アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

タグ: 下又白谷

前穂高岳第一尾根に残された旧制松本高校の足跡

2023年8月31日前穂高岳第一尾根の頭に立つ。
左が第一支稜の頭(ウエストンピーク)、右が第二尾根の頭(前穂三本槍)。

徳沢あたりから遠望できる前穂高岳山頂部


前穂高岳第一尾根と言っているが、私にとってここは下又白谷第一尾根。
山岳巡礼倶楽部の地域研究のテーマであった「下又白谷」を、1980年台に引き継ぎ、何度かの偵察や試登の後、左に見える第一尾根第一支稜を登り、「ウエストンリッジ」と名付けたのが1985年。山崎安治氏による、ウエストンの前穂高岳登頂の際の推定ルートであったのだが、山岳巡礼倶楽部のわたべ氏が疑問を持ち、その検証をも目的として登ったものだ。
ちなみにウエストンリッジと勝手に名付けて紹介はしたが、途中で残置ハーケンなどもあり、先登者がいただろうことは想像でき、「昔のクライマーはこんなところまで登っていたんだな~」と漠然とした感想を持っていた。
第一尾根は下又白谷と奥又白谷の境界となる尾根であるが、第一尾根の登攀対象となる支稜(第一~第四支稜)や側壁群はすべて下又白谷側となるため、クライマー目線ではどうしても下又白谷と感じてしまう。


第一尾根のクライミングその1(敗退編)

2023年7月29日
Climbing Journalで紹介した私の記事を読んで、ウエストンリッジを登攀したうえで連絡をくれて仲良くなった長友さんと、第一尾根を登ろうと入山した。
記録的な猛暑のなか、中畠新道を奥又白池まではいあがり、疲れ切った身体で第一尾根に向かう。ルートはまだ特定できていない。

奥又白池から真上に見える尾根。その末端が洞穴状になっている。
茶臼尾根の延長線が第一尾根であろうという判断からすれば正解のはず。
洞穴の上はハング帯なので、右壁から巻くように登っていく。

洞穴の右壁をリードする長友さん。逆相の露岩と垂直のハイマツでいやらしいクライミングとなるが、2Pで洞穴上に立つ。

この時点で全装備背負ってのいやらしいクライミングに気持ちはだいぶ萎え気味。
上部が観察できる場所まで登ってみたが、一尾根支稜群の壮絶な雰囲気と、この先のハイマツの多い尾根にやる気をそがれ(はっきり言うとびびって)、ここで撤退。
ただ洞穴のうえに、腐食しきった残置ハーケンと撚りザイルのフィックスロープを発見。いったいいつのものだろう?
ここでふと、松高の名前が頭をよぎった。
奥又白谷周辺で「松高」の名前を冠したルートがいくつかあることは周知の事実であり、またこのあたりでの松高の活躍は古い文献で読んだ記憶があったのだ。
ところで下山後、山岳巡礼倶楽部のひとまわりほど先輩の二階氏に連絡をとると、なんと第一尾根を冬期に登ったことがあるという。記憶が曖昧らしいが、1990年前後の山巡冬合宿で、茶臼尾根から第一尾根を登って前穂高岳の山頂に立ったのだという。(そのころ赤沼は山巡をいったんやめ、海外にいた。)
ちなみに松高山岳部が奥又白池の目印としていた「宝の木」についても二階さんはよく知っていて、「あの木まだあったか?」などと言う。(「宝の木」は井上靖の小説「氷壁」にも登場する。)
いったい第一尾根ってどれほどの知名度があるのだろう。
少なくとも古い山岳会の私より少し上の世代の人は、かなりの率で知っていたのではないだろうか。そんな印象を持った。

それにしても第一尾根周辺のクライミングについてはデータがない。「松高」というキーワードから少し調べてみることにした。


旧制松本高校の足跡

前穂高岳第一尾根。
この呼称を最初に使ったのはどうやら旧制松本高校山岳部だ。
松高はやがて信州大学に統合されるが、信州大学山岳部の発行した「初登攀記録」という文集では、ここが「松高第一尾根」と記載されている。

松高山岳部部報「わらぢ6号」の挿絵 (ここでは第一尾根とのみ記載されている)

旧制松本高校は大正8年(1919年)、9個目の国立高校として開設された。多くの岳人を輩出した松高山岳部がいつ設立されたかはわからないが、昭和2年(編集後期に長らく休刊になっていたとある)発行の部報「わらぢ」を見ると、すでに「奥又合宿」が行われている様子がわかる。

