本格的な山岳登攀をはじめる。
簔口さんは記者を生業としていて、その蔵書は山の本のみならず、ヒマラヤ、チベットなどの研究書や民俗学に関わるものなど多岐にわたっていた。
高須は登山を「スポーツとしての登山」や「知的な旅」として広めようと、山旅倶楽部という登山雑誌の編集同人を主宰。
自ら登山技術や登攀ルート解説、そして山に関わる民俗学の著作を出版する一方、「山小屋」、「山」などの雑誌を発行。後にはご存じ「岳人」の編集同人となる。
少なくとも2人に面識はあったと考えるのが自然だろう。
「静かなる登攀」にはところどころ鉛筆で書き込みがあった。簔口さんによるものであろう。
共感した部分や補足的内容が短くコメントされている。
本書のタイトルわきに「高須くんに単独行について聞いてみたい」という書き込みがあった。

高須の「山の民俗誌」を私は民俗学よりの本と書いたが、表紙の紹介文にはこうあった。

(以下引用)
ケルンの由来の考察、野麦峠、八ヶ岳、神河内にまつわる史譚、小島烏水、深田久弥をはじめ、著名な登山家との交流。
本格派登山家として、文学者として、清明な視点から、「山」と「人生」を縦横に語った名エッセイ集である。(後略)
(引用終わり)

山の民俗誌と静かなる登攀を読んでみて感じるのは、視点の幅広さ。
ある時は暗い風雪の登攀、ある時は死を想い、詩情あふれる森や里の魅力を語る。ときに登山界のミーハー化について小気味よく喝破したり、また山小屋風喫茶店や山小屋そのもののフォルムの美しさにまで話題は及ぶ。
民俗学の柳田国男や登山家小島烏水、また深田久弥などとの幅広い交友関係があったこともわかる。

知識人の書いた登攀の本が読みたい。

そのような期待に本書がこたえてくれた。
遠藤甲太氏の「山と死者」を読んで以来の手ごたえ。
そのような系譜にある本が今もあるのならぜひ読んでみたいという切望が強まった。




古い山の本たち

山岳巡礼倶楽部の大先輩簔口治信氏のお孫さんから、山関係の蔵書を寄贈したいとのお申し出をいただいた。
簔口氏は1966年(昭和41年)5月に、同じく山岳巡礼倶楽部の斉藤清太郎氏とともに富士山で遭難死されている。享年は簔口氏56歳、斉藤氏58歳。
1935年(昭和10年)に設立された山岳巡礼倶楽部で初めての遭難死事故だった。
追悼誌「折れたピッケル」によれば、お二人は1948年(昭和23年)10月に一緒に山岳巡礼倶楽部に入部され、遭難されたころは山岳界の大ベテランとして指導的立場にあったことがうかがわれる。
赤沼はこの事故の時はまだ5歳で、当然お二方にお会いしたことはない。
どんな時代にどんな山を登っていた人なのか。
「折れたピッケル」にある簔口氏の年譜から抜粋してみよう。

1910年(明治43年)生まれ?(享年から計算)
1925年(大正14年)早稲田実業1年生として富士登山
(はじめての山経験というところだろうか。)
1926年(大正15年)日本キャンピング・クラブ入会
(この間はハイキング、キャンプをされている。)
1929年(昭和4年)野歩路会入会
(白根山、斉藤清太郎氏と赤石岳)
1929年(昭和4年)あけび会設立
(斉藤清太郎氏ほかと)
1930年(昭和5年)好日山荘に出入りしているうち、高橋照(のちに山岳巡礼倶楽部)などと交友がはじまる。
1930年(昭和5年)日本登高会入会
(このあたりからクライミングやスキーを含む本格的な登山を開始している。谷川、剣、槍穂高などでの登攀やスキー合宿、前穂高岳4峰での初登攀との記述もある。同時に牧歌的な山歩き、山生活を愛した様子も感じられる。)
1948年(昭和23年)山岳巡礼倶楽部入部
(穂高や谷川岳に出かける一方で東北の山などを歩くことも好まれた様子。)
1966年(昭和41年)富士山にて遭難死亡

ちょうどアルピニズムが日本でも広まりはじめた時期に、日本登高会に入会して本格的登山を開始し、日本登山界のパイオニアたちと同じ時代を生き、同じ空気を吸ってきたということになるか。日本登高会では同じ若手メンバーとして上田哲農氏などもいて、血気盛んなアルピニズム談義を繰り広げていたらしい。近代登山技術の発展期でもあり、簔口氏も山岳会横断的に研さんに励み、指導的立場を築いていったようだ。また山岳連盟の創始期でもあり、山岳巡礼倶楽部の創始者高橋定昌氏などとともに東京府山岳団体連合会の設立にも貢献していた。
そして戦争に突入。
山には行けない状態が推測されるが、岳連として陸軍戸山学校の行軍力指導者訓練に参加したり、軍隊スキー演習などでは指導的立場にあったようだ。
そして終戦とともに山岳巡礼倶楽部に入り、倶楽部の立て直しに貢献していたということらしい。

さて簔口氏に関しての記述が長くなったが、すなわち蔵書はアルピニズム導入期からパイオニアワークの高揚期、そして戦後の登山ブーム(第一次?)の時代になされたものであるということだ。

簔口氏のお宅にお邪魔して書斎を拝見。
大変に多くの貴重な山関係書籍のほかに、チベットやヒマラヤに関する研究書、また民俗学に関する本もたくさんあった。
「学者さんだったのですか?」と聞くと、「新聞記者だった。」とのこと。

どれも興味のある本ばかりですべていただきたいくらいだったが、山の本に限定して頂戴してくることにした。合計段ボール4つ分。

まずは興味の強いものから読んでいき、また紹介していきたいと思う。
ある程度整理がついたら北杜市の赤沼別荘内にある山の遺品ライブラリに加えて、ご興味のある方の閲覧に供したいと考えております。

亡くなった少し前の簔口氏(追悼誌「折れたピッケル」より)







山伏(やんぶし)

高校山岳部の合宿で光岳に登って以来の南アルプス南部。
光岳より南の、聞いたこともないような山を歩く人がいるなんて想像もしていなかった時代に、藪の中から傷だらけの腕と足をさらして登山道に飛び出て来たおじさん(そのころにしてみればの話)2人。
当時にしてみれば、
「かっこいいな~。いずれはあんな山々を歩けるようになるんだろうか?」と憧れを持ったものだ。
でも17歳で山岳巡礼倶楽部の門を叩いてからは、クライミング三昧。
還暦をだいぶ過ぎてからようやく、憧れの南アルプス南部にやってきた。
クライミング終活の一環で、大した岩場のない山々を老後の遊び場所として軽く考えていたわけだ。
深南部と言われるエリアからは少しはずれるようだが、入門ルートとして山伏に登り、ついでに深南部の登山口周辺をドライブしてまわって概念をつかもうというのが今回の目論見。
実は、山深いエリアとはいえ端っこの山ならちょこっと登って来られるだろうと思っていたのだが、調べてみるとどこも時間がかかりそうで、軽く日帰りできそうなのは山伏くらいしかなかったのだ。
このあたりから「もしかして南アルプス深南部なめてた?」と気が付き始めた。

やたら長いがよく整備された林道のドライブで百畳峠入口の駐車場に行き、前夜泊。

駐車場から百畳峠までは10分ほど。


南アルプス南部って樹林のなかをひたすら我慢して歩くようなイメージだったけど、山伏の稜線に出たら深く大きな山々が展開。明るく嫋やかな山々でした。

1時間もかからず山伏の山頂。

南アルプス初心者なんで、山座特定は難しいけど、赤石山脈の山々から大無間あたりまでの山々が一望のようだ。

明るくひらけた稜線

さて山伏に登って雰囲気を堪能したら、各登山口付近をドライブして偵察。

まずは畑薙ダム。紅葉まっさかりでした。

車止めから少し歩いて観光スポットとなっている吊り橋までお散歩。

地図で見ると寸又峡も近いようだ。
ついでに寸又川方面ものぞいてこようと思ったけど、電車ではたった二駅ほどの井川~寸又峡間の林道は寸断されていて使えない。
行くなら静岡まで大回りしての長距離ドライブとなるので諦め。

それにしてもどこに行こうとしても、長く曲がりくねった林道を延々とドライブする必要があるようで。
なんか南アルプス南部の著名な登山口に行くだけでも大変なことを実感。
深南部の著名なピークを全部踏むだけでも、今の体力が続いたとしてあと50年くらいはかかりそうだぞ。
というわけで、ナメすぎ、知らなすぎの南アルプス南部の初体験ツアーとなりました。はは。

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