アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

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アルプス越えの鎌倉街道

まだ踏破してないんですが・・・・祠峠、檜峠の散策に続いて、今回池尻砦を訪ねて来たところで、中間報告がてらの長文となります。

鎌倉古道として紹介されているルートを、資料の記述に基づいて大雑把に書き入れてみたもの。

自分にとっては一連の山遊びのネタ本となる、服部祐雄(はっとり ゆうお)氏の著書「アルプス越えの鎌倉街道」に出会ったきっかけは「その辺の崖遊び」だった。(かなり飛躍はあるんですが・・・・)


地図を眺めて岩場記号を探す。
ハイカーのブログ等で写真を眺めて岩場を探す。
ドライブ中も常に山肌に視線を送り続ける。
メジャーな登山道のない地域、そして近くに岩質のよい岩場のあるあたりが狙い目だ。

これはと思う岩場があったら行って登ってみる。
そんな「その辺の崖」クライミングも、山遊びのひとつとして楽しんできた。

穂高や霞沢岳などの素敵な岩峰近くに狙いを定めて地図を眺めていて、梓湖(奈川ダム)周辺に「祠峠」という地名を見出した。なんか気になる。

岩場はないけど、マイナーエリアの山歩きも楽しいかとネットリサーチすると、そこが鎌倉街道の一部であり、かつては人家のあった廃村であるという記述があった。俄然興味が湧いてくる。
実際に歩いてみると、そこには鎌倉街道との案内板もある。崩れかけた祠もたしかにあった。

鎌倉街道って「いざ鎌倉!」のあれだよね?
鎌倉からこんなに離れた山奥に鎌倉街道?
なんでこんなところに?
なんのために?
いくつもの問いが湧きがってくる。

祠峠を訪ねた際の投稿にも書いたが、そんな問いに答えるべく調べて行くうちに服部祐雄氏の「アルプス越えの鎌倉街道」に出会い、運よく本書を入手することができた。

アルプス越えの鎌倉街道についての概要は祠峠に行った際の投稿からコピーしておく。

  • 「アルプス越えの鎌倉街道」は飛騨側の高山から平湯温泉に至り、安房峠のあたりを越えて信州側の梓川に抜けるものだった。
  • もとは生活道路だった古道を、鎌倉街道として整備したらしい。
  • いわゆる平安や奈良時代の古道のような人馬が走り抜ける広く大きな直線道とは違い、山中の踏み跡などを歩きやすくした「切通または薬研堀」という程度の整備だった。
  • 鎌倉時代には蒙古や南朝勢力も含めた日本海側に対する政治的、軍事的境界線としての意味もあったり、宗教的な境界線にもあたる警備上の重要拠点だった。また武田家も木曽攻めの際、この道を利用したとの記述がある。
  • 一方、生活道であった(らしい)この道は、急峻でしかも楽しくない谷間の地形を避け、焼岳や乗鞍岳、あるいは穂高などの展望のよい、比較的なだらかな場所を選んでいるように見える。「道中を楽しむ」という文化に支えられた道であったように思えてならない。合理主義とは違う、道の意味合いに気が付いてから、この道を辿ってみることに俄然興味が湧いてきた。

ところでこの、「アルプス越えの鎌倉街道」という本について少し書いておこう。

筆者は昭和4年、安曇村大野川に生を受けた。
つまり生家の前が祠峠や檜峠への登山口で、家の前を鎌倉街道が通っていた。
長野師範学校卒業後は、小学校教員から校長、そして安曇村教育委員長になるまで教員人生を過ごし、その傍らで長野県史や安曇村誌の編纂なども行いつつ、30年の月日を使って鎌倉街道の研究を行ってきた。とくに引退後の60歳の半ばからは「アルプス越えの鎌倉街道」というテーマに集中して道のない山中に現地踏査を重ね、同書をまとめたとある。

まさに筆者のライフワークともいえるものであるらしい。

長年にわたるライフワークの集大成であるだけに、内容は非常に濃い。
本書一章ではまず鎌倉から始まる「鎌倉街道」について論じ、関東を中心に広がる主要部分について詳述している。そしてこの踏査記は松本を越えて梓川に至る、筆者の関心エリアへと収斂していく。全編を通して本書は、ただの踏査記ではなく、歴史的考察や史実、エピソードを交えた膨大な記録集となっている。
そういうわけで、私のような「実は鎌倉街道や古道というロマンをスパイスとして、人気のない山道を歩いてみたいだけ」という穿った人間のガイドブックとしては、やや重すぎる、そして読みにくいテキストとなってはいるのだが・・