ところで松高山岳部が奥又を登りはじめたのは登山史上どんな時代だったのだろう? 少し調べてみた。

そもそも趣味としての登山がはじまり、ヨーロッパアルプスの未踏峰が次々と登られたのは1850年あたりから。
日本はまだ江戸時代で黒船が来たのが1854年。
1860年にイギリス公使ラザフォード・オルコックが富士山を登頂。
1872年、イギリスの冶金技師ウイリアム・ガウランドが御岳、乗鞍、槍ヶ岳などに登り、はじめて日本アルプスという呼称を使った。
そして1888-1896年にイギリスの宣教師、ウォルター・ウエストンが日本の山を登り歩き、「日本アルプスー登山と探検」を刊行。
日本では1867年が明治維新であり、その前後にかけてアルピニズムがヨーロッパから日本に持ち込まれたと言ってもいいかもしれない。

日本では小島烏水と岡野金次郎が1902年に槍ヶ岳登頂。
直後にウエストンの著書に出会い、手紙を送ったことから交流がはじまり、ウエストンの奨めを受けて1905年に日本山岳会を設立した。

日本における登山の黎明期は旧制高校や大学の山岳部が中心であったようだ。
第一次大戦(1914-1918)をはさんで一高旅行部、二高山岳会、三高山岳会、北大スキー部が設立される。
ついで1,920年台に入ると、慶應義塾大学、学習院大学、早稲田大学などに次々と山岳部が設立される。一方で日本の進歩的な岳人は本場ヨーロッパにおいて成果を上げ始める。(1921年日高信六郎のモンブラン登頂、1921年槇有恒のアイガー東山稜初登攀など)
学校山岳部はヒマラヤの高峰登山を最終目標として設定し、雪山の縦走や厳冬期登攀を目指して組織登山を繰り広げる。その結実の一つとして1930年立教大学山岳部がナンダコットの初登頂に成功する。
その一方、庶民派(社会人)クライマーもこのころから活躍をはじめる。1924年には藤木九三らがRCCを設立し、岩登りと雪山の専門的技術習得を目指す。1929年に日本登高会や登歩渓流会などが設立され、近郊でのクライミングに特化した活動も始まる。我が山岳巡礼倶楽部が設立されたのが1935年。加藤文太郎が活躍していたのもこの時期だ。
このあたりから東京の社会人山岳会を中心に谷川岳での初登攀時代に入る。

旧制松本高校の山岳部が部報「わらぢ」を再発行したのが1927年。
だがこの号を見ると、笠が岳、剣岳、白馬、赤石岳、飯豊や薬師岳などでの比較的牧歌的な縦走登山や山岳逍遥が中心であったようで、ほかの学校山岳部に比べてやや奥手な印象を受ける。

しかし松高山岳部は1932年に奥又白池を訪ねたのをきっかけに、一気にその高揚期に入ったように見える。
1936年には第一回奥又合宿(1927年発行のわらぢにも奥又合宿の記述あるが?)を行い、ここを自らの聖域とみなし始めたようだ。1937年第二回奥又合宿。そして1938年の第三回奥又合宿では四峰正面壁、北壁右岩稜などをトレースし、その熱は一気に上昇し、登攀に向かっていく。
松高でもほかの学校山岳部がそうであったように、厳冬期の岩壁登攀、そしてその先にあるヒマラヤも見据えてか、冬季の奥又に目的を絞り込んでいく様子が伺える。
もちろん彼らは積雪期における雪山技術も、知識も、ましてや冬季登攀の経験もない状態だ。すべてを一から学ぶためにどうすればよいのかを考え抜き、実行に移していく。
しかし1939年9月、冬山訓練の白馬で部員が凍死。
そして翌年3月の奥又では北壁下のV字状雪渓において雪崩にあい、二人の部員を亡くす。

やがて世界大戦を目前にした暗い時代に入り、登山活動は低迷していったようだが、1930年台後半に集中的に奥又に入って登攀を行っていた様子は伝わる。かれらが冬期登攀を前提として活動していたせいか、無雪期における登攀の様子についてはあまり記述がないが、奥又の各フェースやリッジばかりか、下又白谷上部の岩稜もほとんど登られていたのではないかとも思われる。

第一尾根はそんななかで新人訓練の場のひとつとして、夏冬を通して登られていたようだ。

そして彼らの残した資産を反映してか、松高山岳部が信州大学に引き継がれてからの初期の記録にも、第一尾根(松高第一尾根)や下又白谷側の第二支稜などを登ったとの記載がある。

前穂高岳第一尾根周辺の記録と思われる部分を、松高の「わらぢ」および信州大学山岳部の記録から抜粋してみる。

1939年12月 厳冬期奥又白合宿において恩地裕、濱口朝彦の2名が第二尾根を登攀。前穂高山頂からA沢を下山。これは北壁Aフェースなどの厳冬期登攀を目指していた彼らのアプローチルートの一部でもあり、何度か登っている様子が伺える。
1940年3月 奥又白春合宿において北村正治、久留健司の2名が第一尾根を登攀。雪のついた岩登りははじめてとの記述がある。第一尾根が3つのピークからなる様子が書かれているが、昼前には登攀を終え北尾根に行ったほかの部員を迎えに行っている。(この2日後、雪崩による遭難死事故が起きる。)
1943年7月 夏山合宿にて第一尾根ほかを登攀
1946年(?)7月 第二尾根においてザイルテクニック練習
1952年(ここから信州大学山岳部)夏合宿で第一尾根
1958年 6月奥又合宿で第一尾根 8月合宿で第一尾根 10月奥又合宿で第一尾根(10日間かけて登っている。極地法の練習だったかも)
1959年 5月奥又合宿 第一尾根 10月奥又合宿 第一尾根
1960年 5月奥又合宿 第一尾根 8月奥又合宿 第一尾根 10月秋合宿 第一尾根 2回 

信州大学山岳部となってからは、ほぼコンスタントに第一尾根が登られているのがわかる。新人のトレーニングルートとして選ばれているようにも見える。以降特筆すべき登攀のみ記載する。

1962年 10月1日 石井、小谷二名にて第一尾根ピナクルの下又白谷側の壁を登攀。この際落石によりザイル1本を切断。
1962年10月5日 松尾、板谷2名にて第一尾根第四支稜を登攀。
同日、池田、小谷2名にて第一尾根第三支稜を登攀。
さらに同日、石井、出島2名にて第一尾根から茶臼へ続く尾根(意味不明)

1962年の合宿にて第一尾根を登った部員の感想文。
第一尾根第四支稜を登った部員の感想文。
第一尾根第四支稜のルート図(注:どこを登ったのか特定困難)
第一尾根第三支稜(注:ルート特定は困難)
第一尾根第一支稜(われわれの言うウエストンリッジ)、最終部のピナクル側壁を登ったものか?

ところでさらに余談となるが、ウエストンの前穂高登頂ルートを推定した山崎安治氏は登山史の研究家として著名だが、早大山岳部の部員として、上記に近い時代に奥又白池周辺でも実際に登攀をされていた方のようだ。
第一尾根周辺も実際に登られていた可能性は十分にある。
Climbing Journal誌では赤沼が山崎説に懐疑的な論証を行ったが、案外ウエストンが本当にここを登った可能性があるのではないかという気もしてきた。
その根拠としては、A沢をはじめとする沢筋の歩きにくさ、危険さだ。
無雪期は落石を誘発しやすい急傾斜のガレ場だし、雪渓のある時期は雪渓の状態によっては非常に不安定で危険な状態となる。
ルートは案内人の上条嘉門次が決めたというのが通説だが、もしウエストンが本場アルプスでの経験に基づいたルートファインディングをしたとすると危険な谷筋よりも岩稜を選んだ可能性もあるのではないか。
山崎氏が現場を知り尽くしているのだとしたら、上記のように考えた可能性もある。


第一尾根クライミングその2(成功編)

2023年8月31日

なにはともあれ、ここまで調べたらまずは登ってみないことには始まらない。
自転車旅の途上見たというパタゴニアの名峰を登りたくて修業中の、斉藤真帆ちゃんが二つ返事でつきあってくれることになった。
彼女はついこの間ネパールヒマラヤで登山してきたばかりなのに、9月にはまたパキスタンに出かけるという。私から見たら娘世代だが、「私がいるとたいていの山登りはうまくいきますから!」と言い切る頼もしい性格(笑)。

ルートは松高や信大の記録を読みつつ検証したが、どうもこの間長友さんと登ろうとしたのは、彼らのいう第四支稜ではないかと思われた。
松高の部報にある記録では「A沢の踏替点」から取付きとある。
今回は奥又白池からA沢の踏替点まで登り、そこから岩稜にとりついてみることとした。

末端に洞穴のある尾根(たぶん第四支稜)を右岸に見ながらA沢を詰める。登攀ギアや宿泊、食料など全装備背負ってのガレ歩きはつらい。

A沢の踏替点から右岸(左側)のコルに向かうと第一尾根の取付きとなる。

第一尾根取付きのコルから第四支稜の終了点を振り返る。第四支稜を登るとこのピークに出て、歩いてここに来られるようだ。

取付きから第一尾根の全貌

手前のピナクル左を通って、ハイマツと露岩の岩登りとなる。左に広がるのは第二~第三支稜を含む垂直の岩壁帯。凄絶な眺めだ。

第一尾根取付きからの360度動画

1P目(45m)
ピナクルを左から巻き込むように登り、ピナクル上のテラスまで。ピナクル横の傾斜の強い岩壁が脆くて緊張する。

ピナクルを越える。

ピナクルからさらにハイマツと露岩のミックス壁をテラスまで。

テラスから取付きを振り返る。
右に伸びるのが第四支稜と思われる。

このテラスにはがっちりと効いた残置ハーケンがあった。まだ十分に使えるレベルで、そんなに昔のものとは思えない。

2P目30m

テラス上の急な岩登り。脆さ、技術面ともにここが核心。ハイマツをつかんで小ハング上にはいあがると傾斜が落ち、体力を消耗するハイマツ登りとなる。
ハイマツ帯のなかでピッチを切る。

3P目 25m

また傾斜の強い岩登り。

第一尾根からA沢対岸の第二尾根。尾根上に二つの大きなピークが確認できる。終了点が前穂三本槍。その右手に前穂高岳山頂が見える。

4P目 45m

岩登り少しで傾斜の落ちたハイマツ帯に入る。ぜいぜい言いながらハイマツを漕いでいくと傾斜が落ちてルートは終了。あとは歩いて第一尾根の頭へ。
出だしに大きな浮石があり、ロープがあたらないよう処理しながら登る。

終了点から奥又白池を振り返る
おまけの動画「ハイマツで疲れ切った真帆ちゃん」
ルート終了点になぜかリングボルト

ルート終了点からアプローチシューズに履き替えて第一尾根の頭へ。

第一尾根の頭
第一尾根第三支稜側の岩壁
第一支稜の末端を巻き込むように歩いていくと、A沢の下降点。本日はここでツエルトビバーク。風は強いが快適な空間だった。
はじめてのビバークにしてはちょっと快適過ぎたらしい。
夜、明るいと思ったらこの日は今年最大のスーパーブルームーンだったらしい。月に照らし出される第一支稜の頭(ウエストンピーク)とオリオン座。

データ:

2023年8月31日 赤沼正史、斉藤真帆
上高地 0510am – 徳沢0700am – 奥又白池1000am – 第一尾根取付き1150am – 第一尾根終了点1430pm – 第一尾根の頭1500pm – A沢下降点(ビバーク地)1515pm
9月1日前穂高岳山頂経由で、重太郎新道下山

登攀具:ロープ50m ダブル1本、カム1セット、ハーケン(残置以外は使用せず)、シュリンゲ、カラビナ適宜

奥又白池からA沢下降点までのトラック






前穂高岳・下又白谷山巡稜下部フェース(F1左壁)

57年前(1965年)の8月に山岳巡礼倶楽部の先輩たちが登った山巡稜を再登しようと出かけた。

山巡稜は下又白谷下部本谷のF1手前の左壁(右岸岩壁)から、ひょうたん池に至るリッジで、下部はF1左壁のいやらしいスラブ壁を攀じ、上部はやぶ尾根を登ったものと思われる。

このルートは昭和37年(1962年)から昭和40年(1965年)にかけて、倶楽部をあげて行った下又白谷研究の一環として登られたもの。
山岳巡礼倶楽部の会報「GAMS」30周年記念号に掲載された記事に、1965年8月7日から8日にかけてこの山巡稜を登ったとの記載がある。
この時、「人間が見ることが出来なかった下又白谷の全貌が明らか」となり、「茶臼菱型岩壁、菱型右方ルンゼ(筆者注:今は菱型ルンゼと呼ばれている。)の発見」をし、さらに下部本谷の壮絶な滝群に目を瞠り、今後の研究テーマとしたようだ。

山巡稜下部フェース(F1左壁)の登攀は悪戦苦闘の連続だったようで、1965年8月7日はF1の落口と同高度の広いテラスまで登り、ロープをフィックスしたベースキャンプに戻り、翌日8日に途中まで「投げ網やザイルシュリンゲ等を使って登り切った」が、「そのうえは何一つないテラテラスラブに行手をはばまれ」、「アイスピンを打ち込」んでザイルトラバースのすえ、「モロくなった岩角をたよりに、リッジを廻り込んで、ガリーに入り」灌木帯に入ったとある。

さて山巡稜の再登計画である。
下又白谷にはだいぶ通って、下部本谷、F1洞穴ルート、菱型ルンゼ菱型スラブ(各スラブ合計3本)上部一尾根第一支稜(ウエストンリッジ)下又白谷奥壁と登ってきた。だが山巡稜はいやらしい露岩とかったるいヤブ尾根というイメージがあって、なかなか食指が向かなかった。

でもここまでくると、あの立ち位置から下又白谷下部本谷や上部の岩壁群を眺めてみたい。なにせ下又白谷登攀の歴史はここから始まったといってもいいのだから。

そういうわけで重い腰をあげた。
パートナーはひとまわり以上若い友人、長友さん。
赤沼のウエストンリッジの記録を読んで同ルートを登ったうえで連絡をくれた。意気投合して最近いくつかのクライミングを共にし、そして今では貴重なパートナーとなった。
やぶ上等、脆壁上等の頼もしいクライマーだ。
不運な事故で右手をつぶしてしまい、まだ治療中。でも登りたいらしい。なら行っちゃおう。

登ったのは2022年10月15日土曜。
長友さんは帰りのバスに間に合わなくても宴会ができるよう、上高地にテント、食料、酒をデポして行こうと主張したが、赤沼は「山巡の先輩が1960年台の装備と技術で登ったルートだよ。半日で終わって帰れるんでない?」と・・・つまり荷物軽くしたいのと、かなり甘く見ていたこともあるわけですな。

登攀具とお弁当だけ持って下又白谷本谷からF1へ。
ないだろうと踏んでた雪渓はまだ少し残っていた。

どうどうと水流を落とす大迫力のF1。その上の、左方向に伸びるスカイラインが山巡稜。つまりF1の左壁のどこかを登らなければこの稜には乗れない。

さあどこから取付くか。

F1左壁(この上のやぶ尾根にたどり着きたい)

赤沼はF1を過去に数回越えている。いずれも下部本谷や菱型スラブ、菱型ルンゼなどへのアプローチとしてだ。
雪渓の状態次第で、毎回ルートが異なる。
雪渓のない時期は左の岩壁を適当に登って、F1落ち口までバンドを拾ってトラバースをしていくのが良策。山巡稜に取付くにはF1落ち口の手前あたりから直上して藪に入ればいいだろう。

雪崩で磨かれたスラブは比較的硬いが、傾斜の緩いところはすべて土砂が堆積していて足場がない。
ごまかしごまかし無理矢理登っていく。見た目よりずっと悪い。
土砂の堆積したバンドをトラバースして弱点を探す。弱点とはいえ、垂直部をいくつか越えないと上には行けない。スラブ状の岩にはカムはあまり使えず、ところどころハーケンでプロテクションをとっていく。
うすかぶりのスラブを越していくと、見覚えのある洞穴がすぐ上にある。赤沼がはじめてこの壁を越えたときに拓いたルート(F1洞穴ルート)に、また寄ってきてしまったらしい。(写真上のハング下が洞穴状のテラスとなっている。)

洞穴ルートを拓いた際にはこの上のスラブで行き詰り、かなり怖い思いをしている。そこだけは避けたい。

1ピッチ目をフォローする長友さん。
傾斜の緩いところには土砂が堆積しているので、ホールド、スタンスは掘り出しながら登る。

2ピッチ目。
さて洞穴は避けたい。右のスラブは傾斜がきついが、岩はよく磨かれていて硬い。難しいフリーになるかもしれんが突っ込んでみるか・・・と、ボルト工作をはじめてみる。バランスをとるためにハーケンの先だけ浅いリスに打ち込んで、タイオフでビレーをとるが、ほとんど効いてない。

打ちながらこの上の様子を見るが、てらてらのスラブ上ではボルトは打てまい。次の支点がとれそうなところまで10mはランナウトするな~

ちと怖気づいて、ボルト工作は中止。
しょうがないので洞穴を目指す。

洞穴下までトラバースをしたはよいが、ここかぶってるね。
ハーケン1本効かせて突っ込むがかなり難しい。
ハイステップでやっと立ちこんだ足と岩の間にシュリンゲが入ってしまって、一瞬パニくりそうになったが、なんとか立て直し洞穴に突入。ほっ。

3ピッチ目。
洞穴はハングになっているので、右を越えるか、左を越えるか。
前回は左を行って大変な思いをしたと記憶している。
迷わず右へ。

と言っても右もかぶったフェースを越えないとその上のスラブには入れない。

ここもハーケン1本効かせて、フリークライミングちっくなムーブでスラブに立ちこむ。

なんとかスラブに入ったが、スラブと言ってもこの傾斜。
上に見えてるのが洞穴の屋根。つまりオーバーハング。

洞穴上のスラブを登って、F1落ち口につながるバンドに出た。
写真は洞穴上のスラブをフォローする長友さん。

F1左壁(前壁)の悪絶ぶりが感じられる写真をもう一枚。長友さんがまもなくバンドにつくところ。

3ピッチ目終了点でビレーする赤沼。
赤沼の真後ろがF1の落口。
ここからF1に行かず直上して上部のやぶ尾根に入ろうという作戦。

3ピッチ目終了点にはリングボルトが2本残置されていた。
自分が昔打ったものか、57年前のものか、それとも誰かが来たのか。
このほかにもかな~り昔風のハーケンやらボルトもあった。

4ピッチ目。
F1にはいかず、真上のやぶ尾根を目指し直上。
傾斜は強いがもうすぐ岩場はおしまいなので、気合を入れて行く。

最後の部分がどこを見てもかぶっている。
右のリッジをのぞき込むがやばそうなので、灌木のある真上を目指す。

このあたりがルート中最難。
このあとピッチの最後は灌木が1本あるハング。
持ってきたあぶみをかけたくなるが、この灌木が唯一の支点なのでフリーで頑張って小テラスへ。もうすぐそこがやぶ尾根だ。

4ピッチ目終了点。やぶ尾根はもうすぐそこ。

だが、だが、だが!

なんと赤沼がどこかで携帯を落としたことに気が付いた!
3ピッチ目終了点ではカメラとして使ったので、落としたのはこのピッチだ。

時刻はもう午後1時をまわっている。
ここまでは緩いラインでも探して朝のうちに来るつもりだったんだが・・・

「長友さん、ごめん!ここから降りていい?」
「いや~実は手の傷も痛み始めてるし、でもこちらから降りようとは言えなかったっす」

みたいなやりとりがあって下山確定。

携帯は3ピッチ目終了点あたりのブッシュで発見。無傷でした。

すごすごと懸垂下降

そんなわけで、山巡稜のトレースはならず。

でもかなり楽しい4ピッチの登攀だった。
いや山巡のじいさんたち(先日メンバーのひとりは亡くなった・・・・てか登った当時は若者だった)やるね~
というかこっちが今現在、彼らが登ったころよりずっとじじいじゃん。

もっとも57年前の登攀は8月なので、壁の半分くらいは雪渓が達していたかもしれないし、どのラインを登ったのかは結局よくわからなかった。

さて。われわれの登ったラインだが、途中にハーケンやらボルトの残置もあり、自分自身も含めて登っているのはたしかで、もちろん初登攀とかではない。

ただ岩登りのルートとしてはかなりユニークな特性を持ったものだとは思う。

まず美しく壮麗なF1の存在を常に感じられる登攀であること。
前壁や対岸の岩場の凄絶としか言いようのない迫力もまたひとつのエッセンスと言える。

そんなわけで岩登りのルートの一つとして(敗退記録としてではなく)紹介しておきたいとは思う。

上は長友さんが書き込んでくれたルート概要。
全4ピッチで各ピッチに最低一か所ずつ傾斜の強いうすかぶりスラブ壁があり、ネイリング技術、ルーファイ力、それになんとかごまかして登る突破力が必要とされる。(クライミング力とは言わないところがみそね・・・へへ。)

帰りの道中、グレードについて話し合った。
クライミングのグレードって主観以外ではありえない。
フリークライミングでよく使われるデシマルグレードは「ムーブ」だけを評価したものだと聞いた。

それって、今回のようなクライミングでのグレード評価にはなじまないよね。次登る人がいて、そんなグレードには何も伝えるところがないし。

じゃあグレードに怖さとか、ネイリング技術とか、ごまかし方?とか、脆さとかの要素を加味していいの?

てなわけでぐだぐだと話し合った結果、「全ピッチに最低一か所は5.9-5.10のムーブはあるし、4ピッチとも全部6級ってことでいいんじゃね?」てなところに落ち着いた。

誰か登って「4級しかね~よ」と言われても反論はしません。でも気を付けて登ってね~

使用ギアは:
ハーケン、アングル、薄刃など多数(懸垂用以外は回収)
ボルト使用せず
カム、1セット弱持参し使ったが全体に効きは甘い
残置ボルト、ハーケン等見つけたものは使用
50メートルダブルロープ2本
4ピッチに約4時間かかった。

穂高・下又白谷菱型スラブについて

手元の山日記では、下又白谷菱型スラブの初登攀をしたのは1980年8月2日となっている。
当時、日本での岩登りといえば、第二次RCC著となる「日本の岩場」というルート図集が唯一体系的な情報であり、下又白谷の項には黒びんの壁と菱型岩壁のみが掲載されていたと記憶する。(黒びんの壁はJECCによりR1, R2などと紹介されていた。別称、下又白壁または白又白壁とも言われる。)
菱型岩壁はその中でももっとも登攀の困難な岩壁のひとつとされていた。
下又白谷は穂高のなかにあってもっとも急峻な岩壁に囲まれたエリアであることは事実であるが、「日本の岩場」における、菱型岩壁に関するおそろしげな記述も、下又白谷=悪絶というイメージに貢献していたかもしれない。

山岳巡礼倶楽部、わたべゆきお氏作成の菱型岩壁周辺写真

さて、わたべ氏が目をつけた菱型岩壁左のスラブ帯の登攀は、それまで下又白谷の地域研究に取り組んできた山岳巡礼倶楽部の1980年夏合宿のテーマの一つとなっていた。

以下、手元のノートから記録を転載する。

1980年8月1日
わたべ氏と徳沢入山

8月2日
下又白谷F1洞穴ルート開拓~F2~菱型ルンゼ~菱型スラブ下部開拓~壁内でビバーク

下又白谷本谷の遡行をするつもりで徳沢より入山。
F1前壁JECCルートはとらず直登ルートを作るべく、JECCルートより右のバンドに取付く。非常に悪いフリー2P(Ⅴ+)を加えた5-6Pで終了。F1上に立つ。ボルト2本、ハーケン約10本使用。
F2を2Pのフリーで越え菱型ルンゼにはいる。
菱型岩壁の左側に展開する3本のスラブへの登攀を試みる。フェース2P終了後、Ⅲ~Ⅳ級のスラブを10Pほど攀り、Ⅴくらいの草付き交じりの岩場を超える。そこで暗くなったので1本の灌木にまたがってのビバーク。水なしのつらいビバーク。

8月3日
ビバーク地上部の草付き(Ⅴ+)を登り、ルートの概念をつかむ。
スラブは3本あり、右寄り1スラブ、2スラブ、3スラブと名付ける。登ってきたのは1,2スラブの中間リッジとなる。2スラブはビバーク地点あたりで傾斜を増し、垂直となっていたので中間リッジに逃げたのだ。
ビバーク地点からは2スラブにおりず、草付き帯を行く。さらに約10Pで登攀終了。はいまつの藪漕ぎで茶臼の頭に至り、奥又経由で徳沢に下山。

赤沼の山日記より

この後、8月5日には下又白谷正面壁中央稜を途中まで登っている。

1980年のルートは山巡ルートとした。この図は「岩と雪」誌に掲載したもの。

さらに翌年1981年の夏合宿で、第2スラブの直登ルートおよび第3スラブの初登攀を行っている。

1981年8月8日
屏風岩を登っていた赤沼、津賀は徳沢に移動。今日入山してきたわたべ、小野寺、赤塚、宮本と合流。

8月9日
全員で下又白谷F1偵察。
雪が多くF1は右端を楽に登れる。フィックスも発見。バンド上に1P新しいルートを伸ばす(注:意味不明)

8月10日
わたべ、赤沼、津賀、赤塚で下又白谷菱型スラブ2スラブを初登攀。山巡ルート開拓の際逃げたルンゼを直上して2スラブに入る。このピッチはⅥ級以上あった。

小野寺、宮本で3スラブを初登攀。
(注:こちらも「岩と雪」誌に掲載したはずだが見つからず)

赤沼の山日記より

下又白谷菱型スラブ山巡ルート開拓についての、わたべ氏の記事も紹介しておく。これは山巡の新人募集冊子に掲載したもの。

◎ 穂高岳下又白谷下部菱形スラブ初登攀(抄)
            わたべ ゆきお

・・・・時刻は八時になっていた。ライトを出しビバークの準備を始めるが、ビレーをしていた所は、二人がしゃがみこむにはあまりに狭すぎるので、細いリッジを五mほど下った所に場所を見つける。ブッシュとブッシュの間にもぐり込むようにして、坐り込み身体をブッシュにくくりつける。私たちがはい上がってきたのとは反対側にもルンゼ状のスラブ(第一スラブ)が走っており、そこまではすっぱりと切れている。リッジの上方はブッシュを混じえた露岩がかぶさっており、下方もブッシュのついた鋭いリッジで、すぐ空間に消えている。つまりは、四方がすべて急峻であって、平らな所はどこにもない。ここまできては、もう下降は考えられず、登り切るしかないのだが、どうなることやら・・・・。
曇天のせいかそう気温は低くないようだ。私は軽羽毛服を取り出し、下半身だけシュラフカバーに沈める。ツェルトはちょっと使える場所ではないし、雨でも降らない限りはいらないだろう。空腹感はそれほど覚えはないが、水のないのが何よりもつらい。
赤沼が「横尾の灯が見える」と言ったのは、横尾ではなく、徳沢だった。夜の森の中にポッカリと徳沢園や天幕たちの明かりが、みじめなビバークの私たちの目の下にあって、それはまるで幸福の定義そのものだ。清冽な水があふれ、ビールやウィスキーのボトルが並び、歌声がしみ出し、それに時折り少女たちの歓声が混じり、花火だって上がるかもしれない。だが、私たちは・・・・。
足先の方が下っているので、ともするとずり落ちて行く。
「上の方も悪いですよ・・・」赤沼が不安を隠さずにいう。さらに、冗談とも本気ともつかずに「これをいい機会に山なんかやめようかな・・・」ともいいだす。「山をやる理由なんかないんだ。別に山でなくても・・・・」
私はいうべき言葉を持たず、ひたすら少しでもマシな体位を求めてセッセと身体を動かす。いままでのいくつもの経験で、意志と、時間と、そして・・・・そういったものが、すべてを解決してくれるのだ。昭和残侠伝(唐獅子牡丹)の高倉健だって、修羅場をいくつもくぐり抜けて立派なヤクザ屋さんになっていったのだ。またフランスのおじさん(サルトル)は「経験には死のにおいがする」といったし、「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それこそが、賭ける者、戦う者の宿命と名づけられるべきなのだ」とは寺山修司の競馬エッセイによく引用されるウィリアム・サローヤンの言葉だ。要は、運のいい男には人生の終わりよりもルート・登攀の終わりの方が先にやってきて、運が悪ければ、平田や上村のように激しく短い生を終えて夜空輝くお星さまになれるのだ。
夜半、月明かりで目が覚める。半分にも満たない欠けた月だったが、それでも人っ子一人いないこの下又の岩の大伽藍を銀色に浮び上らせるには十分だ。それまで、私は夢の中なのか、それとも実際に身体がずりお落ちたのか、何度も墜落感を覚えてギクっとした。光速でもってブラックホールの中に、私の幼児期の混濁した意識の海の暗黒の中に、収束していくような、ひどくメタフィジカルな、パスカルの深淵のような、メチャクチャ冷汗感覚。
——朝は、もう今すぐくるべきなのだ。
私のビバーク。私の《山》。五彩のトキ。—–心配無用の日々だけがあって、鋭さを持たぬために、瞳孔はやや開きかげんで、抒情は水分を失い、鮮やかな色彩も、急激な気温の変化も、熱すぎる眼差しも危険すぎる街での曖昧なゼリー状のトキ——こいつらを束ねて葬り去るのが、私の《山》でのトキ—–だ。
ようやく、私たちにプレゼントされた夜明けは、重そうな鉛色をしたそれだった。蝶や大滝の稜線には、「ネズミの心はネズミ色、悲しい悲しいネズミ色」の雲たちがザブリとかむさっていた。だが、アリスの歌にもあるように「狂った果実には、青空は似合わない・・・・」(狂った果実)のであって、空が泣き出す前にと、早々に腰を上げることにする。五時だった。
出発前に、昨日の残りのパンとビスケットの一かけらを口に放り込んでみたが、全然唾液がわいてこず、とても喉を通るものではなかった。どんな極上のワインやコニャックよりも、今は《水》だ。私たちのすぐ背後のはずの奥又の池まで行けば、岩の間からしみ出す冷たく甘美な水が涼し気な音を立てているのだ。
赤沼、トップで目の前のブッシュの付いた露岩に取付く。やや、かぶさっており、悪い。彼はその三m程をかち取ると、リッジ上を直上するのではなく、左へとブッシュの中をトラバースして行った。二十m。私がこのブッシュでうるさく、腕力を酷使するピッチを終えてトップの所まで行くと、もう容易とのことだった。すぐ左側には、私たちが突破すべきだったルンゼの涸滝落口が見え、下からは全く予想もし得なかったルンゼ状スラブが真直ぐにのびている。難しそうには見えないが三~四ピッチはあろう。今となってはリッジに逃げてしまったことが悔まれる。
ブッシュを再びリッジ上へ登ると、易しい岩稜となった。左に第二スラブ、右に第一スラブを眺めての登攀である。第一スラブの方が二スラよりも急峻で、よく磨かれていて美しい。登攀自体も難しいだろう。第一スラブはピナクル状の小岩峰で二股になっており、右が本流で菱形岩壁の頭の裏側方面へとのびている。
階段状のリッジを登ると、畳二枚分程の完璧に平らなテラスに出た。ここでビバークをしていれば、二人で楽に横になって寝られたはずだ。ここから目の前の快適な岩稜を三十m程登り、このリッジがピナクル状になる手前で、右に出て、第一スラブの左股ともいうべき小さなルンゼのつめの中に入る。もうすでにここは草付で、さらに草付とブッシュの中を百mくらいも登ると、茶臼の頭へと続く頂稜に出て、広大な下又白谷の上部と前穂の東壁等が望まれた。私たちの待望の、本当の終了点—–そいつが今、私たちの足の下になったのだ。ルート選定には悔まれる点が残ったとはいえ——注:翌年(1981年)第二スラブルートの初登に成功した—–、未踏の、本谷F1の手前から数えれば、二十ピッチを越える私たちの、私たちだけにしか見えない一本のラインがくっきりと引かれたのだ。
一秒でも早く、甘やかな、ココロの内側にまでしみ込んでくるであろう《水》に到達するために、ザイルだけを巻くと、すぐにうるさく繁茂したハイ松の中を池を目指して歩き出した。茶臼の頭は指呼の間に望まれるのだが、踏跡の全くないハイ松こぎには辟易させられる。時折、ハイ松がジンの香りとして強く香る。バテバテになりながら、茶臼の頭には出ずに、トラバースの藪こぎをして、直接池から下又白谷への下降点になるコルに出た。いつもの柔和な面をたたえた奥又白池と人間たちのにおいのつまった天幕たちが眼に飛び込んでくる。私たちは水場に直行し、前穂の私たちに対する友情あるいは好意ともいうべき珠玉の水に口づける。We could drink a pond of water!だったのだ。「生きて帰れた!」などとジョークをいいあい、赤沼と完登の握手をかわす。朝の九時だった。
ビール壜百万本ほどの水を飲み終えると、私たちは雨の降りだした中畑新道を徳沢のウィスキーのもとへと幸福な気持ちで下って行った。

山岳巡礼倶楽部入部のしおりより

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén