アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

カテゴリー: 山行報告 Page 1 of 12

カヤトの原東南壁

赤沼がクライミングを始めたのは1970年台の後半。
そのころ登山に使っていたのは主に国土地理院発行の地形図だったが、まわりの登山者たちからは「りくそくの地図」と呼ばれることが多かった。
陸軍陸地測量部(りくそく)は1945年の終戦のときに解体して、地図関係の仕事は内務省国土地理院に引き継がれたわけだが、1970年台になってもまだ「りくそくの地図」と呼んでいたのはなんだか不思議な感じがする。

まあそれはともかく。

RCCⅡ発行の「日本の岩場」に紹介されている著名な岩場をある程度登ると、ルート図のあるクライミングに少し飽きてきて、未踏(未知)の岩場を探し出しては登る自由さが楽しくなってきた。
地形図上で「毛虫」のような岩記号を探しては偵察に行くわけだが、よい岩場にあたる精度は低くて徒労に終わる場合が多かった。
やがて自分の勘が働くようになってからは精度もあがってきたが、そのころには体力が落ち目に・・・・
傍らでテクノロジー?も進化してきて、地形図に岩質マップのレイヤーをかけてみたり、篤志ハイカーのブログの写真をあさってみたり、Google earthで確認したりもできるようになってきた。
そうやって見つけた五郎山の岩場でのクライミングは最近の成功例のひとつ。

さてここで最近売り出し中で世間をぶいぶい言わせてるAIの力試しでもしてみようかと思い立った。
前日妻と十石山で長めの登山をやって北杜市の家に帰ってきて、午後から東京の家に戻る予定なので、午前中に周辺の岩場でも探しに行くかとGeminiに「北杜市周辺でまだ人に知られていないが、クライミングの楽しそうな岩場」の調査をさせてみる。
見つけてきたのがこれ。

おなじみの信州峠から横尾山に向かう途上、カヤトに覆われたなだらかな展望ポイントの東南面にたしかに小さな岩記号がある。
たしかに花崗岩の多いエリアだし、ちょっとしたスラブなりクラックくらいはあるかも?
そういえば瑞牆山あたりのクライミングで名を馳せた兄貴分の中尾さんも「最近はボルダーすら開拓されつくされてきて、山奥に行かないといい岩場が見つからん」なんてぼやいてたっけ。
面白そうな岩場でもあれば誘って登りに行けるね~。

家から信州峠は車で30分。
ここから登山道を30分程度でカヤトの原にあがる急斜面の手前。ここから左手におりていく。

この辺から登山道をはずれて左斜面を下りる。

あっという間に岩記号のあたりについたが・・・・あはは。
岩ごろごろの中に藪だらけの露岩がいくつか。
まあ地形図には岩記号つけるわな。これなら。

岩記号のどまんなかあたりにきれいなルンゼが伸びている。
写真の見た目よりはだいぶ急で結構いやな登りになるな、これは。

ルンゼの両岸が一応やぶやぶの岩稜となっている。右の岩稜のほうが岩の露出が大きいかな?樹林やブッシュがついていてすっきりはしないけど、難しくはなさそうだから登ってしまおう。
位置的には中央岩稜ってなところ?(笑)

こんなところをなるべく岩稜沿いに登る。
やぶ岩稜登り初級って感じで案外と楽しい。

最後の方は岩が減って、傾斜強めの木登りフェース。

傾斜が落ちてくるとまもなくカヤトの原直前の登山道に飛び出した。

うしろを振り返ると稜線上に素敵な岩塔がにょきにょきと。
あれ?あっちのほうが楽しそうじゃん・・・とよく見たら瑞牆山でした。

カヤトの原に到着。
南アルプスや八ヶ岳、北アルプスまでよく見えてますな。

カヤトの原からののどかなパノラマを動画撮影。

信州峠からアプローチ含めて1時間半ほどの楽しいお遊びプランとなりました。
まあクライミングの岩場探しとしては失敗ですが、Geminiにこれからノウハウを詰め込んで学習してもらうといたしましょう。

十石山

乗鞍岳から北に延びる乗鞍連峰は、信州(長野)側と飛騨(岐阜)側の国境稜線を形成しつつ、焼岳を経て西穂高岳に至る。
かつて信州と飛騨を結ぶ峠越えの古道があり、鎌倉時代にはそこが整備されて鎌倉街道の一部となっていたらしいが、安房峠を越える道とトンネルが開通してから廃道化している。
国境稜線上には整備された登山道は一部しかなく、静かな登山の楽しめるエリアとなっている。
そんな中で十石山(標高2525メートル)には白骨温泉からの登山道が整備されていて、比較的登りやすい山のようだ。
穂高連峰や乗鞍岳などに囲まれた眺望のよい山としても知られている。
思い立ってゴールデンウィーク明けの平日に妻と登って来た。
他の登山者にはまったく出あわない静かな山旅となった。

