アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

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前穂高岳・下又白谷山巡稜下部フェース(F1左壁)

57年前(1965年)の8月に山岳巡礼倶楽部の先輩たちが登った山巡稜を再登しようと出かけた。

山巡稜は下又白谷下部本谷のF1手前の左壁(右岸岩壁)から、ひょうたん池に至るリッジで、下部はF1左壁のいやらしいスラブ壁を攀じ、上部はやぶ尾根を登ったものと思われる。

このルートは昭和37年(1962年)から昭和40年(1965年)にかけて、倶楽部をあげて行った下又白谷研究の一環として登られたもの。
山岳巡礼倶楽部の会報「GAMS」30周年記念号に掲載された記事に、1965年8月7日から8日にかけてこの山巡稜を登ったとの記載がある。
この時、「人間が見ることが出来なかった下又白谷の全貌が明らか」となり、「茶臼菱型岩壁、菱型右方ルンゼ(筆者注:今は菱型ルンゼと呼ばれている。)の発見」をし、さらに下部本谷の壮絶な滝群に目を瞠り、今後の研究テーマとしたようだ。

山巡稜下部フェース(F1左壁)の登攀は悪戦苦闘の連続だったようで、1965年8月7日はF1の落口と同高度の広いテラスまで登り、ロープをフィックスしたベースキャンプに戻り、翌日8日に途中まで「投げ網やザイルシュリンゲ等を使って登り切った」が、「そのうえは何一つないテラテラスラブに行手をはばまれ」、「アイスピンを打ち込」んでザイルトラバースのすえ、「モロくなった岩角をたよりに、リッジを廻り込んで、ガリーに入り」灌木帯に入ったとある。

さて山巡稜の再登計画である。
下又白谷にはだいぶ通って、下部本谷、F1洞穴ルート、菱型ルンゼ菱型スラブ(各スラブ合計3本)上部一尾根第一支稜(ウエストンリッジ)下又白谷奥壁と登ってきた。だが山巡稜はいやらしい露岩とかったるいヤブ尾根というイメージがあって、なかなか食指が向かなかった。

でもここまでくると、あの立ち位置から下又白谷下部本谷や上部の岩壁群を眺めてみたい。なにせ下又白谷登攀の歴史はここから始まったといってもいいのだから。

そういうわけで重い腰をあげた。
パートナーはひとまわり以上若い友人、長友さん。
赤沼のウエストンリッジの記録を読んで同ルートを登ったうえで連絡をくれた。意気投合して最近いくつかのクライミングを共にし、そして今では貴重なパートナーとなった。
やぶ上等、脆壁上等の頼もしいクライマーだ。
不運な事故で右手をつぶしてしまい、まだ治療中。でも登りたいらしい。なら行っちゃおう。

登ったのは2022年10月15日土曜。
長友さんは帰りのバスに間に合わなくても宴会ができるよう、上高地にテント、食料、酒をデポして行こうと主張したが、赤沼は「山巡の先輩が1960年台の装備と技術で登ったルートだよ。半日で終わって帰れるんでない?」と・・・つまり荷物軽くしたいのと、かなり甘く見ていたこともあるわけですな。

登攀具とお弁当だけ持って下又白谷本谷からF1へ。
ないだろうと踏んでた雪渓はまだ少し残っていた。

どうどうと水流を落とす大迫力のF1。その上の、左方向に伸びるスカイラインが山巡稜。つまりF1の左壁のどこかを登らなければこの稜には乗れない。

さあどこから取付くか。

F1左壁(この上のやぶ尾根にたどり着きたい)

赤沼はF1を過去に数回越えている。いずれも下部本谷や菱型スラブ、菱型ルンゼなどへのアプローチとしてだ。
雪渓の状態次第で、毎回ルートが異なる。
雪渓のない時期は左の岩壁を適当に登って、F1落ち口までバンドを拾ってトラバースをしていくのが良策。山巡稜に取付くにはF1落ち口の手前あたりから直上して藪に入ればいいだろう。

雪崩で磨かれたスラブは比較的硬いが、傾斜の緩いところはすべて土砂が堆積していて足場がない。
ごまかしごまかし無理矢理登っていく。見た目よりずっと悪い。
土砂の堆積したバンドをトラバースして弱点を探す。弱点とはいえ、垂直部をいくつか越えないと上には行けない。スラブ状の岩にはカムはあまり使えず、ところどころハーケンでプロテクションをとっていく。
うすかぶりのスラブを越していくと、見覚えのある洞穴がすぐ上にある。赤沼がはじめてこの壁を越えたときに拓いたルート(F1洞穴ルート)に、また寄ってきてしまったらしい。(写真上のハング下が洞穴状のテラスとなっている。)

洞穴ルートを拓いた際にはこの上のスラブで行き詰り、かなり怖い思いをしている。そこだけは避けたい。

1ピッチ目をフォローする長友さん。
傾斜の緩いところには土砂が堆積しているので、ホールド、スタンスは掘り出しながら登る。

2ピッチ目。
さて洞穴は避けたい。右のスラブは傾斜がきついが、岩はよく磨かれていて硬い。難しいフリーになるかもしれんが突っ込んでみるか・・・と、ボルト工作をはじめてみる。バランスをとるためにハーケンの先だけ浅いリスに打ち込んで、タイオフでビレーをとるが、ほとんど効いてない。

打ちながらこの上の様子を見るが、てらてらのスラブ上ではボルトは打てまい。次の支点がとれそうなところまで10mはランナウトするな~

ちと怖気づいて、ボルト工作は中止。
しょうがないので洞穴を目指す。

洞穴下までトラバースをしたはよいが、ここかぶってるね。
ハーケン1本効かせて突っ込むがかなり難しい。
ハイステップでやっと立ちこんだ足と岩の間にシュリンゲが入ってしまって、一瞬パニくりそうになったが、なんとか立て直し洞穴に突入。ほっ。

3ピッチ目。
洞穴はハングになっているので、右を越えるか、左を越えるか。
前回は左を行って大変な思いをしたと記憶している。
迷わず右へ。

と言っても右もかぶったフェースを越えないとその上のスラブには入れない。

ここもハーケン1本効かせて、フリークライミングちっくなムーブでスラブに立ちこむ。

なんとかスラブに入ったが、スラブと言ってもこの傾斜。
上に見えてるのが洞穴の屋根。つまりオーバーハング。

洞穴上のスラブを登って、F1落ち口につながるバンドに出た。
写真は洞穴上のスラブをフォローする長友さん。

F1左壁(前壁)の悪絶ぶりが感じられる写真をもう一枚。長友さんがまもなくバンドにつくところ。

3ピッチ目終了点でビレーする赤沼。
赤沼の真後ろがF1の落口。
ここからF1に行かず直上して上部のやぶ尾根に入ろうという作戦。

3ピッチ目終了点にはリングボルトが2本残置されていた。
自分が昔打ったものか、57年前のものか、それとも誰かが来たのか。
このほかにもかな~り昔風のハーケンやらボルトもあった。

4ピッチ目。
F1にはいかず、真上のやぶ尾根を目指し直上。
傾斜は強いがもうすぐ岩場はおしまいなので、気合を入れて行く。

最後の部分がどこを見てもかぶっている。
右のリッジをのぞき込むがやばそうなので、灌木のある真上を目指す。

このあたりがルート中最難。
このあとピッチの最後は灌木が1本あるハング。
持ってきたあぶみをかけたくなるが、この灌木が唯一の支点なのでフリーで頑張って小テラスへ。もうすぐそこがやぶ尾根だ。

4ピッチ目終了点。やぶ尾根はもうすぐそこ。

だが、だが、だが!

なんと赤沼がどこかで携帯を落としたことに気が付いた!
3ピッチ目終了点ではカメラとして使ったので、落としたのはこのピッチだ。

時刻はもう午後1時をまわっている。
ここまでは緩いラインでも探して朝のうちに来るつもりだったんだが・・・

「長友さん、ごめん!ここから降りていい?」
「いや~実は手の傷も痛み始めてるし、でもこちらから降りようとは言えなかったっす」

みたいなやりとりがあって下山確定。

携帯は3ピッチ目終了点あたりのブッシュで発見。無傷でした。

すごすごと懸垂下降

そんなわけで、山巡稜のトレースはならず。

でもかなり楽しい4ピッチの登攀だった。
いや山巡のじいさんたち(先日メンバーのひとりは亡くなった・・・・てか登った当時は若者だった)やるね~
というかこっちが今現在、彼らが登ったころよりずっとじじいじゃん。

もっとも57年前の登攀は8月なので、壁の半分くらいは雪渓が達していたかもしれないし、どのラインを登ったのかは結局よくわからなかった。

さて。われわれの登ったラインだが、途中にハーケンやらボルトの残置もあり、自分自身も含めて登っているのはたしかで、もちろん初登攀とかではない。

ただ岩登りのルートとしてはかなりユニークな特性を持ったものだとは思う。

まず美しく壮麗なF1の存在を常に感じられる登攀であること。
前壁や対岸の岩場の凄絶としか言いようのない迫力もまたひとつのエッセンスと言える。

そんなわけで岩登りのルートの一つとして(敗退記録としてではなく)紹介しておきたいとは思う。

上は長友さんが書き込んでくれたルート概要。
全4ピッチで各ピッチに最低一か所ずつ傾斜の強いうすかぶりスラブ壁があり、ネイリング技術、ルーファイ力、それになんとかごまかして登る突破力が必要とされる。(クライミング力とは言わないところがみそね・・・へへ。)

帰りの道中、グレードについて話し合った。
クライミングのグレードって主観以外ではありえない。
フリークライミングでよく使われるデシマルグレードは「ムーブ」だけを評価したものだと聞いた。

それって、今回のようなクライミングでのグレード評価にはなじまないよね。次登る人がいて、そんなグレードには何も伝えるところがないし。

じゃあグレードに怖さとか、ネイリング技術とか、ごまかし方?とか、脆さとかの要素を加味していいの?

てなわけでぐだぐだと話し合った結果、「全ピッチに最低一か所は5.9-5.10のムーブはあるし、4ピッチとも全部6級ってことでいいんじゃね?」てなところに落ち着いた。

誰か登って「4級しかね~よ」と言われても反論はしません。でも気を付けて登ってね~

使用ギアは:
ハーケン、アングル、薄刃など多数(懸垂用以外は回収)
ボルト使用せず
カム、1セット弱持参し使ったが全体に効きは甘い
残置ボルト、ハーケン等見つけたものは使用
50メートルダブルロープ2本
4ピッチに約4時間かかった。

穂高・下又白谷菱型スラブについて

手元の山日記では、下又白谷菱型スラブの初登攀をしたのは1980年8月2日となっている。
当時、日本での岩登りといえば、第二次RCC著となる「日本の岩場」というルート図集が唯一体系的な情報であり、下又白谷の項には黒びんの壁と菱型岩壁のみが掲載されていたと記憶する。(黒びんの壁はJECCによりR1, R2などと紹介されていた。別称、下又白壁または白又白壁とも言われる。)
菱型岩壁はその中でももっとも登攀の困難な岩壁のひとつとされていた。
下又白谷は穂高のなかにあってもっとも急峻な岩壁に囲まれたエリアであることは事実であるが、「日本の岩場」における、菱型岩壁に関するおそろしげな記述も、下又白谷=悪絶というイメージに貢献していたかもしれない。

山岳巡礼倶楽部、わたべゆきお氏作成の菱型岩壁周辺写真

さて、わたべ氏が目をつけた菱型岩壁左のスラブ帯の登攀は、それまで下又白谷の地域研究に取り組んできた山岳巡礼倶楽部の1980年夏合宿のテーマの一つとなっていた。

以下、手元のノートから記録を転載する。

1980年8月1日
わたべ氏と徳沢入山

8月2日
下又白谷F1洞穴ルート開拓~F2~菱型ルンゼ~菱型スラブ下部開拓~壁内でビバーク

下又白谷本谷の遡行をするつもりで徳沢より入山。
F1前壁JECCルートはとらず直登ルートを作るべく、JECCルートより右のバンドに取付く。非常に悪いフリー2P(Ⅴ+)を加えた5-6Pで終了。F1上に立つ。ボルト2本、ハーケン約10本使用。
F2を2Pのフリーで越え菱型ルンゼにはいる。
菱型岩壁の左側に展開する3本のスラブへの登攀を試みる。フェース2P終了後、Ⅲ~Ⅳ級のスラブを10Pほど攀り、Ⅴくらいの草付き交じりの岩場を超える。そこで暗くなったので1本の灌木にまたがってのビバーク。水なしのつらいビバーク。

8月3日
ビバーク地上部の草付き(Ⅴ+)を登り、ルートの概念をつかむ。
スラブは3本あり、右寄り1スラブ、2スラブ、3スラブと名付ける。登ってきたのは1,2スラブの中間リッジとなる。2スラブはビバーク地点あたりで傾斜を増し、垂直となっていたので中間リッジに逃げたのだ。
ビバーク地点からは2スラブにおりず、草付き帯を行く。さらに約10Pで登攀終了。はいまつの藪漕ぎで茶臼の頭に至り、奥又経由で徳沢に下山。

赤沼の山日記より

この後、8月5日には下又白谷正面壁中央稜を途中まで登っている。

1980年のルートは山巡ルートとした。この図は「岩と雪」誌に掲載したもの。

さらに翌年1981年の夏合宿で、第2スラブの直登ルートおよび第3スラブの初登攀を行っている。

1981年8月8日
屏風岩を登っていた赤沼、津賀は徳沢に移動。今日入山してきたわたべ、小野寺、赤塚、宮本と合流。

8月9日
全員で下又白谷F1偵察。
雪が多くF1は右端を楽に登れる。フィックスも発見。バンド上に1P新しいルートを伸ばす(注:意味不明)

8月10日
わたべ、赤沼、津賀、赤塚で下又白谷菱型スラブ2スラブを初登攀。山巡ルート開拓の際逃げたルンゼを直上して2スラブに入る。このピッチはⅥ級以上あった。

小野寺、宮本で3スラブを初登攀。
(注:こちらも「岩と雪」誌に掲載したはずだが見つからず)

赤沼の山日記より

下又白谷菱型スラブ山巡ルート開拓についての、わたべ氏の記事も紹介しておく。これは山巡の新人募集冊子に掲載したもの。

◎ 穂高岳下又白谷下部菱形スラブ初登攀(抄)
            わたべ ゆきお

・・・・時刻は八時になっていた。ライトを出しビバークの準備を始めるが、ビレーをしていた所は、二人がしゃがみこむにはあまりに狭すぎるので、細いリッジを五mほど下った所に場所を見つける。ブッシュとブッシュの間にもぐり込むようにして、坐り込み身体をブッシュにくくりつける。私たちがはい上がってきたのとは反対側にもルンゼ状のスラブ(第一スラブ)が走っており、そこまではすっぱりと切れている。リッジの上方はブッシュを混じえた露岩がかぶさっており、下方もブッシュのついた鋭いリッジで、すぐ空間に消えている。つまりは、四方がすべて急峻であって、平らな所はどこにもない。ここまできては、もう下降は考えられず、登り切るしかないのだが、どうなることやら・・・・。
曇天のせいかそう気温は低くないようだ。私は軽羽毛服を取り出し、下半身だけシュラフカバーに沈める。ツェルトはちょっと使える場所ではないし、雨でも降らない限りはいらないだろう。空腹感はそれほど覚えはないが、水のないのが何よりもつらい。
赤沼が「横尾の灯が見える」と言ったのは、横尾ではなく、徳沢だった。夜の森の中にポッカリと徳沢園や天幕たちの明かりが、みじめなビバークの私たちの目の下にあって、それはまるで幸福の定義そのものだ。清冽な水があふれ、ビールやウィスキーのボトルが並び、歌声がしみ出し、それに時折り少女たちの歓声が混じり、花火だって上がるかもしれない。だが、私たちは・・・・。
足先の方が下っているので、ともするとずり落ちて行く。
「上の方も悪いですよ・・・」赤沼が不安を隠さずにいう。さらに、冗談とも本気ともつかずに「これをいい機会に山なんかやめようかな・・・」ともいいだす。「山をやる理由なんかないんだ。別に山でなくても・・・・」
私はいうべき言葉を持たず、ひたすら少しでもマシな体位を求めてセッセと身体を動かす。いままでのいくつもの経験で、意志と、時間と、そして・・・・そういったものが、すべてを解決してくれるのだ。昭和残侠伝(唐獅子牡丹)の高倉健だって、修羅場をいくつもくぐり抜けて立派なヤクザ屋さんになっていったのだ。またフランスのおじさん(サルトル)は「経験には死のにおいがする」といったし、「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それこそが、賭ける者、戦う者の宿命と名づけられるべきなのだ」とは寺山修司の競馬エッセイによく引用されるウィリアム・サローヤンの言葉だ。要は、運のいい男には人生の終わりよりもルート・登攀の終わりの方が先にやってきて、運が悪ければ、平田や上村のように激しく短い生を終えて夜空輝くお星さまになれるのだ。
夜半、月明かりで目が覚める。半分にも満たない欠けた月だったが、それでも人っ子一人いないこの下又の岩の大伽藍を銀色に浮び上らせるには十分だ。それまで、私は夢の中なのか、それとも実際に身体がずりお落ちたのか、何度も墜落感を覚えてギクっとした。光速でもってブラックホールの中に、私の幼児期の混濁した意識の海の暗黒の中に、収束していくような、ひどくメタフィジカルな、パスカルの深淵のような、メチャクチャ冷汗感覚。
——朝は、もう今すぐくるべきなのだ。
私のビバーク。私の《山》。五彩のトキ。—–心配無用の日々だけがあって、鋭さを持たぬために、瞳孔はやや開きかげんで、抒情は水分を失い、鮮やかな色彩も、急激な気温の変化も、熱すぎる眼差しも危険すぎる街での曖昧なゼリー状のトキ——こいつらを束ねて葬り去るのが、私の《山》でのトキ—–だ。
ようやく、私たちにプレゼントされた夜明けは、重そうな鉛色をしたそれだった。蝶や大滝の稜線には、「ネズミの心はネズミ色、悲しい悲しいネズミ色」の雲たちがザブリとかむさっていた。だが、アリスの歌にもあるように「狂った果実には、青空は似合わない・・・・」(狂った果実)のであって、空が泣き出す前にと、早々に腰を上げることにする。五時だった。
出発前に、昨日の残りのパンとビスケットの一かけらを口に放り込んでみたが、全然唾液がわいてこず、とても喉を通るものではなかった。どんな極上のワインやコニャックよりも、今は《水》だ。私たちのすぐ背後のはずの奥又の池まで行けば、岩の間からしみ出す冷たく甘美な水が涼し気な音を立てているのだ。
赤沼、トップで目の前のブッシュの付いた露岩に取付く。やや、かぶさっており、悪い。彼はその三m程をかち取ると、リッジ上を直上するのではなく、左へとブッシュの中をトラバースして行った。二十m。私がこのブッシュでうるさく、腕力を酷使するピッチを終えてトップの所まで行くと、もう容易とのことだった。すぐ左側には、私たちが突破すべきだったルンゼの涸滝落口が見え、下からは全く予想もし得なかったルンゼ状スラブが真直ぐにのびている。難しそうには見えないが三~四ピッチはあろう。今となってはリッジに逃げてしまったことが悔まれる。
ブッシュを再びリッジ上へ登ると、易しい岩稜となった。左に第二スラブ、右に第一スラブを眺めての登攀である。第一スラブの方が二スラよりも急峻で、よく磨かれていて美しい。登攀自体も難しいだろう。第一スラブはピナクル状の小岩峰で二股になっており、右が本流で菱形岩壁の頭の裏側方面へとのびている。
階段状のリッジを登ると、畳二枚分程の完璧に平らなテラスに出た。ここでビバークをしていれば、二人で楽に横になって寝られたはずだ。ここから目の前の快適な岩稜を三十m程登り、このリッジがピナクル状になる手前で、右に出て、第一スラブの左股ともいうべき小さなルンゼのつめの中に入る。もうすでにここは草付で、さらに草付とブッシュの中を百mくらいも登ると、茶臼の頭へと続く頂稜に出て、広大な下又白谷の上部と前穂の東壁等が望まれた。私たちの待望の、本当の終了点—–そいつが今、私たちの足の下になったのだ。ルート選定には悔まれる点が残ったとはいえ——注:翌年(1981年)第二スラブルートの初登に成功した—–、未踏の、本谷F1の手前から数えれば、二十ピッチを越える私たちの、私たちだけにしか見えない一本のラインがくっきりと引かれたのだ。
一秒でも早く、甘やかな、ココロの内側にまでしみ込んでくるであろう《水》に到達するために、ザイルだけを巻くと、すぐにうるさく繁茂したハイ松の中を池を目指して歩き出した。茶臼の頭は指呼の間に望まれるのだが、踏跡の全くないハイ松こぎには辟易させられる。時折、ハイ松がジンの香りとして強く香る。バテバテになりながら、茶臼の頭には出ずに、トラバースの藪こぎをして、直接池から下又白谷への下降点になるコルに出た。いつもの柔和な面をたたえた奥又白池と人間たちのにおいのつまった天幕たちが眼に飛び込んでくる。私たちは水場に直行し、前穂の私たちに対する友情あるいは好意ともいうべき珠玉の水に口づける。We could drink a pond of water!だったのだ。「生きて帰れた!」などとジョークをいいあい、赤沼と完登の握手をかわす。朝の九時だった。
ビール壜百万本ほどの水を飲み終えると、私たちは雨の降りだした中畑新道を徳沢のウィスキーのもとへと幸福な気持ちで下って行った。

山岳巡礼倶楽部入部のしおりより

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