アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

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新潟・金城山高棚川つばくろ岩

金城山は巻機山の北西約5.5kmほどに位置する1396mの山。
つばくろ岩は金城山から東方向に伸びる登山道のない藪尾根800mほどのところにあるイワキの頭というピーク南面の急峻なスラブ壁で、高差250mほど、幅300mほどにわたって展開している。一言でその特徴を言えば、越後の超マイナーな悪壁。
1970年台ころにあらかわ山の会、江戸川山の会、東京稜行会などによって何本かのルートが登られ情報もまとめられ、あらかわ山の会のホームページには一部公表されていたらしいが、今年2025年に会が解散となりホームページとともに情報もなくなってしまった。

今回のパートナーは野島梨恵さん(ぶなの会)。
今までに甲斐駒ヶ岳摩利支天の岩壁や雨飾山ふとん菱、それに海谷の海老嵓などでクライミングを共にした頼れる相棒。

「自分は草付き泥壁の中で至福を感じる沢屋」と言い切ってるだけあって、まるで呼吸をするように沢を歩き藪をこいでいく。

前穂高の南面で赤沼懸案のリッジルート開拓につきあっていただく予定だったが、天候不順で転進。
梨恵さんは15年も前からつばくろ岩を狙って情報を集めており、何度かこのエリアを訪れてはいたが、まだつばくろ岩本体を特定することもできずにいた。
転進先はここにした。

上の写真に写っているこのあたりがつばくろ岩だったということが、登ってみてはじめてわかった。

実はこのつばくろ岩、赤沼の知り合いでもある山登魂山岳会の鮎、オーブコンビが2009年5月に登り、往復たった6時間で登山口に帰還している。
それを見て昼までには帰るつもりでいたのだが・・・・

5月の残雪を利用してのアプローチとは裏腹別物。
「雪がなくても河原歩きで簡単に行けるだろう」なんて考え、無雪期の越後の沢の悪さを想定していなかったのはそもそも大ポカだった。

雪崩に磨かれた花崗岩系の滝がいくつも続く。
ボルダリングレベルの難しいクライミングで越えたり、延々と草付きと露岩を越えて巻いたりが連続する。
赤沼が登りだした側壁は悪すぎていきづまり、泥クラックに突っ込んだカムを捨てて懸垂しておりたり・・・・
梨恵さんがチョックストン滝を、空身になってカムと泥に打ち込んだハンマーのエイドで越えたり・・・・
垂直の藪をロープクライミングで尾根まであがっての高巻きがあったり・・・・
岩壁の取付き付近まで実に7時間の奮闘的な沢クライミングとなった。

さてどうやら取付き付近にたどりついたようだ。
で、どこ登ればいいんだ?
まわりじゅう垂直の藪と垂直のぬめりまくったルンゼといや~な感じのスラブ壁しか見えん。
しょうがないので↑こいつの右端のほうを登りだしてみる。
いやな態勢でハーケン打ったりしながらようやく岩壁帯にたどりついたけど、簡単に登れそうには見えない。
山登魂の2人はフリーソロであっさり越えてるらしいんだが、これどう見てもロープつけて、ボルト打ちながら奮戦する壁でしょ?
ふと振り返ると、谷の向かい側に気持ちよさそうな、つまり傾斜のゆるいスラブ壁が稜線近くまで続いているじゃあありませんか。
さっさと懸垂でおりて、そちらにトラバース。


いやいや。こんな快適なスラブ壁でしたよ。
これがたぶん山登魂のふたりの登ったS字スラブだろう。

ともあれ楽しい岩登り自体はあっという間におしまい。
これでだいぶ高度は稼げたけどね。

稜線に近づくと傾斜の強い藪漕ぎといやらしい露岩のミックス、つまりとてもとても越後らしい岩壁になってくる。佐梨の岩壁登ったことある人ならどんな感じかわかると思う。
下に向かって生えてるしゃくなげの根をつかんで、ぬめった露岩に足をこすりつけて、ほぼ腕力で身体を持ち上げて行くような、体力の消耗の激しいクライミング。根っこをがっちり持っている限り怖い感じはしないんだけど、間違って落ちたらまあ助からないでしょう。(そういうパートは余裕なくて写真も撮ってないす。)

岩壁部分を抜けて少し傾斜が落ちてくるも、藪漕ぎはかわらず。

もうすぐ稜線。


稜線にでたところのピーク「いわきの頭」。
登山道の通っている金城山までは1キロほどの藪稜線。
暗くなると同時くらいに金城山にたどりつき、あとは嵐となってしまった中、すべりやすい登山道をおりて登山口にたどりついた。14時間ほどの行程となった。

高棚川林道途中0622am-二股0855am-小峠付近1030am-つばくろ岩基部1330pm-イワキ頭1618pm-金城山1744pm-観音山(雲洞)登山口2030pm-タクシー-高棚川林道駐車地2045pm

地蔵岳・離山岩峰群

地蔵岳の北にひときわ目立つ岩峰群がある。
それらの最高峰は地図には離山と記載がある。

鳳凰三山の地蔵岳方面から見ると左手の岩峰が離山(2307m)。
その右手に2峰、3峰、4峰と並んでいる。
ネットで調べると藪岩愛好家やヘビーハイカーなどがたまに登っているようだ。

離山(岩峰群)の位置
アプローチも含めたトラックログ

ここを訪れた人たちの多くは石空川の駐車場をスタートして、北東のやぶ尾根からアプローチし、離山岩峰群を縦走したあと地蔵岳に抜けている。
岩峰たちは主に風化花崗岩の傾斜の強い岩壁で形成されているようで、登山者の多くはその弱点、すなわち急傾斜の木ややぶに覆われた斜面を登り、下降は懸垂下降をまじえて通過している様子。
クライマー視点で訪れたらどこまで遊べるのか?
そんなテーマで登りに行ってみた。

パートナーは石鍋礼くん。
彼が中学生のときからのつきあいなので「少年」と呼んでいるが、もうアラフィフのれっきとしたおじさん。
フリークライミングが得意でエルキャピタンなんかも登っちゃってる。

誰もいない石空川の林道奥にある駐車場にテントを張って前泊。
かなり長い行程となるので、早朝暗いうちに出発した。
先人の記録に倣い、吊り橋を渡ったあたりから離山の北東に伸びる尾根に取付く。
ときおり傾斜の強いところもあるものの、はじめのうちはゆったりとした樹林の尾根。

気持ちのよい森であちらこちらに茸が顔をだしている。
「これ松茸じゃね?」みたいのもあったけど、茸はわからないので素通り。

1914m峰の手前のピークあたりから露岩が出始める。

いよいよ離山。4峰が近づくと、行く手に次々と岩壁が立ちはだかる。
苔むした露岩のフェースと樹林や藪に覆われた急なルンゼで構成される岩場が多い。

複雑な地形を読みつつ岩場を越えて行く。
地形が複雑な分、登るルートの選択肢も多いので、難しくもやさしくも登れるのが楽しい。

いよいよ岩峰群に突入。
ルートの選択肢は減ってくる。
苔むした脆い岩場をおそるおそる登るか、木登りに逃げるか。
我々はもちろん、できる限り岩場を越えて行く作戦。

木登りに逃げるか岩で苦労するか。自分との闘い(笑)がつづく。
ここではいったん正面突破を試みる・・・・が、ハングに行く手をはばまれ・・・・・いったん木登りに逃げ・・・・「あのハングさえ越えれば中央突破の気持ちいいラインになるぞ」と再チャレンジ。
ぼろぼろクラックにねじこんだサイズのあわないカム(カム4個しか持ってこなかった)と、抜けそうな枝に通したスリングでのエイド(人工登攀)で限界ぎりぎりのクライミング。
こんな遊びがつづく。

赤沼が「このフェース、フリーで登れるんじゃね?」とトライするも恐ろしすぎて即敗退。ところがそこをじっと見つめる礼くん。
「これやってみていいすか?」と日ごろ高難度フリークライミングをこなす礼くん。
「もちろん好きなだけやってちょ」と赤沼。
荷揚げ用のバックロープも付けて空身で登る気満々の礼くん。

「でもさ。途中で支点とれないし、落ちたらその下、切れ落ちてるから大きめの怪我しそうだよ。」と赤沼が手前の木から伸びあがってカムを一つ設置。
「さあ、どうぞ!」

しか~し。取付きで岩を触りながらもじもじする礼くん。
「あははは。これが風化花崗岩じゃ!すべてのホールドがはがれるつもりで登りなさい!」と上から目線の赤沼。
そして「やめてもいいよ。左から巻けるよ~」と悪魔のささやき。
「・・・・・やめます。」としょんぼりする礼くん。
ぐわははは。これが脆壁じゃと無駄に鼻の穴をひろげて偉ぶる赤沼。

岩峰のくだりは木登りの反対、木下り?で行くが、木が途切れてきたら即懸垂下降。

離山本峰が近づいてくるにつれ、風化花崗岩の巨石が無造作に置かれたような地形になってくる。
ルートファインディングの重要性が増してくるけど、ほぼ勘と運の世界。

ざらざらに風化したスラブ帯は手掛かりがなくて、下は切れ落ちていたりしてなかなかに怖い。

まわり中こんなフェースに囲まれる。
ルーファイが難しい。

離山本峰は越えて、あとは地蔵岳に向かうだけ。
でもここからが大変だった。
巨石がごろごろしていて、その間はハイマツとシャクナゲの藪に覆われた尾根を究極のルーファイが求められる。
ハイマツのクレバスと巨石の間にはまって身動きつかなくなった礼くんがトランシーバーでアドバイスを求めてきたりもあったけど、だいぶ先まで行ってしまった赤沼は手の出しようもなく「知らんがな」と、ただ彼の自助努力を待つのみ。

藪漕ぎしながら振り返ると登って来た離山の岩峰群。その向こうは北岳かな。

巨石の間をいんぐりもんぐり地蔵岳を目指す。

地蔵岳のオベリスクが見えて来たころはもう暗くなってきちゃったよ。

周り中岩だらけ、やぶだらけ。今日帰れるんかいな?っていう風情の動画。

すでに暗い地蔵岳に到達し、夜を徹して歩き、駐車場に帰還したのはすでに深夜となってしまったわけ。
いや~長かったな~。
一応ツェルトで泊まれる体制はあったけど、北杜市の別荘に行って、風呂入って酒飲みたいし、がんばって20時間も歩いてしまった。

さてこのルート、若くて元気な人たちは10時間ちょっとくらいで踏破してますな。一般的には18時間くらい?
まあ自分たちなら15時間で踏破して、夜早めに別荘で酒飲みだすくらいのつもりだったんだけど・・・・
わけわからんクライミングでつぶした時間3~4時間、実は藪漕ぎが苦手だった礼くんのオーバータイムも考えればまあこんなもんか。
実はアラカン赤沼、20時間も歩けたことでちょっぴり自信つけちゃったりもしたよ。はは。

金峰山・千代の吹上第三岩稜A峰正面壁

金峰山山頂近く、千代の吹上の上を行く稜線登山道から眼下に望まれる独特な姿の岩峰が、3~4つの岩峰から形成される第三岩稜の一番上の岩峰(A峰)だ。

A峰を下(南面)から見上げるとこうなる。
この正面壁を登って、特徴あるチムニーにはさまり、このピークに立ちたい。
ちなみに側壁からこのピークには以前立っている。(下記リンク参照)

そしてようやくこのチムニーから念願のピークによじ登ることができた。
そしてこのクライミングで千代の吹上通いも一段落かな。

今回のパートナーは頼れる兄貴、中尾政樹さん。
B峰のクライミングもご一緒してくれた。

前回は長いアプローチを嫌って、前夜大日小屋に宿泊したが、あまりの臭さ、汚さに辟易して今回は早朝発の日帰りプラン。
砂払いの頭手前から第三ルンゼを下降。左岸に向かってA峰B峰のコルへ。
上の動画はコルからA峰周辺を撮影したもの。

コルから短い懸垂一回で取付きへ。

壁の中央付近のクラックを目指して中尾さん離陸。
「岩が脆くてどれもはがれそうだよ~」などと叫ぶ兄貴。
しかもクラックは節理がちゃんと入っていなくて苦労している様子。(赤沼は木の葉陰でビレイしているので様子がよくわからない)
そして「残置ボルトがあった~」と。
古めのリングボルトらしい。
どうやら誰か登っているみたいですな。
残置ボルトがあるとはいえ、チップが見えるほどの浅打ちで、危険な感じとのこと。
中尾さん「どうせなら登られているラインよりは、まだ登られていないラインから行こう。」と、その浅打ちボルトにそっとテンションをかけながらクライムダウンしてくる。

左よりのラインに向けてやりなおし。
10メートルほど?あがったところで、壁の中央に向けてトラバースとなるが、ロープが浮石を落とすと赤沼直撃の位置だったので、ここでいったんピッチを切ってくれた。

ここからも風化した花崗岩をだましだまし壁の中央部に行き、そのまま上部へ。ちょっとしたリッジをまわりこんで行ったため、赤沼からは様子が見えないがロープは着実に伸びて行き2ピッチ目も終了。

2ピッチ目フォロー中の赤沼

2ピッチ目も脆いところがあって気は使うけど、それほど難しくもなく、割と楽しいクライミングで例のチムニーの真下まで。
そしてこのピッチにも残置ボルトがあった。
ロープピッチとしてはそのままピークアウトできそうだがここで2ピッチ目終了。
最後のおいしいところを赤沼のためにとっておいてくれたみたい。
「最後のピッチ登る?」と言ってくれたけど、「いや今回は中尾さんが最後までやっちゃってくださいよ。こういうワイド系は中尾さんの得意分野だし。」と赤沼。

さっそくワイドクラックにはさまって楽しそうな中尾さん。
最初のこの辺が核心のようだ。
そしてチムニー内は狭すぎてヘルメットが邪魔のようで、脱いで荷揚げ用バックロープでおろしてきた。

中尾さんの身体はどんどん奥へと吸い込まれていき、すぐにピークアウト。
赤沼はせっかくのトップロープなので、核心部は中に入っていんぐりもんぐりするのを避け、レイバックでワイルドに登ってみる。

チムニーにはさまって嬉しい赤沼

ピークに出た~。
最近得意の自撮り棒で記念撮影。

A峰のピークからも少し岩稜がつづくが、面倒なのでロープをはずして樹林ごしに登って行き、途中から岩稜上に。

岩稜を少しあがったところから中尾さんの雄姿を撮影。
この画がほしくてあえて樹林から岩稜のうえに出たわけ。

もう一枚。

さて打ち上げには菊地ガメラ氏も合流して四方山話。
「今日登ったところは未踏だろうと思ってたけど、登られていたみたいですよ。」と赤沼。
「あれだけ目立つ岩場だから結構登られてるんじゃないの?そういえばY野井さんあたりが、ヒマラヤの練習のためにあの辺をだいぶ登ったらしいよ」と山岳界の事情通ガメラ氏。
Y野井さんレベルのクライマーなら、ナチュラルプロテクションで登るだろうし、練習意識なら記録なんかださないだろうし・・・・ということで、この一帯も何度かは登られているんだろうなという印象。
ともあれ、初登攀に興味があってのクライミングでもなく、あまり人に知られない楽しいラインを発掘することができたのがとても嬉しい次第。
第一岩稜、第三岩稜、第四岩稜の主だった(自分に登れそうな)ラインは完結。
第二岩稜、第一フェース、第二フェースは残っているけど、すでにだいぶ登られていて情報もあるので、「ルート発掘」的興味としてはまあ対象外。

そんなわけで千代の吹上通いはいったん卒業かな~。

山巡じじい会約11回【黒曜石巨大露頭】

今年で設立90周年となる山岳巡礼倶楽部。
そういうわけで(てか、たまたま)、3月の鷹取山につづいて今年2回目の山巡じじい会。
今回のお題は「八ヶ岳に眠る謎の黒曜石巨大露頭」。
発端は2020年の山巡じじい会3回目
わたべさんの発案で探索行を行ったもの。
この時は巨大露頭を特定する有力なヒントをつかんだものの到達できずに終了。
そして2024年、赤沼が再訪
目星をつけた場所の周辺をさんざんうろちょろした挙句に発見し、GPSのトラックログを保存してきた。
そして今回、赤沼のガイドで見学ツアーとなった次第。

暇なはずのじいさん達なのに、日程調整に案外と難航して、なんと7月3連休の初日に八ヶ岳の赤沼宅に集合。当然ながら前夜祭。
左から惣之助さん、二階さん、わたべさん。

さて。前夜はだいぶ飲んだものの早起き老人たちは元気に目覚めて出発。
国道の某所に車を停め、GPSログに従って森に突入。

北八ヶ岳の森。
最高の好天なのに、展望もない森を逍遥するなんてもったいないと思っていたけど、薄日のさしこむ苔の森は最高の癒し空間。涼しいし。

露頭に近づくにつれ赤布や踏み跡が出始める。

小一時間の散策で黒曜石露頭に到着。
件の巨大露頭自体は表面的には黒曜石らしくないが、近づくと黒光りする尖った岩肌が見える。
むしろ周辺に黒曜石らしい岩や石ころが無数にあってそれとわかる。

露頭まわりをうろちょろ。

帰りは前回気が付かなかった踏み跡や赤布を発見し、より平坦なルートで国道に戻ることができた。
散策自体はものの2時間ほどで終わってしまった。
少し観光して時間つぶし、本宴会に突入するか~というところだが、何せ学校が夏休みに入った好天の3連休とあって、観光地はすべてが渋滞。
早く八ヶ岳の家に帰って来たものの、みな昨日の宴会と今日の山歩きで疲れ気味。
ビールを少し飲んだらあとは水飲みながら野菜中心の食事にとどまり、山岳巡礼倶楽部90周年イベントについての打ち合わせなどしつつ夜は更けていった。

金峰山・千代の吹上第三岩稜B峰

懸案の第三岩稜B峰に一本のラインを引いてきた。

D峰を登った際にD峰の頭から撮影したB峰。
全3ピッチとなったが、1ピッチ目は写っていない。

第三岩稜についてはほとんど情報がなく、2024年9月に登ったときに概ね4つの岩峰からなることがわかり、上からA, B, C, D峰と仮称した。


2024年9月には一番下のD峰を登っただけで時間切れ。
同年10月にA峰を登った。

A峰(B峰の頭から撮影)は、この特徴的なチムニーを登って頭に出たかったが、向かって右側のルンゼからアプローチした際は下部フェースにルートを見出せず、右側から巻き込むようにしてこの上に立った。

その際残置ボルト一本を確認している。過去に似たようなラインで登った記録があるようだが、われわれが登った際は、残置ボルトのあるルートはとらなかった。一部かぶっているような気もするがはっきりしない。

さてA峰は不本意なラインではあったが、登ってその頭に立った。
D峰も登った。C峰は登攀価値はあまりないと判断。
今回の狙いは最後に残されたB峰。なかなかの大物に見える。

パートナーは中尾政樹さん。
シブリン南壁の初登攀、サトパント北稜の登攀などの実績を持つほか、黒部や瑞牆山などを中心に高難度ルートを多数開拓してきた心強いパートナーだ。赤沼より少しだけ年上のパイセン。
千代の吹上には前から関心を持っていたとのことで、お誘いするとすぐに食いついてきたものの、「アプローチが遠いな~」とか言うし。
なので瑞牆山荘登山口から入山し2時間ほどで到着する大日小屋をベースとして、翌早朝出発するというプランを提案。心の中で、「じいじたちの、のんびりクライミングプラン」と勝手に名付けた。

大日小屋から金峰山方面に2時間弱で砂払の頭。
ここから第三岩稜、第四岩稜の間のルンゼをおりてアプローチする。

第四岩稜のスラブ帯が右に見るあたりから、左手には先日登ったD峰の頭が見えてくる。D峰とC峰のコルに上がろうと思っていたが、露岩が多くて難しそう。
少し上に戻って樹林の斜面をあがっていくとちょうどC峰とB峰のコルに出た。

B峰とC峰の間を懸垂でおりながら、B峰のルートを探る。

歩いても下りられそうなところだが、B峰に見惚れて歩いていて怪我なんぞしてもつまらないので・・・・

中央がD峰の頭。右手前がC峰。D峰を登った際、頭から懸垂下降でC峰側に下りたが、その際の残置支点が途中からよく見えた。
1P目をリード中の赤沼。最後のクラック部分が1P目の核心。
ゼーハー言いながら1P目終了。30mくらい。
1P目フォロー中の中尾さん。
2P目は次のテラスまで。中尾さんリード中。20mくらい。
2P目フォロー中の赤沼。後ろ左がD峰。右がC峰。
2P目ビレイ中の中尾さん。後ろのクラックが3P目。
お天気最高。眺めも最高。
2P目終了点の小ピークからいったんクライムダウンして取付き。

3P目をリード中の赤沼。クラックをひろいながら高度を稼ぐ。
ピーク手前のクラックが難しそうなので、ブッシュ帯に入ったらピッチを切って、一番難しそうな核心部分を頼れる兄貴、中尾さんにまかせる作戦。

ビレー中の中尾さんを振り返る。D峰がだいぶ下方になってきた。

ところがブッシュ内は足場がなく、しょうがないのでそのまま核心のクラックに突っ込む。ロープはすでに30m以上出ていて重いのだが・・・
ブッシュから真上(右)のクラックを登るのが順当と思われたが、中に浮石がたくさんあって、これを落とすとビレーヤー直撃の可能性もあるので、左のクラックへ。
このクラックに移るところがかぶり気味。
フリークライミングにこだわりのない赤沼は即あぶみを取り出してカムエイド2ポイントでクラック内へ。そこから高度感のある気持ちよいクラック登り。このピッチでNo.6も含めて2セットのカムをほぼ使い切り。
でもあまりのロープの重さに終了点についてしばらくは横になってゼーハーゼーハー。
最難関の核心部で50mほどのロープピッチになってしまった。
中尾さんはここもフリーでフォロー。
「カムの回収がうまくいかなくて、1テンションやっちゃった。」とか言ってたけど、ロープが重すぎてビレーしてた赤沼は気が付かず。言わなきゃわかんないのにね。

3P目フォロー中の中尾さん。
3P目終了点。すぐ横がB峰の頭。

B峰の頭からA峰を望む。A峰につなげて、あのバルタン星人のはさみのようなチムニーを登りたかったが、ここで体力も時間もいっぱいいっぱい。
やぶのリッジを歩いて、A峰手前からルンゼ方向に行くと、下降点だった砂払いの頭に戻ることができた。
「この次はA峰を下のフェースから登って、最後のチムニーからA峰の頭に飛び出よう」と話ながら帰途についた。

B峰1ピッチ目終了点で撮影した、周辺の説明動画。

秋田駒ヶ岳&東北遊び歩き

妻の誕生祝いがてら、どこか登っておいしいものを食べてこようという計画。さあどこに行こう。

安達太良山やら黒姫山やらいろいろ考えていたけど、梅雨入りを思わせる不安定な気候でころころと変わる予報のため、行く先が決定できない。
前日の予報では唯一秋田あたりが高気圧に覆われることがわかって、急遽秋田駒ヶ岳まで足を伸ばすことにした。
夕方東京を出て、登山口まで7時間以上のロングドライブ。

コースはどれにしよう?
朝、秋田駒ヶ岳もありかね?とか言ってから仕事に出かけたので、今日家にいた妻は結構リサーチ済み。私はネットで誰かのブログを読んでみた程度。

私「一番軽そうなのは北側8合目小屋の駐車場から行くやつかな?」
妻「そこはまだ道が開通してないみたいよ。南の国見温泉からになるわね。」
私「残雪はどうかな?」
妻「去年の今頃のYou tubeを見たら、ムーミン谷というコースは木道の上をずっと歩いていて、雪の上も少し歩いているみたいだけど、私だけチェーンアイゼンがあればいいくらいかもね。」
私の心の声「ムーミン谷の写真見たら、クライミングによさげな岩峰があるぞ。偵察もしてこれるかもね~」
私「んじゃあ、国見温泉からムーミン谷のルートに入って、男岳の手前から阿弥陀池のほうに峠を越えて、山頂登ってから尾根コースを戻ればいいね。ちょっと長いけど、コースタイムで7時間程度みたい。がんばるか~!」

妻は軽登山靴にチェーンアイゼン持参。私は運動靴。
軽いノリで出発。

想定ルート。国見温泉から尾根をあがって、途中から左に入るのがムーミン谷ルート。男岳の手前から稜線にあがるつもり。

国見温泉の駐車場に午前様で到着。7時間半ほどのドライブだった。
2時間ほど車中で仮眠をとってから出発。
1時間の歩きで比較的なだらかな稜線に出る。これは秋田駒ヶ岳の一角をなす横岳から南西に伸びて来た稜線。
高山植物の多い山らしく、まだ時期は早いようだが道沿いにはそれらしき花々が。われわれお花に詳しくないので、写真を撮ってきてあとでGoogle画像検索で花名を特定する作戦だったが、いまいちわからないのが多いね~。


稜線から田沢湖を望む。
なだらかに横岳に伸びあがる稜線。空も真っ青で気持ちいい~♪

稜線の途中からムーミン谷への分岐。
左から雌岳、男岳、横岳かな。なんかそこそこ雪があるみたいだぞ。


登山道は雪渓に覆われてなくなってますよ。
妻がYou tubeで見た昨年の今頃とは状況がだいぶ違うっぽい。
これじゃあムーミン谷名物のお花はあるわけなし。
今年は残雪が多いのはわかっていたけど、だいぶ軽く考えていたね。はは。

谷の右側はデブリ(雪崩のあと)が残ってます。
小規模のブロック雪崩や落石がたまに落ちてくるので、左よりにルートをとって行く。あまり人も入っていない様子だが、同じようなラインを歩いている足跡が少しだけある。ラインどりから見て山慣れた人でしょうね。

妻もだいぶ慣れてきて、アイゼンなしでもこんなところが歩けるようになってきた。

左のなだらかな稜線から、こちらのムーミン谷にそれてきた。

妻は人生初めてのブロック雪崩と落石を見てビビり気味。

左のピークが男山。その右側の斜面を登るつもりだったけど、雪渓に覆われていて、落石も怖い。妻はこんな雪斜面登りたくないと言うし。


まあ確かに、登ろうと思っていた斜面は少しリスクが高めなので、このままムーミン谷をつめて男岳の向こう側の稜線まで回り込むことにする。

五百羅漢あたりかな?このへんの岩峰が登れるか偵察したかった。ピッチは出ないけど登れないことはなさそう。これを左からまわりこんで稜線目指します。
稜線に這い上がる手前に急な雪の斜面があって、登山道を完全にブロックしてる。雪の横の急斜面から雪の上に乗るあたりが今回のハイライト。
付近はフキノトウが群生してる。

こんなやばいところに来てしまい、妻は怒り出すかな?と思ったら、「なんかアドベンチャーで楽しいね♪」とか喜んでるわ。

ここからすぐ上が稜線。向こうに田沢湖。この稜線から登山道を歩いていくとすぐに男岳。
稜線に出た。
左側の谷(ムーミン谷)から回り込むようにこの稜線にあがってきた。まもなく男岳山頂あたりを登る妻。
男岳山頂から振り返るムーミン谷方面。この辺一帯を含めて秋田駒ヶ岳ということになる。独特の地形ですな。
山頂。天気はよいし、それなりに冒険的だったし、独特の山の雰囲気があったしと妻もここですでに大満足。ほんといい山です。
男岳からはよく整備された登山道。見えているのは阿弥陀池。ここを経由して最初に登って来たなだらかな稜線を下る。左の最高峰男女岳は割愛。もう満足したからどうでもよくなっちゃった。
ここからはよく整備された登山道を下る。ここを往復でもよかったねと言ったら、妻は「今日登って来たところのほうが楽しかった」のだそうで。
歩いてきたルートを振り返る。
花、花、花
のんびりと下る。

7時間ちょっとの山歩きでした。

へたくそなホーホケキョ。
ムーミン谷から稜線にはいあがる手前。急な雪斜面にはばまれた。

この日は秋田在住の友達から教わった水沢温泉泊。
乳頭温泉の手前の静かな温泉街。
お風呂も料理も最高でした。

さてどうしよう?
これから天気が下り坂だから、山はもういいや。
前食べておいしかった米沢牛の店でディナーしたいという妻。
では一日ゆっくりと寄り道しながら米沢までくだることとしよう。

結局歩いたルート
田沢湖ドライブ中
昨日登って来た秋田駒ヶ岳
角館の武家屋敷
この後秋田の友達から薦められた安藤醸造でだしやら、味噌やらを大人買い。
通りすがりの素敵な神社

なんだかとっても不思議で素敵な街、ますだ。

そして米沢焼肉のあとは一気に東京まで帰ってきました。

鳥居峠から栗屋山

このエリアを特定する名前がないものか調べてみたがわからなかった。
西は韮崎あたりから塩川ダム、信州峠を越えて川上村に抜ける小尾街道(穂坂路)。北東に金峰、瑞牆。南に茅ヶ岳や金が岳や曲岳。
奥秩父西部の茅ヶ岳山麓エリアとでも言ったらいいのかな?
その中心に甲府幕岩や樫山岩塔などの岩場があって、スポーツクライマーにはわりと知られた場所ではある。

先月、金が岳に連なる兎藪という山に遊んだ際、その一帯に伝わる修験道や金峰山への参道(みたけ道)に至る古道、天狗や仙人についての逸話などを聞きかじった。
小尾街道に沿っては信玄の烽火台や、山城址も多い。
「おもしろい土地だな~。北杜市の家からも近いしもう少し歩き回ってみよう」。

今回は比志城址に近い鳥居峠というところから、尾根を東方面に歩いてみよう。その先には地図に記載がないが、栗屋山というのがあるようなので、そこを目的にしてみよう。今回も妻とのんびり山散歩のつもり。

韮崎から塩川ダムに向かう県道23号を北上。小尾街道または穂坂路というやつですな。
塩川ダム手前の鳥居峠トンネル手前から小森川沿いの道に入り、最初の大渡という村落から歩き始め。トンネルの上に見えてる峠が鳥居峠だ。

トンネル方向に村の道を行く。


石仏たち
峠に向かう切通し(村の道はここを通らず大回りしている)
兎藪方面
そこここに藤の花
これも石仏?
あっという間に鳥居峠が見えてくる
鳥居峠にもうすぐ
鳥居峠の北側は舗装された林道があった。こちらから来たほうがよかったかな?
鳥居峠から東に向かう尾根に階段
階段の上に修験者の像があった。寛永とか書いてあったような。江戸時代?ここを越えてなだらかな尾根を東へ向かう。
下草もなく歩きやすい。
全体に赤い。赤松か。
尾根はところどころ細くなるが歩きやすい。
栗屋山手前のピークで視界が開ける。金峰山、瑞牆山などが遠望できる。

金峰山

瑞牆山

栗屋山
八が岳が見えた。
栗屋山山頂から樫山の村を見下ろす。
南の林道まで急な斜面をおっかなびっくり下る。
あとは歩いてきた尾根の南の林道を戻るだけ。
藤の花びら
右が歩いてきた尾根。南側はずっと崖になっている。
石仏など。林道沿いに多い。
お気楽半日コースでした。

波田の若澤寺址

松本から槍ヶ岳に至る梓川渓谷。
その出入口にあたる波田町付近は、歴史上かなりの要衝の地であったらしい。
波田町誌によれば(「アルプス越えの鎌倉街道」からの孫引きで)、
「縄文時代から梓川渓谷は飛騨(岐阜県)、越中(富山県)などの他国との交流に使われた渓谷」であり、鎌倉時代にはアルプス越えの鎌倉街道が作られ、蒙古来襲のこともあって、日本海沿岸や北陸地方の警備、交易の道となっていた。
信州の波田地域は(少なくとも鎌倉幕府の時代には)異国への出入口であった。
警備のため、そして交易のため、ここが重要なベースとなっていたらしい。
若澤寺は奈良時代、行基によって創建され、各時代の権力者から庇護を受けてきた。江戸時代の後期にはその壮大さから「信濃日光」とまで呼ばれていたらしいが、明治新政府による廃仏毀釈により廃寺となった。

これにより若澤寺にあった仏像などの多くは他の寺に移され、若澤寺のあった場所は跡地として保存されている。

さて。
アルプス越えの鎌倉街道の探索を少しずつ行っているわけだが、その本意は、昔の人々の営為を想像しながらの山歩きなわけ。
若澤寺址は筆者にとって、ただの「それほど知られていない観光地」であって、山歩き的にはさほど重要ではないが、一応押さえておいたほうが今後の山歩きがより楽しくなるかな・・・・・という程度で行ってみることとした。

若澤寺址だけでは一日の遊びとしては物足りない。
まずは以前にも行った檜峠に行って見る。
昨年の今頃やたらとフキノトウが出ていたので、ちょっとそういう目論見もあったのだが、今回は残念ながらみんな伸びきっていた。

檜峠近くに1479.6mの三角点を有するピークがある。
以前檜峠からここを目指したが、獣の気配が濃厚すぎて引き返してきたことがある。
今回は熊対策万全で来たので、足を伸ばしてみた。

なかなか楽しい藪山歩きでした。
このピークは三等三角点があって、点名「檜峠」でした。

さて若澤寺。
若澤寺は山中に広がる大きな寺だったが、廃寺となった際、その一部が移設されたという田村堂前に車を停めて観光ハイキング開始。

田村堂から上波田の町内を歩いてアプローチ。

山中の林道歩きとなる。樹間の光が気持ちよい。

若澤寺跡地。よく整備、保存されてます。

【山巡じじい会】鷹取山

山巡じじい会は約10回目らしい。
毎度全員が参加しているわけではなく、さらに各自の記憶が曖昧とあって、実際のところが不明なのだ。
前回は高尾山近くの草戸山。
小田原在住のわたべさんには遠かったので、今回はわたべさんにも来やすい鷹取山とした。

二階さん
「あの岩場の公園で、赤沼のクライミング眺めながら芋煮会やろう」

赤沼
「いやなんか最近クライミングは届け出制になってるらしくて面倒くさいわ。それに火気厳禁って張り紙もあるとか。そもそも酔っ払いフリーソロなんぞやってたのは超昔の話ですよ。(やってたんかい!)」

二階さん
「じゃあ草戸山のときと一緒で山歩いてから居酒屋で下山飯(酒)な」

赤沼
「だったらザックに酒いれてきて山頂で一次会やるの禁止ですよっ」

赤沼心の声
「そうは言ってもこのじいさん達絶対酒持ってくるし、なんならガスコンロと肴もでてくるよな、自分もワンカップくらいは持って行こう」

二階さんが得意の嗅覚で追浜あたりで昼飲みの出来る居酒屋情報ゲット。

そういうわけでじいさん達、東逗子駅集合で歩き出します。
雨降ってます。寒いです。
前日までは20度超えの陽気だったのに。
予報では小雨だったけど、土砂降りです。

歩き出しはまだ小雨だった。
神武寺あたりから雨が強まりだし

雨で視界が悪いけど、煙った山の斜面にところどころ桜が色を添えていて風情があります。

神武寺の鐘あたりから土砂降り

神武寺山山頂にて。
左から惣之助さん、わたべさん、二階さん。

雨でぬれた岩場が滑ります。

懐かしの岩場に到着

宴会できるところを探して彷徨います。

あの山頂の展望台で宴会できるかも。

いやだめでしょ。風が強いし、雨も吹き込んでるよ。

公園の東屋に向かったけど先客がいるよ。女性ばかりのグループみたい。
赤沼は女性ばかりの中にじいさん達が乱入して酒飲み始めるなんてあり得ないでしょと思っていたら・・・・じいさん達はさっさとお話して、場所をつめてもらってるし。このじいさん達、妙に人懐っこいところがあるのですよ。

案の定出てくるんだな。ワインボトル2本、ガスコンロ、ビール等々
ホットワインが美味い気候でしたね。

なんだか楽しそうなじいさん達

追浜に向かって下山。桜並木ですね。天気が良かったら人が多くて宴会できなかったかも。

なかなかの桜並木

そして2次会の昼飲み。

赤沼以外の3人はもうすぐ全員が後期高齢者。
この中では赤沼、若手扱いされてます。
なんだか還暦すぎてからいろいろ楽しくなってきたよ。

男社会の猿山の価値観なのかな。
極端にいうと闘いに勝たないと幸せにはならない・・・みたいに刷り込まれた部分があったとして、そこから自由になれる感覚。
グレードとか高さとか、困難とかにこだわらないほうが楽しいって、本当に思えてきた。今頃になってね。
今までだってそうじゃないつもりでいたけど、どこかで人の評価を気にしていたり。

山岳巡礼倶楽部は登攀系の山登りを中心にやってきた会ではあるけど、決して先鋭的なほうではなく、地域研究と称して辺境に通ったり、山の映画を作る部会があったりとユニークな会だったと思ってます。
大学山岳部(当時はばりばりエリートたち)が優勢な頃に設立した下町の山岳会で、自営業や職人など、独立独歩に生きてる人が多かった印象もある。
そんな自由な気風がこのじいさん達にも残っていて、その良さに自分が年とってきてやっと気が付いてきたような気がするのね。
あと何年つづくか知らんけど、10年後の山岳巡礼倶楽部100周年に向けて、ちまちまとやっていきたいな~。

雪のアルプス鎌倉街道(池尻砦~セバ谷)

「アルプス越えの鎌倉街道」は、信州(長野)と越中(富山)を結ぶ道で、とくに飛騨山脈越えの山間部についてはほぼ廃道となっていた。
長野県で教職につきながら郷土史の研究をされてきた服部祐雄氏がライフワークとしてここを探訪し、「アルプス越えの鎌倉街道」(平成21年発行)として紹介した。

「アルプス越えの鎌倉街道」は松本から梓川渓谷に沿って奈川に至り、安房山と乗鞍岳の間にある古安房峠(信濃峠または大峠)を越えて平湯、さらに北上して富山に至るもの。

松本から富山までの大まかな経路を赤線でいれてみた。

当然ながら最大の難所は飛騨山脈を越える山間部であった。
古安房峠を越える山道は、松本―高山間の最短路であり、野麦峠を越えるよりも20キロほど近いようだ。

ちょうど1年前、山奥の峠(祠峠)に廃村があると聞いて訪ねてみたのがきっかけで、この飛騨山脈越えの山間部の古道を少しずつ歩いてきた。
2回目檜峠
3回目池尻砦

残るは池尻砦から古安房峠を越えて平湯に至る部分。
アルプス越えの鎌倉街道の核心部。

前著を参考に古道を忠実に探りながら歩くのも楽しそうだが、まずはだいたいのラインでいいから歩いてしまって雰囲気を知りたい。
1年前から周辺をドライブしたり歩き回って探っていたが、無雪期はやぶをこいで奥山に踏み入る必要がある。
だったらやぶが雪に隠れた時期に行ってみるか。
3月なら雪も少しはしまってくるかな・・・・と、ちょうど1年前ラッセルに苦労したことなんぞとっくに忘れて計画した。
池尻砦から平湯まで歩くとなると水平距離でも12~13キロ程度あるので、テントと酒を持参で1泊2日ののんびりひとり山旅のつもりで出かけた。
トレースなんて絶対ないだろうから冬山装備にワカンも持参。
まあ若干荷物が重くなるが、今年最大の目標、夏の前穂高でのルート開拓山行に向けた体調調整の意味もあってあえて軽量化もせず。

沢渡バスターミナルの駐車場に車を停めて出発。
平湯からバスでここに帰ってくる作戦。

雪に覆われた林道をひざ下くらいのラッセルで進むと池尻砦手前の駐車スペース。この日は突然気温があがって、東京は20度超えだったとか。
雪が重い。

林道入口からワカンをつけっぱなし。それでも結構もぐるな~。しかも湿雪なので一度はまりこむと足がなかなか抜けないのよ。

熊やら鹿やらかな?動物の足跡が無数に交錯している中にワカンの足跡を一筋つけていく。

池尻砦まではしっかりした夏道があるので、ルートはわかりやすい。

池尻砦跡の祠。前はここまで来た。ここからがはじめての部分。
踏み跡程度はあるようだが、雪に埋もれてよくわからない。

尾根を越えると湯川沿いに林道に梓川から白骨温泉に至る車道にいったん出る。雪かきもされていて、時折車の往来もある。

湯川を渡る橋まで、舗装された車道をワカンのままカタカタと歩く。さてこの橋を渡ってからが本格的に山中となる雰囲気だ。

湯川を渡る橋
渡ってから橋を振り返る。

さて、雪かきでたまった道の端の雪を越えて橋におりるのが難関だった。
雪たまりのピーク部分からなぜか雪がリッジ状に橋まで落ちており、そこがかりかりに凍っている。踏み外せば下は岩場で谷底まで真っ逆さまとなりそうだ。
ワカンのままキックステップで何度かトライしたが怖すぎ。
ピッケルは持ってこなかったので、ステップも作れない。
あきらめてワカンをはずし、アイゼンに付け替えてこの2~3メートルを乗り越えた。
橋を渡ったらまたワカンの世界。

踏み跡程度はあるようだが、雪に覆われていてわからない。
なんとなく方角を定めながら次の目標、セバ谷に向かう。
樹林の尾根、谷を越えて行くが、それなりの傾斜もあって、腐りきった雪のなかで悪戦苦闘。
雪を踏み抜いて腰まで入るとなかなか抜け出せない。
深く入るとストックまで抜けなくなって掘り出す始末。

古安房峠までこんな山並みを延々と越えて行かねばならない。

いい加減うんざりし始めたころセバ谷にたどり着く。

セバ谷には湯川発電所の調整ダム、セバ谷ダムがある。
ウィキペディアを見ると、北アルプスの山中で道もけわしいのでその姿を見たことのあるものはほとんどいないとある。
秘境に突然現われる人工物てなところ。

雪のコンディションが悪いなか、ここまでだいぶ時間を使ってしまった。
ここから先の距離を考えると1泊装備をもってしても厳しいかなという計算。
ここから梓川までダムのメンテナンス用の道があるようなので、今回はおりようと決断した。

このメンテナンス道、かなり急な斜面につけられた強引な道らしく、ところどころワイヤーや索道が確認されるが、雪のついた状態ではただの危険きわまりない斜面。
古道が地すべりや崖くずれなどのリスクを避け、展望の楽しめる歩きやすい道筋につけられているのと対照的に思える。

雪ののった露岩や草付帯を、一歩一歩慎重におりていくと斜面の緩い尾根に出た。この尾根に沿って送電線が通っているようだ。

下に湯川渡の発電所が見えたので、そこに向かって斜面を適当にくだる。
かなり急な斜面を時折雪に埋もれて行くと湯川渡で梓川沿いの国道に合流。国道を歩いて沢渡バスターミナルの駐車場に帰って来た。約6時間の行程だった。

沢渡バスターミナル7:40am発~池尻砦9:00am~湯川の橋9:15am~セバ谷ダム11:00am~湯川渡の国道合流点11:40am~沢渡バスターミナル13:40pm

今回のトラックレコード

奈川ダムから祠峠。そこから檜峠越え。ここまでは峠に村落跡などもあり里山的雰囲気もあった。
そして今回池尻砦からセバ谷に達し、人工物たるダムなどもあるもののかなり奥山に分け入って来た感があった。
ここからが本格的な山岳地帯だ。

ところでこの本格的な奥山を通る道にはかなり古い歴史があって、古くから人が往来していたようだ。
古くは遺跡などの分布から考えて縄文時代にはすでにここらを越えての文化や物資の交換があったと推定されている。
古安房峠と同様に古くから往来されていたが、焼岳の噴火というリスクがあって避けられることもあった中尾峠は日本武尊が通ったという話も伝わる。
そして鎌倉時代に飛騨、越中との要衝の地として鎌倉街道としてこれらの古道が整備されたものと考えられる。
武田信玄は飛騨の江間攻めの際、やはりこの旧鎌倉街道を戦略的に往来し、池尻に砦を作った。

永禄2年(1559年)武田信玄は飯富、馬場、甘利の三大将に命じて安房峠(古安房峠)を越えて飛騨を攻めさせたが、安房平を中心とした山岳戦に苦労して、池尻に砦を築いた。三大将ともに武田の重臣であり、武田がどれほどこの戦いを重要視していたかが伺える。
ここはもともと池尻湿原という水の豊富な場所であり、池尻砦周辺では民家があって耕作も行われていたらしい。もちろんここに兵団も野営し、周辺には物見の基地が尾根筋にそって設営されていたという。

古安房峠の道は各時代を通して飛騨と信州の国境防衛の基地として、また交易や遊興を目的として使われてきた。
江戸時代には白骨温泉の湯治客も通ったりしていたらしい。
寛政2年(1790年)、幕府が野麦峠を主道とし、古安房峠は廃止とされた。
しかし道はその後もしばらく残っていて、ウォルター・ウェストンが明治25年(1892年)平湯から白骨温泉までこの古道を歩いたころは、道が荒れてはいるもののつながっていた様子が「日本アルプス登山と探検」のなかに記されている。

今現在。
ここは藪と樹林に覆われた奥山である。
里山の風情が残るのは、信州側ではせいぜい祠峠、檜峠あたりまで。
飛騨側はまだ歩いていないのでわからないが、古安房峠付近は飛騨山脈の一角であり里山とは言えない。
この峠を歩くことが今後の課題であるが、こんな奥山につい最近(明治くらいまで?)人の往来があり、生活すらあったことが現代人たる自分にとっては、とても不思議な感覚を覚えるところだ。

どんな人たちがそもそも、この樹林に覆われた尾根と谷の交錯する山中を踏査し、道をつけてきたのだろう?

「山の民」といったプロがいて、先導してきたのだろうか。
ウェストンを導いた猟師の嘉門次のように。

少なくとも明治以前までは山の中に「暮らし」があったように思えてしょうがない。
山は里と里の間にあって向こう側との境目。
そして親しくも近寄りがたい聖なる場所。
つい最近までそこには民の暮らしがあって、あるいはその聖なるがゆえに困難な地に、里の人々を導くプロももしかしたらいたのではないか。
そんな夢想をしながらの山旅が楽しくなってきた。

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