白骨温泉近くの登山口に車を停めてスタート。
上部にはまだ雪が残っているようなので、登山靴とストックにアイゼンも一応持参。

笹薮と樹林に覆われているが、登山道はよく刈り払われ整備されている。


標高2000メートル付近から残雪が増えてくる。
シャツ一枚で汗ばむくらいの陽気。雪もいくらか緩んでいるが、ごくたまに足がはまり込む程度ですんだ。
標高2200メートルあたりで穂高が見えてきた。

標高2400メートルあたりから稜線までは広大な雪の斜面となる。
表面が凍ってはいないので危険はないが、妻はここからアイゼン装着。
赤沼はツボ足でステップを切りつつ先導。

間もなく稜線

ここまで約4時間の単調な登り。しかもアイゼンをつけていた妻はこの辺で「もう疲れた。下りたい」とか言い出すが、稜線まで行けば眺望が広がるはずともう少し進んでみることに。

ようやく稜線上の避難小屋が見えて来た。ここまでくれば山頂は至近。

なだらかな稜線に雪は少なくハイマツに覆われている。
小屋から少し山頂方面に歩くと一気に視界がひらけ北アルプスの峰々が姿を現す。
手前が焼岳、その向こうには笠ヶ岳から双六方面への稜線、その右は穂高連峰から槍ヶ岳までが連なっている。

疲れもすっかり吹き飛び、嬉しくてしょうがないらしい。
とても小さな山頂標識がハイマツの中に立っていた。

山頂からハイマツに覆われた踏み跡を少し辿ると、ようやく乗鞍岳方面の眺望がひらけた。

午後から雨の予報だしと下山開始。
先にどんどん滑りおりていったら、「そんなに離れて、私が熊に襲われたらどうやって助けにくるのよ!」とか怒ってるし。
いや熊と戦っても勝てる自信ないけど・・・・ま、一応熊対策3点セット(鈴、匂い袋、熊スプレー)は赤沼が携帯しているんですが。

約8時間の行動となりました。

下諏訪の矢木温泉(300円、この日は無人、石鹸等なし)に立ち寄ってさっぱりしてから、北杜市の家近くの行きつけ居酒屋に直行しました~。

高尾・恩方アルプス

弾左衛門の峰というピークがある。
戸倉三山の刈寄山と市道山の間にある669mのピークだ。
高尾周辺を遊びつくす作戦の一環として、バリエーションルートのとれそうな山を探していてたまたま見つけた。
弾左衛門?
江戸時代に関八州のエタ頭として、徳川幕府からも公認されて威勢をふるった浅草弾左衛門と関係があるのか?
調べ始めると、弾左衛門と八王子の西にある恩方町、そこを横切る陣馬街道などとの関係性についてのある仮説が浮上してきた。
ならば陣馬街道の北辺に連なる恩方アルプス(千手尾根とも言われる)を縦走して弾左衛門の峰まで行ってみよう。

さて今までは、高尾周辺のバリエーションルートを中心にテーマをこじつけてお遊び登山をし、午後早い時間から「下山飯」で有名な焼き鳥屋「味はる」で宴会をするというのが定番化していた。
でも今回は「味はる」の店主、久保さんが山遊びに参加を表明。
そうすると「味はる」打ち上げはないね。
まあ打ち上げ場所は高尾地元の久保さんにまかせることにしよう。
クライミングの世界の兄貴分、中尾さんにT田さんも加わり4人での里山縦走となった。
恩方アルプスの尾根自体はなだらかなのだが、稜線上に多くあるピークのひとつひとつが急傾斜の登行で、想定外に時間がかかってしまい弾左衛門の峰にはとどかず。というか予定コースを歩ききれないこともなかったけど、早くから飲みたい我々としては夕方遅めの下山はNGということで、恩方アルプスのみの山遊びとなった次第。

弾左衛門の峰と浅草弾左衛門の関係についての検証は次回、ちゃんと歩いた後に味はるでディスカッションをやるということにして、今回は恩方アルプス縦走のご報告となりました。

高尾駅から「陣馬高原下」行きのバスにのって、大久保下車。
本日のコースを赤沼が説明しますが、中尾さんは初対面の味はる店長、久保さんのインパクト強めの風体に目をとられて、内容がちっとも頭に入らなかったとか。

今回のトラックログ

大久保バス停前のお寺の中を突っ切り、浄福寺城址ともなっている千手山を目指す。

お寺の中から登山道が始まる。


なかなか急な登りだが、道中は仏像などの遺構が立ち並んでいる。

山頂には浄福寺城という標識と祠。

浄福寺寺址(千手山山頂)から西に急な斜面をおりる。

10分ほど歩くと樹林が刈られて視界の開けたピーク。
ここから先は恩方山まで地図の登山道標記はなくなるが、実際はほぼ全行程で踏み跡を辿ることができた。

陣馬街道(恩方)を望む。陣馬街道の向こうは北高尾山稜。
浄福寺城址を振り返る。
手前が皎月院。奥は下恩方あたり。

浄福寺城址から天神山に至る真ん中あたりで、切通と稜線上の踏み跡が交差している。このあたりも城の一部だったのかな?