さて第二章から「鎌倉街道」は山道にわけいっていく。
その信州側の出入り口にあたるのが松本の波田町だ。

「波田町誌歴史現代編」を参照しながら、この場所の重要性について述べているくだりで、安房峠付近を越えて行くこの古道の重要性が少しずつわかってくる。
いわく、「縄文時代から梓川谷は飛騨、越中などの他国に使われた渓谷で・・・」、「鎌倉時代には街道が作られ」、「蒙古来襲のこともあったか、日本海沿岸、特に北陸地方の警備、交易を重視しているように思える」、「また宗教面では、山岳信仰はもちろんのこと、天台宗、真言宗、浄土真宗など・・・・裏日本との関係が濃厚であった」等々。
そして膨大なエピソードに彩られた踏査記を読み進むにつれ、この古道が自然災害の起こりそうなところをうまく避け、傾斜が比較的緩く、歩きやすい、しかも合理的なラインで最短距離につけられている様子が見えてくる。

旧安房峠の道筋を探索すべくこの地に何度も通った筆者が、ついに古道らしい痕跡を発見し、峠に至ったときの記録に、この古道の雰囲気、魅力がよくわかる一文があるので引用したい。

「昔の人はどうしてこんな良い場所ばかり選んで道をつけたのかな。危険な場所は完全にさけ、風をさけ、日当たりだけを選んで道をつけてある。それができない場所は上高地一円とアルプス連峰が手にとるように見える場所を選んである。全く古代人の心の豊かさを思わざるを得ない。」

いやあ!この道をトレースしてみたい!

ネットで調べていると登山ガイドの次田氏が、本書をもとに再探索したルート案内があり、同氏がガイドツアーなんかも行っているらしい。
ただ、当然のことながら本書も次田氏の案内も、それを見ればこの道が歩けるというほどのものではない。
私がここを歩く際にはGPSアプリを持ち歩いて、ルートのすべてをトラックレコード化してみたいな・・・という気持ちが湧いてきた。
GPSアプリでマイナーエリアの登山は根本的に変わりつつある。
これを嫌がる風潮も理解はできるが、そういう時代なんだからもっと気軽に歴史ロマンの山旅ができてもいいんじゃないかな~と思ったわけだ。


野次馬ロマンを道連れに、祠峠、檜峠というふたつの峠道を散策した。
どちらもそこを歩くだけで気持ちの良い道だった。

「正式に道を探索するのは無理だろうけど、とりあえず藪をこいででも旧安房峠のあたりを越えてしまおう。」ということで2日の日程をとった。
だが梅雨時とあって天候が悪くて、強行軍は無理。
この古道のだいたいの想定ルートを地図アプリに落としてよく見ると、いくつかの林道(半分以上は通行止めだったり廃道になったりはしているが)と交錯したり、並行したりして伸びている。
だったら雨でも車で四方からアプローチして、古道と交錯した部分だけでも確認することはできるのではないか?

檜峠を一緒に歩いてから古道に俄然興味の出てしまった真帆ちゃんのナビで、鎌倉街道を諸方面からアプローチしてみる。理系出身の彼女、地図アプリなんかの扱いにも詳しく頼もしいのだ。

白骨温泉からのアプローチはしばらく走ったところで通行止め。
いったん梓川まで戻り、今度は現在の安房峠に行く乗鞍スカイラインの旧道側からアプローチ。安房平あたりで古道らしき踏み跡を見つけたりとそれなりの成果。
なにより山の雰囲気がわかった。
思ったよりも山深いようだ。やぶも案外と深いぞ。
当然、熊もいるよな。

一日かけてできる限りのドライブ探索は終わり。
翌日は晴れ間が出るとの予報だったので、現地に一泊して翌日は歩いてみようとなった。

が、日が明けてみるとまたまた雨。

「もう雨具着て、傘さして歩いちゃおう!」
となって、信州側の祠峠~檜峠からの次の順路、沢渡から池尻砦への道を辿ってみることにした。

池尻は沢渡から梓川右岸の山間に入ってすぐ、池尻湿地と言われる湧出水のたまった池を中心とした小盆地。
このまわりを尾根が取り囲んでおり、信玄の時代にここに砦が築かれたらしい。ウエストンもここを通ったとの記述がある。
池尻砦については、それがどこだったのかを特定するのが困難などとも言われ、とある史家が特定したとかしてないとかの話もあって、やぶの中を歩いて近くに行ければ・・・なんて思っていたのだが、沢渡から林道に入るとすぐに立派な駐車場があり、池尻湿地~池尻砦との立派な案内版があった。

どうやらその場所はすっかり特定されて、観光開発をしようという意図もあったらしい。

駐車場から池尻湿地への案内板に従って整備された道を歩き出す。

相棒の真帆ちゃんは先日熊と遭遇。威嚇してきたところ開いた傘を向けたら逃げて行ったとか。この日も熊よけを兼ねた傘装備。

雨は降っているものの、森がしっとりとしていて新緑が鮮やか。
少し草木に覆われてはいるもののよく整備された道を歩く。

時節がら熊には最大限の警戒。熊鈴のほか「クマヲボル」という匂い袋を持参。匂い袋は濡らしたくないので、真帆ちゃんが傘の下にぶらさげたが、だいぶ匂いが強かったらしい。

鎌倉街道についての案内板。そして熊ベルがかなりの頻度で設置されている。

よく整備された道で、東屋なんかもある。

もうすっかり観光地として整備されているらしい。

池尻湿原。

池尻砦跡地に到着。祠があった。

ちゃんと案内板が設置されている。

熊対策グッズ「クマスプレー」。

帰りは池尻湿地の向こう側を歩く。

雨の中しっとり気持ちのよい道。

とにかく新緑が美しくてシャッターを押しまくり。

木道は苔で若干すべるのだ。

動画1
動画2
動画3
動画4
池尻砦のトラックレコード

アルプス越えの鎌倉街道第二弾–檜峠散策

信州、梓川沿いの山腹を、比較的なだらかな地形を辿りつつ、安房峠付近を越えて飛騨、平湯に至る古道「アルプス越えの鎌倉街道」。3月にその信州側の山道の起点となる祠峠の道を歩いた。(リンク:祠峠に鎌倉街道を想う。)

そして4月20日。今度は乗鞍スカイラインの起点付近(大野川の集落あたり)から沢渡に至る、檜峠の道を散策してきた。

雪道をラッセルして歩いた前回とうってかわり、フキノトウがそこかしこに顔をだす春いっぱいの林道を、残雪の霞沢岳や焼岳を眺めつつののどかな散策となった。

鎌倉街道、鎌倉古道などというといかめしい感じもするが、そもそもここは中世からの生活道路であったと言われる。その昔、山道を歩いて旅することが「最高のレクリエーション」だったのだろうなと想像がふくらむ。
アルプス越えの鎌倉街道の想定ルートを地形図に重ねてみると、等高線のまばらな、要するに緩やかな場所が選ばれていることにも驚かされる。そしてここは今や穂高連峰前衛の、日本を代表する風光明媚な景勝地でもあり、その道中がどれだけレクリエーショナルであったかという想像を楽しみながらの、しかし人けのまったくない静かな散策でもあった。

4月の2日間、山巡の若手女子、真帆ちゃんと八ヶ岳でクライミングを楽しむ予定だったのだが、まさかの寒さと風で転進。1日目は小川山や某秘密の岩場を渡り歩いてフリークライミング修業。でも2日続けて真帆ちゃんのフリースキルについていくのもつらいので、アルプス越えの鎌倉街道踏破を前提とした偵察行を提案。

さて檜峠。
鎌倉街道の推定ルートは祠峠から檜峠へとつづく。祠峠と檜峠の間が、今は乗鞍スカイライン上となる大野川集落。そこから沢渡に至る山道が檜峠の道。そして檜峠から沢渡の間は地図では車の通れる林道のようだ。ここを歩いて峠まで往復してみよう。

沢渡バスターミナルのちょうど向かい側あたりの林道に入る。林道に入った途端、観光バスや車の連なる喧噪を離れ静かな山となる。

林道は奥まで車で入れそうだが、今回はすぐに車を停めて歩いてみることとする。

車を停めた場所から沢渡バスターミナルを見下ろす。
山の向こうにちらっと見える白い山は霞沢岳のようだ。

しばらくは舗装された林道。

ほどなく舗装はなくなり、ダートの林道となる。

焼岳や霞沢岳が樹間に見える。

そこかしこにフキノトウが。あまりにたくさんあるので、今夜食べる分だけいただく。

多くは摘まず、写真を撮る真帆ちゃん。

この先が檜峠。

檜峠に到着。

檜峠から大野川集落方面には登山道らしき踏み跡が伸びている。道は典型的な切り通し(薬研堀)の形状となっている。これぞ鎌倉街道の特徴らしい。

登山道を少しおりたあたりから蛙らしき鳴き声が。行ってみると蛙の大群が沼地に集まり、子作りの真っ最中らしい。

なかなか騒々しい。

林道わきに車を停めての2時間強の散策だったが、残雪の山々を望みつつ、春の気配の感じられるのどかで楽しい一日だった。上高地周辺の喧噪のまっただなかにありながら静かな時間を過ごすことができたのがとても幸せに感じられた。

祠峠に鎌倉街道を想う。

3月14日、祠峠を目指して雪道を歩いてきた。
ここは鎌倉街道の一部らしい。
でも鎌倉街道ってそもそもなによ?
なんで鎌倉から離れたこんな山中に鎌倉街道?
その道どこに向かってて、どう利用されてたの?

いくつものクエスチョンマークで頭がいっぱいになる。

少し調べているうちに、「アルプス越えの鎌倉街道」という本に出会い入手した。
この本を手がかりとして関連資料を乱読、雑読するうちに、自分なりの勝手なイメージができてきた。

  • 「アルプス越えの鎌倉街道」は飛騨側の高山から平湯温泉に至り、安房峠のあたりを越えて信州側の梓川に抜けるものだった。
  • もとは生活道路だったものを、鎌倉街道として整備したらしい。
  • いわゆる平安や奈良時代の古道のような人馬が走り抜ける広く大きな直線道とは違い、山中の踏み跡などを歩きやすくした「切通または薬研堀」という程度の整備だった。
  • 鎌倉時代には蒙古や南朝勢力も含めた日本海側に対する政治的、軍事的境界線としての意味もあったり、宗教的な境界線にもあたる警備上の重要拠点だった。また武田家も木曽攻めの際、この道を利用したとの記述がある。
  • 一方、生活道であった(らしい)この道は、急峻でしかも楽しくない谷間の地形を避け、焼岳や乗鞍岳、あるいは穂高などの展望のよい、比較的なだらかな場所を選んでいるように見える。「道中を楽しむ」という文化に支えられた道であったように思えてならない。合理主義とは違う、道の意味合いに気が付いてから、この道を辿ってみることに俄然興味が湧いてきた。


祠峠は、松本から上高地を目指す途上、奈川渡ダム(梓湖)の西側にある標高1300mほどの峠。この祠峠が「アルプス越えの鎌倉街道」、信州側の山道のはじまりのようだが、「登山口?」の村がダムで水没したのがきっかけで廃道となったようだ。
その昔、峠付近に10戸ほどの集落があったが廃村となり、今は祠だけが残っているという。今でも、廃村マニアや歴史好きハイカーなんかが時折訪れているようだ。

ここを歩いてみたのは、穂高や霞沢岳などに何度も通っていたので、道中の里山を1日歩くのも一興と思ったということもある。時期的に雪山散策となった。
ちなみに、以前南側からここを目指したが、奈川渡ダム建設のために水没した集落周辺の橋と細い林道のアプローチに手間取り、駐車スペースも見いだせずに引き返している。

今回は北側からのアプローチ。乗鞍スカイラインの途上に車を停め、大野川の集落から歩き出す。

全ルートを通して重めの雪に覆われていて、ひざ下から腿くらいのラッセルでの歩きとなった。積雪、風、寒い夜、暖かい日などが続いていて、雪崩が起きやすい状況は予測できたので、樹林越しに行けなければ引き返すつもりだったが、祠峠までは大丈夫だった。それでもごく小規模な雪崩はそこかしこで起きていた。

歩いたルート
まだまだ雪に覆われた大野川の集落

大野川は「アルプス越えの鎌倉街道」の著者、服部祐雄氏の出生地でもあるらしい。

集落下の川には橋がかかっている。これを渡って行く。
橋から川を見下ろす。
道に沿って電線が伸びているが、折れた電柱もある。もちろん電気は通っていない。
約2時間半で峠に到着。祠が見えてきた。
倒れかけた鳥居
祠の前後になぜか木が。

祠の後ろはともかく、真ん前に立っている気が謎。
樹齢ってよくわからないが、あえて木の真後ろに祠は立てないだろうから、少なくともこの木の樹齢くらいは誰も祠を守ったりはしていなかったってこと?

朽ちた建物の一部?
鳥居側から見た祠
標識があった。
鳥居横にも朽ちた建物跡
峠の向こう側(南の奈川方面)

地形からして踏み跡があるようだ。凹状になっているのは、後で調べたところ、鎌倉街道の特長で薬研堀(切通)というらしい。人工的に掘って作られたものだとか。

来たルートを戻ると、車を停めた乗鞍スカイラインが見えてきた。

さて祠峠の往復はラッセルが大変だったものの4時間ほどで終了。なかなかに楽しい雪山散策だった。

【アルプス越えの鎌倉街道のルートについて】



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