天神山山頂
興慶寺山山頂

興慶寺山から10分ほどで林道を横切る。
擁壁を下りて、向こう側の擁壁を登るルートファインディングがポイント。
擁壁沿いの踏み跡をたどると階段状のおりくちがあった。

林道の向こう側も擁壁。迷いながら林道を右に。

擁壁の切れ目。

擁壁の切れ目まで行き、今度は擁壁沿いに登れば353mピークへの比較的緩い尾根に乗れる。

林道を横切ってから1時間強で恩方山。

いくつもある稜線上のピークがどれも急傾斜で、ここまで想定外の4時間ほどかかり、もう14時。恩方山からは登山道がしっかりとついている。

このペースで弾左衛門の峰まで行けばあと2時間程度か。
そこから下山すると17~18時の下山。
頑張って目的達成するか、この先の高留沢の頭から下山して宴会になだれこむか。
一応話し合いをするふりをするが、内心はおそらく全員一致で下山一択。

登山道上は椿の花と桜の花びらが敷き詰められている。そして久保さんの足。本当は裸足で歩くほうが気持ちよいらしい。
上恩方の宮尾神社に下山

宮尾神社のすぐ下、夕焼け小焼けふれあいの里からバス。
ちなみに宮尾神社の宮司の息子さんが夕焼け小焼けの歌詞を作ったんだって。

高尾駅前の蕎麦屋で宴会。
なんかいろいろ美味しかった~。

静かなる登攀(高須茂)

山岳巡礼倶楽部の先輩、簔口さんの寄贈蔵書からの1冊目。
本書は昭和16年朋文堂発行。
高須茂は登山愛好家、登攀者であり、民俗学者。
そして佐藤春夫に師事した俳人でもあった。

高須の著作「山の民俗誌」は私の愛読書だったが、これは民俗学よりの著作であり、氏が山の雑誌「岳人」の編集者であったことは知っていたものの、クライマーであるとは知らなかった。

岩壁は風雪の中に暮れつつあった。
(あそこをなだれ落ちる雪のみが、あの岩壁を知っている!)

こんな詩が、
ただのクライマーに書けるか?
ただの俳人は昏い岩壁を落ちて行く雪を経験することができるか?

クライマーが、それを「よい壁」であると認定するのはどんな時か?
壁が自分の身体能力で登れそうだとの予感があり、そのピークに到る必然性を持った美しいラインが描ける。山麓には人が住み、歴史や民族、風習があり、それらが壁との一体をなしているのが感じられるようなとき、筆者はそれをよい壁と感じ、登攀意欲が増す。
子供時代の私(赤沼)を山へと導いた祖父は、山に登り、地元の人々からの聞き取りを行い、遺構を見て、それらを記録していた。その影響が大きいのかもしれない。


山や壁と人々との宗教、政治、民俗等に係る有機的関係性。
そこに展開された登攀史。
それらによって山を攀じ登る行為に深みが生じる。
高須の視線のあり方にシンパシーを感じる。
そして高須はそれを美しい言葉によって紡ぐ技術を持っていた。

本書には暮れかかった、あるいは暮れてしまった峻険な岩場や山にいる場面が多い。それをあえて選んだのか、山が好きすぎて、日のあるうちに下山できないことが多かったのか。
暮れた岩壁にある時、人は下界の光に満ちた世界を想う。
少なくとも私はそうだった。
下界の人々のうえに流れて来た歴史、光と翳が、雲上の世界にありながら俯瞰され、そこに自分も融和している気持ちになる。
暗い岩壁と、下界への想いの世界を行き来するクライマーは浮気者。
その近くをなだれ落ちる雪だけが、本当の意味で岩壁を知っている。
まあこんな読み方もありえるんじゃないかな?

高須は明治41年生まれ。
山巡の先輩、簔口さんは明治43年生まれ。
ふたりは同世代人だった。
2人とも15歳くらいで山登りをはじめ、20歳くらいから本格的な山岳登攀をはじめる。
簔口さんは記者を生業としていて、その蔵書は山の本のみならず、ヒマラヤ、チベットなどの研究書や民俗学に関わるものなど多岐にわたっていた。
高須は登山を「スポーツとしての登山」や「知的な旅」として広めようと、山旅倶楽部という登山雑誌の編集同人を主宰。
自ら登山技術や登攀ルート解説、そして山に関わる民俗学の著作を出版する一方、「山小屋」、「山」などの雑誌を発行。後にはご存じ「岳人」の編集同人となる。
少なくとも2人に面識はあったと考えるのが自然だろう。
「静かなる登攀」にはところどころ鉛筆で書き込みがあった。簔口さんによるものであろう。
共感した部分や補足的内容が短くコメントされている。
本書のタイトルわきに「高須くんに単独行について聞いてみたい」という書き込みがあった。

高須の「山の民俗誌」を私は民俗学よりの本と書いたが、表紙の紹介文にはこうあった。

(以下引用)
ケルンの由来の考察、野麦峠、八ヶ岳、神河内にまつわる史譚、小島烏水、深田久弥をはじめ、著名な登山家との交流。
本格派登山家として、文学者として、清明な視点から、「山」と「人生」を縦横に語った名エッセイ集である。(後略)
(引用終わり)

山の民俗誌と静かなる登攀を読んでみて感じるのは、視点の幅広さ。
ある時は暗い風雪の登攀、ある時は死を想い、詩情あふれる森や里の魅力を語る。ときに登山界のミーハー化について小気味よく喝破したり、また山小屋風喫茶店や山小屋そのもののフォルムの美しさにまで話題は及ぶ。
民俗学の柳田国男や登山家小島烏水、また深田久弥などとの幅広い交友関係があったこともわかる。

知識人の書いた登攀の本が読みたい。

そのような期待に本書がこたえてくれた。
遠藤甲太氏の「山と死者」を読んで以来の手ごたえ。
そのような系譜にある本が今もあるのならぜひ読んでみたいという切望が強まった。




古い山の本たち

山岳巡礼倶楽部の大先輩簔口治信氏のお孫さんから、山関係の蔵書を寄贈したいとのお申し出をいただいた。
簔口氏は1966年(昭和41年)5月に、同じく山岳巡礼倶楽部の斉藤清太郎氏とともに富士山で遭難死されている。享年は簔口氏56歳、斉藤氏58歳。
1935年(昭和10年)に設立された山岳巡礼倶楽部で初めての遭難死事故だった。
追悼誌「折れたピッケル」によれば、お二人は1948年(昭和23年)10月に一緒に山岳巡礼倶楽部に入部され、遭難されたころは山岳界の大ベテランとして指導的立場にあったことがうかがわれる。
赤沼はこの事故の時はまだ5歳で、当然お二方にお会いしたことはない。
どんな時代にどんな山を登っていた人なのか。
「折れたピッケル」にある簔口氏の年譜から抜粋してみよう。

1910年(明治43年)生まれ?(享年から計算)
1925年(大正14年)早稲田実業1年生として富士登山
(はじめての山経験というところだろうか。)
1926年(大正15年)日本キャンピング・クラブ入会
(この間はハイキング、キャンプをされている。)
1929年(昭和4年)野歩路会入会
(白根山、斉藤清太郎氏と赤石岳)
1929年(昭和4年)あけび会設立
(斉藤清太郎氏ほかと)
1930年(昭和5年)好日山荘に出入りしているうち、高橋照(のちに山岳巡礼倶楽部)などと交友がはじまる。
1930年(昭和5年)日本登高会入会
(このあたりからクライミングやスキーを含む本格的な登山を開始している。谷川、剣、槍穂高などでの登攀やスキー合宿、前穂高岳4峰での初登攀との記述もある。同時に牧歌的な山歩き、山生活を愛した様子も感じられる。)
1948年(昭和23年)山岳巡礼倶楽部入部
(穂高や谷川岳に出かける一方で東北の山などを歩くことも好まれた様子。)
1966年(昭和41年)富士山にて遭難死亡

ちょうどアルピニズムが日本でも広まりはじめた時期に、日本登高会に入会して本格的登山を開始し、日本登山界のパイオニアたちと同じ時代を生き、同じ空気を吸ってきたということになるか。日本登高会では同じ若手メンバーとして上田哲農氏などもいて、血気盛んなアルピニズム談義を繰り広げていたらしい。近代登山技術の発展期でもあり、簔口氏も山岳会横断的に研さんに励み、指導的立場を築いていったようだ。また山岳連盟の創始期でもあり、山岳巡礼倶楽部の創始者高橋定昌氏などとともに東京府山岳団体連合会の設立にも貢献していた。
そして戦争に突入。
山には行けない状態が推測されるが、岳連として陸軍戸山学校の行軍力指導者訓練に参加したり、軍隊スキー演習などでは指導的立場にあったようだ。
そして終戦とともに山岳巡礼倶楽部に入り、倶楽部の立て直しに貢献していたということらしい。

さて簔口氏に関しての記述が長くなったが、すなわち蔵書はアルピニズム導入期からパイオニアワークの高揚期、そして戦後の登山ブーム(第一次?)の時代になされたものであるということだ。

簔口氏のお宅にお邪魔して書斎を拝見。
大変に多くの貴重な山関係書籍のほかに、チベットやヒマラヤに関する研究書、また民俗学に関する本もたくさんあった。
「学者さんだったのですか?」と聞くと、「新聞記者だった。」とのこと。

どれも興味のある本ばかりですべていただきたいくらいだったが、山の本に限定して頂戴してくることにした。合計段ボール4つ分。

まずは興味の強いものから読んでいき、また紹介していきたいと思う。
ある程度整理がついたら北杜市の赤沼別荘内にある山の遺品ライブラリに加えて、ご興味のある方の閲覧に供したいと考えております。

亡くなった少し前の簔口氏(追悼誌「折れたピッケル」より)







山伏(やんぶし)

高校山岳部の合宿で光岳に登って以来の南アルプス南部。
光岳より南の、聞いたこともないような山を歩く人がいるなんて想像もしていなかった時代に、藪の中から傷だらけの腕と足をさらして登山道に飛び出て来たおじさん(そのころにしてみればの話)2人。
当時にしてみれば、
「かっこいいな~。いずれはあんな山々を歩けるようになるんだろうか?」と憧れを持ったものだ。
でも17歳で山岳巡礼倶楽部の門を叩いてからは、クライミング三昧。
還暦をだいぶ過ぎてからようやく、憧れの南アルプス南部にやってきた。
クライミング終活の一環で、大した岩場のない山々を老後の遊び場所として軽く考えていたわけだ。
深南部と言われるエリアからは少しはずれるようだが、入門ルートとして山伏に登り、ついでに深南部の登山口周辺をドライブしてまわって概念をつかもうというのが今回の目論見。
実は、山深いエリアとはいえ端っこの山ならちょこっと登って来られるだろうと思っていたのだが、調べてみるとどこも時間がかかりそうで、軽く日帰りできそうなのは山伏くらいしかなかったのだ。
このあたりから「もしかして南アルプス深南部なめてた?」と気が付き始めた。

やたら長いがよく整備された林道のドライブで百畳峠入口の駐車場に行き、前夜泊。

駐車場から百畳峠までは10分ほど。


南アルプス南部って樹林のなかをひたすら我慢して歩くようなイメージだったけど、山伏の稜線に出たら深く大きな山々が展開。明るく嫋やかな山々でした。

1時間もかからず山伏の山頂。

南アルプス初心者なんで、山座特定は難しいけど、赤石山脈の山々から大無間あたりまでの山々が一望のようだ。

明るくひらけた稜線

さて山伏に登って雰囲気を堪能したら、各登山口付近をドライブして偵察。

まずは畑薙ダム。紅葉まっさかりでした。

車止めから少し歩いて観光スポットとなっている吊り橋までお散歩。

地図で見ると寸又峡も近いようだ。
ついでに寸又川方面ものぞいてこようと思ったけど、電車ではたった二駅ほどの井川~寸又峡間の林道は寸断されていて使えない。
行くなら静岡まで大回りしての長距離ドライブとなるので諦め。

それにしてもどこに行こうとしても、長く曲がりくねった林道を延々とドライブする必要があるようで。
なんか南アルプス南部の著名な登山口に行くだけでも大変なことを実感。
深南部の著名なピークを全部踏むだけでも、今の体力が続いたとしてあと50年くらいはかかりそうだぞ。
というわけで、ナメすぎ、知らなすぎの南アルプス南部の初体験ツアーとなりました。はは。

高尾・底沢の謎はまだ謎なんだぞ探検隊

東京の家から、ほどよく近い高尾界隈を遊びつくそう。
といっても人の多い高尾山に行くつもりはなく、マイナーな尾根を伝い歩いたり、沢の支流を辿ってみたり。
下山飯は高尾駅近くの「味はる」ということで定着もしてきた。
底沢は景信山の西、堂所山南面の沢で、この山域では比較的大きめの沢。底沢の集落から底沢峠に至る登山道は歩かれているようだが、沢の記録はほとんど見つからない。
さてどこから手を付けようか。

底沢はこの一帯では比較的規模の大きな沢で支流も多い。

地図を精査していると独特な地形を発見した。

これ。
水流がここだけ太く描かれている。
大きな淵?
大きなゴルジュなら周辺に岩記号があってもいいはずなんだが。

幅約5メートル、長さ約180メートル。
ちょっとしたプール並みの水たまり?

Google earthで見た当該箇所。青く水たまりがあるように見えなくもない。
青で囲ったところが「底沢の謎地形」。踏査計画を立案してみた。

底沢集落をスタートして、沢沿いの林道を辿り、ターゲット部分を通過後は沢沿いに稜線に抜ける。
あとは堂所山を経由して底沢峠からの登山道を下山。
当然ながら下山後は高尾の「味はる」にて報告会。
高尾在住クライマーの山金さんこと山崎金一さん、それに同じく高尾在住クライマーの野口さん梨恵さん夫婦に声をかけてみた。梨恵さんは仕事の都合で報告会のみの参加。
山金さんも避けられない所用ができて、結局報告会のみ。
参加できなくなった山金さんが、前日なんと一人で偵察に行き、ターゲットまでのアプローチを確認してきてくれた。車高の高い車なら林道で行くこともできそうだとのこと。

10月30日、野口、赤沼にて踏査を決行。
実はこの時点ですでに、山金さんの報告やネット調査を通して謎地形部分には連続する堰堤のようなものがあり、その下流には膜ろ過方式の小規模浄水場があることがわかっていた。
調べるとその底沢浄水場は1973年(昭和48年)に給水開始し、1998年(平成10年)に膜ろ過方式設備導入。日量400㎥の最大供給能力があったが、2021年(令和3年)に小規模浄水源の統廃合の一環として廃止されたようだ。
さて浄水場とその上部の堰堤群?とは関係があるのか?
取水堰であったならまだダムのように水たまりがあるのか?
そこは通れるのか?はたまた泳げるか?(笑)
問いは「あの地形はいったいなにものか?」から、「どんな堰堤で、水たまりはあるのか?」と形を変えてのスタートとなった。

底沢集落で沢は二股となる。
底沢峠からの登山道を下山するつもりで、右俣に少し入ったあたりに車を停めて沢沿いの林道を歩き出す。

ほどなく底沢浄水場。
情報通り稼働はしていないようだ。

浄水場周辺。水流はさほど多くない。

林道の終点。山金さんの偵察はここまでだ。
二股となっており、どちらの沢にも踏み跡がある。
この右俣が例の謎堰堤群となる。

堰堤の右岸に伸びる踏み跡を辿る。
水たまりはない。
どうやら取水目的の堰ではなく、土砂防止用の堰堤に見える。

急な小沢に堰堤が続く。

堰堤にかけられたプレートには平成7年(1995年)竣工と記載されていた。
つまり堰堤ができたのは底沢浄水場ができてから20年以上あとのこととなる。浄水場との関係性はないのか、あるいは水源地の保水や保全という意味あいで土砂防止の必要でもでたか?
門外漢の素人としては、堰堤群の謎は結局謎のまま。
でも地図に太い水マークつけるのはなんか違うよね~。
水そんなになかったもん。期待して損したかも。

堰堤群は段々畑のように続き、地図通り180メートルほどでおしまい。

つまり神奈川県の買取り水源地として保全のために必要な堰堤だったってなところですかね。

堰堤の下には水ちょろちょろ。

最後(一番上)の堰堤だけがコンクリート製でした。

堰堤群の上は普通の小沢。
一か所だけ滝状となっていて、右の泥壁を木をつかんで登る。
足下が不安定でちょっと怖かった。

あとはこんな森林の急登。


林業用と思われる踏み跡を拾いながら行けばあっさり堂所山と景信山の間の稜線に飛び出す。

堂所山山頂。このためだけに自撮り棒持ってきた。

底沢峠経由で登山道を下山。
宴会・・・じゃなくて、報告会の時間までだいぶあるので底沢集落を観光しよう。

底沢集会所

底沢集会所のあたりで沢および林道が分岐していて、左の林道に入ると照手姫伝説というのがあって、その舞台でもある七ツ淵というのがあるらしいので、そちらに向かってみる。

のどかな集落です。

そういうことらしいです。

こんな踏み跡を辿って行くとわりとすぐ七ツ淵。

これが七ツ淵。沢靴がないと滑りそう。あ、野口さんは最初から沢靴だった。

なんだかんだ時間をつぶして報告会会場の「味はる」に。
前列左から山金さん、山岳巡礼倶楽部赤沼、YCC野口さん、ぶなの会梨恵さん。
話しがディープに、そしてグローバルに盛り上がったのは言うまでもなし。
そしてうしろが店主の久保さん。
味はるはテレビ東京の「下山飯」というドラマで紹介されてから人気が出ている様子。さあまた高尾で遊んでここで飲もう。

これが店主久保さんの役をやった俳優さん。ふむ。

黒姫山

夫婦で日帰りできる山歩きコースとしてキープしておいた、黒姫山に行ってきた。

北杜市の家を早朝に出て、7時過ぎに大橋林道コースを歩き出し。
天気が良さそうで期待値大。
静かな山歩きがしたくて平日を狙ったけど、登山口で10人近い団体登山者に鉢合わせしてしまい、一気に抜き去る作戦でぜーぜー言いながら稜線近くまで飛ばす。

快晴で稜線あたりからは槍ヶ岳から白馬あたりまでが一望できた。

西は高妻山。その左に戸隠が案外低く見えている。
北に妙高山。そこから左に火打山、焼山、遠くに雨飾山。2回登った雨飾山フトン菱の岩場が真正面に見えていて嬉しいけど、あれはもう4年前らしい。
ふとん菱をズームで撮ってみた。登った中央稜が白い岩壁のど真ん中に見える。
山頂手前の絶景ポイントで自撮り。
野尻湖を右向こうに見ながら気持ちのよい稜線を歩くと間もなく山頂。
山頂
山頂の祠
下山しながら山頂を振り返る。
紅葉はちょうどピークくらいかな。

下降は古池をまわるコース。沢に出会うともうすぐ古池。

古池に沿った木道。
登山口まではもう一息。
古池の取水路って言うのかな?

新潟・金城山高棚川つばくろ岩

金城山は巻機山の北西約5.5kmほどに位置する1396mの山。
つばくろ岩は金城山から東方向に伸びる登山道のない藪尾根800mほどのところにあるイワキの頭というピーク南面の急峻なスラブ壁で、高差250mほど、幅300mほどにわたって展開している。一言でその特徴を言えば、越後の超マイナーな悪壁。
1970年台ころにあらかわ山の会、江戸川山の会、東京稜行会などによって何本かのルートが登られ情報もまとめられ、あらかわ山の会のホームページには一部公表されていたらしいが、今年2025年に会が解散となりホームページとともに情報もなくなってしまった。

今回のパートナーは野島梨恵さん(ぶなの会)。
今までに甲斐駒ヶ岳摩利支天の岩壁や雨飾山ふとん菱、それに海谷の海老嵓などでクライミングを共にした頼れる相棒。

「自分は草付き泥壁の中で至福を感じる沢屋」と言い切ってるだけあって、まるで呼吸をするように沢を歩き藪をこいでいく。

前穂高の南面で赤沼懸案のリッジルート開拓につきあっていただく予定だったが、天候不順で転進。
梨恵さんは15年も前からつばくろ岩を狙って情報を集めており、何度かこのエリアを訪れてはいたが、まだつばくろ岩本体を特定することもできずにいた。
転進先はここにした。

上の写真に写っているこのあたりがつばくろ岩だったということが、登ってみてはじめてわかった。

実はこのつばくろ岩、赤沼の知り合いでもある山登魂山岳会の鮎、オーブコンビが2009年5月に登り、往復たった6時間で登山口に帰還している。
それを見て昼までには帰るつもりでいたのだが・・・・

5月の残雪を利用してのアプローチとは裏腹別物。
「雪がなくても河原歩きで簡単に行けるだろう」なんて考え、無雪期の越後の沢の悪さを想定していなかったのはそもそも大ポカだった。

雪崩に磨かれた花崗岩系の滝がいくつも続く。
ボルダリングレベルの難しいクライミングで越えたり、延々と草付きと露岩を越えて巻いたりが連続する。
赤沼が登りだした側壁は悪すぎていきづまり、泥クラックに突っ込んだカムを捨てて懸垂しておりたり・・・・
梨恵さんがチョックストン滝を、空身になってカムと泥に打ち込んだハンマーのエイドで越えたり・・・・
垂直の藪をロープクライミングで尾根まであがっての高巻きがあったり・・・・
岩壁の取付き付近まで実に7時間の奮闘的な沢クライミングとなった。

さてどうやら取付き付近にたどりついたようだ。
で、どこ登ればいいんだ?
まわりじゅう垂直の藪と垂直のぬめりまくったルンゼといや~な感じのスラブ壁しか見えん。
しょうがないので↑こいつの右端のほうを登りだしてみる。
いやな態勢でハーケン打ったりしながらようやく岩壁帯にたどりついたけど、簡単に登れそうには見えない。
山登魂の2人はフリーソロであっさり越えてるらしいんだが、これどう見てもロープつけて、ボルト打ちながら奮戦する壁でしょ?
ふと振り返ると、谷の向かい側に気持ちよさそうな、つまり傾斜のゆるいスラブ壁が稜線近くまで続いているじゃあありませんか。
さっさと懸垂でおりて、そちらにトラバース。


いやいや。こんな快適なスラブ壁でしたよ。
これがたぶん山登魂のふたりの登ったS字スラブだろう。

ともあれ楽しい岩登り自体はあっという間におしまい。
これでだいぶ高度は稼げたけどね。

稜線に近づくと傾斜の強い藪漕ぎといやらしい露岩のミックス、つまりとてもとても越後らしい岩壁になってくる。佐梨の岩壁登ったことある人ならどんな感じかわかると思う。
下に向かって生えてるしゃくなげの根をつかんで、ぬめった露岩に足をこすりつけて、ほぼ腕力で身体を持ち上げて行くような、体力の消耗の激しいクライミング。根っこをがっちり持っている限り怖い感じはしないんだけど、間違って落ちたらまあ助からないでしょう。(そういうパートは余裕なくて写真も撮ってないす。)

岩壁部分を抜けて少し傾斜が落ちてくるも、藪漕ぎはかわらず。

もうすぐ稜線。


稜線にでたところのピーク「いわきの頭」。
登山道の通っている金城山までは1キロほどの藪稜線。
暗くなると同時くらいに金城山にたどりつき、あとは嵐となってしまった中、すべりやすい登山道をおりて登山口にたどりついた。14時間ほどの行程となった。

高棚川林道途中0622am-二股0855am-小峠付近1030am-つばくろ岩基部1330pm-イワキ頭1618pm-金城山1744pm-観音山(雲洞)登山口2030pm-タクシー-高棚川林道駐車地2045pm

地蔵岳・離山岩峰群

地蔵岳の北にひときわ目立つ岩峰群がある。
それらの最高峰は地図には離山と記載がある。

鳳凰三山の地蔵岳方面から見ると左手の岩峰が離山(2307m)。
その右手に2峰、3峰、4峰と並んでいる。
ネットで調べると藪岩愛好家やヘビーハイカーなどがたまに登っているようだ。

離山(岩峰群)の位置
アプローチも含めたトラックログ

ここを訪れた人たちの多くは石空川の駐車場をスタートして、北東のやぶ尾根からアプローチし、離山岩峰群を縦走したあと地蔵岳に抜けている。
岩峰たちは主に風化花崗岩の傾斜の強い岩壁で形成されているようで、登山者の多くはその弱点、すなわち急傾斜の木ややぶに覆われた斜面を登り、下降は懸垂下降をまじえて通過している様子。
クライマー視点で訪れたらどこまで遊べるのか?
そんなテーマで登りに行ってみた。

パートナーは石鍋礼くん。
彼が中学生のときからのつきあいなので「少年」と呼んでいるが、もうアラフィフのれっきとしたおじさん。
フリークライミングが得意でエルキャピタンなんかも登っちゃってる。

誰もいない石空川の林道奥にある駐車場にテントを張って前泊。
かなり長い行程となるので、早朝暗いうちに出発した。
先人の記録に倣い、吊り橋を渡ったあたりから離山の北東に伸びる尾根に取付く。
ときおり傾斜の強いところもあるものの、はじめのうちはゆったりとした樹林の尾根。

気持ちのよい森であちらこちらに茸が顔をだしている。
「これ松茸じゃね?」みたいのもあったけど、茸はわからないので素通り。

1914m峰の手前のピークあたりから露岩が出始める。

いよいよ離山。4峰が近づくと、行く手に次々と岩壁が立ちはだかる。
苔むした露岩のフェースと樹林や藪に覆われた急なルンゼで構成される岩場が多い。

複雑な地形を読みつつ岩場を越えて行く。
地形が複雑な分、登るルートの選択肢も多いので、難しくもやさしくも登れるのが楽しい。

いよいよ岩峰群に突入。
ルートの選択肢は減ってくる。
苔むした脆い岩場をおそるおそる登るか、木登りに逃げるか。
我々はもちろん、できる限り岩場を越えて行く作戦。

木登りに逃げるか岩で苦労するか。自分との闘い(笑)がつづく。
ここではいったん正面突破を試みる・・・・が、ハングに行く手をはばまれ・・・・・いったん木登りに逃げ・・・・「あのハングさえ越えれば中央突破の気持ちいいラインになるぞ」と再チャレンジ。
ぼろぼろクラックにねじこんだサイズのあわないカム(カム4個しか持ってこなかった)と、抜けそうな枝に通したスリングでのエイド(人工登攀)で限界ぎりぎりのクライミング。
こんな遊びがつづく。

赤沼が「このフェース、フリーで登れるんじゃね?」とトライするも恐ろしすぎて即敗退。ところがそこをじっと見つめる礼くん。
「これやってみていいすか?」と日ごろ高難度フリークライミングをこなす礼くん。
「もちろん好きなだけやってちょ」と赤沼。
荷揚げ用のバックロープも付けて空身で登る気満々の礼くん。

「でもさ。途中で支点とれないし、落ちたらその下、切れ落ちてるから大きめの怪我しそうだよ。」と赤沼が手前の木から伸びあがってカムを一つ設置。
「さあ、どうぞ!」

しか~し。取付きで岩を触りながらもじもじする礼くん。
「あははは。これが風化花崗岩じゃ!すべてのホールドがはがれるつもりで登りなさい!」と上から目線の赤沼。
そして「やめてもいいよ。左から巻けるよ~」と悪魔のささやき。
「・・・・・やめます。」としょんぼりする礼くん。
ぐわははは。これが脆壁じゃと無駄に鼻の穴をひろげて偉ぶる赤沼。

岩峰のくだりは木登りの反対、木下り?で行くが、木が途切れてきたら即懸垂下降。

離山本峰が近づいてくるにつれ、風化花崗岩の巨石が無造作に置かれたような地形になってくる。
ルートファインディングの重要性が増してくるけど、ほぼ勘と運の世界。

ざらざらに風化したスラブ帯は手掛かりがなくて、下は切れ落ちていたりしてなかなかに怖い。

まわり中こんなフェースに囲まれる。
ルーファイが難しい。

離山本峰は越えて、あとは地蔵岳に向かうだけ。
でもここからが大変だった。
巨石がごろごろしていて、その間はハイマツとシャクナゲの藪に覆われた尾根を究極のルーファイが求められる。
ハイマツのクレバスと巨石の間にはまって身動きつかなくなった礼くんがトランシーバーでアドバイスを求めてきたりもあったけど、だいぶ先まで行ってしまった赤沼は手の出しようもなく「知らんがな」と、ただ彼の自助努力を待つのみ。

藪漕ぎしながら振り返ると登って来た離山の岩峰群。その向こうは北岳かな。

巨石の間をいんぐりもんぐり地蔵岳を目指す。

地蔵岳のオベリスクが見えて来たころはもう暗くなってきちゃったよ。

周り中岩だらけ、やぶだらけ。今日帰れるんかいな?っていう風情の動画。

すでに暗い地蔵岳に到達し、夜を徹して歩き、駐車場に帰還したのはすでに深夜となってしまったわけ。
いや~長かったな~。
一応ツェルトで泊まれる体制はあったけど、北杜市の別荘に行って、風呂入って酒飲みたいし、がんばって20時間も歩いてしまった。

さてこのルート、若くて元気な人たちは10時間ちょっとくらいで踏破してますな。一般的には18時間くらい?
まあ自分たちなら15時間で踏破して、夜早めに別荘で酒飲みだすくらいのつもりだったんだけど・・・・
わけわからんクライミングでつぶした時間3~4時間、実は藪漕ぎが苦手だった礼くんのオーバータイムも考えればまあこんなもんか。
実はアラカン赤沼、20時間も歩けたことでちょっぴり自信つけちゃったりもしたよ。はは。

Page 1 of 12

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén