アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

カテゴリー: 山行報告 Page 1 of 10

鳥居峠から栗屋山

このエリアを特定する名前がないものか調べてみたがわからなかった。
西は韮崎あたりから塩川ダム、信州峠を越えて川上村に抜ける小尾街道(穂坂路)。北東に金峰、瑞牆。南に茅ヶ岳や金が岳や曲岳。
奥秩父西部の茅ヶ岳山麓エリアとでも言ったらいいのかな?
その中心に甲府幕岩や樫山岩塔などの岩場があって、スポーツクライマーにはわりと知られた場所ではある。

先月、金が岳に連なる兎藪という山に遊んだ際、その一帯に伝わる修験道や金峰山への参道(みたけ道)に至る古道、天狗や仙人についての逸話などを聞きかじった。
小尾街道に沿っては信玄の烽火台や、山城址も多い。
「おもしろい土地だな~。北杜市の家からも近いしもう少し歩き回ってみよう」。

今回は比志城址に近い鳥居峠というところから、尾根を東方面に歩いてみよう。その先には地図に記載がないが、栗屋山というのがあるようなので、そこを目的にしてみよう。今回も妻とのんびり山散歩のつもり。

韮崎から塩川ダムに向かう県道23号を北上。小尾街道または穂坂路というやつですな。
塩川ダム手前の鳥居峠トンネル手前から小森川沿いの道に入り、最初の大渡という村落から歩き始め。トンネルの上に見えてる峠が鳥居峠だ。

トンネル方向に村の道を行く。


石仏たち
峠に向かう切通し(村の道はここを通らず大回りしている)
兎藪方面
そこここに藤の花
これも石仏?
あっという間に鳥居峠が見えてくる
鳥居峠にもうすぐ
鳥居峠の北側は舗装された林道があった。こちらから来たほうがよかったかな?
鳥居峠から東に向かう尾根に階段
階段の上に修験者の像があった。寛永とか書いてあったような。江戸時代?ここを越えてなだらかな尾根を東へ向かう。
下草もなく歩きやすい。
全体に赤い。赤松か。
尾根はところどころ細くなるが歩きやすい。
栗屋山手前のピークで視界が開ける。金峰山、瑞牆山などが遠望できる。

金峰山

瑞牆山

栗屋山
八が岳が見えた。
栗屋山山頂から樫山の村を見下ろす。
南の林道まで急な斜面をおっかなびっくり下る。
あとは歩いてきた尾根の南の林道を戻るだけ。
藤の花びら
右が歩いてきた尾根。南側はずっと崖になっている。
石仏など。林道沿いに多い。
お気楽半日コースでした。

兎藪と山の人たち

兎藪(うさぎやぶ)と呼ばれる変わった名前のピークに行ってきた。
きっかけは北杜市の我がセカンドハウスから、茅ヶ岳と金峰山の間に見える台形の山姿が気になったから。
Google earthや地図アプリなどを使って特定したピークがこの兎藪だった。
地形図を頼りに5月最初の暖かいとき、妻とともに傾斜の緩い西側から登ってきた。

須玉町江草の獅子吼城址から車で行けるところまで林道に入るが、途中で草が生い茂ってきたのでそこから歩き。

林道から兎藪西側の緩斜面帯へは、林道から急な山腹を這い上がる。這い上がった先は別世界。どこまでも緩く広い斜面が広がる気持ちのよい樹林帯だった。

西側斜面にはところどころ踏み跡もある。
途上石垣やら水場のような遺構もあり、ここに生活していた人たちがいたことが感じられる。

この西側に広がる天国のような高原の樹林帯がすっかり気に入ってしまっい、そこいら中に生えている山椒の若葉をおにぎりにくっつけてのランチタイム。そしてお昼寝をしてからの下山。

ところで兎藪のピークにある三角点の点名は「孫左衛門」。
兎藪の登山口にあたる江草付近には孫左衛門に関する言い伝えがあるらしい。
孫左衛門については、山梨地誌のはしりである「甲斐国志」(江戸時代1814年発刊)に記載があるようだ。
甲斐国志巻之二十「山川部」を拾い読みしてみた。
金嶽 茅嶽(金が岳 茅ヶ岳)の項に次のような記載がある。(読解があやしいので不正確ですが)
「浅尾村(江草より少し南)の樵夫(きこり)孫左衛門は、山中に入って仙人となった。どれほどの時間だったものかはわからないが、曲岳あたりに遊んだり、大石や深谷の間を歩いたり、鹿を追って走ったり、岩の上に跨っていたりして、その蓬髪で目の大きな巨人が草木の服をまとっているところを里人に見られたこともある。」

ほかにも少しずつ違う言い伝えがあるようだが、修験道の舞台でもあった金峰山とその周辺には修験者が少なからず往来していただろうし、また山の民たる樵や炭焼きなどもいたはずで、そうした「山の民」を異形のもの「孫左衛門」と呼んでいたのかもという想像がふくらむ。(修験の人と山の仕事師たちがどのくらいかかわりがあって、時代的接点があったかなどについては今後の課題ですな。)

兎藪の先は金が岳にいたる急峻な稜であり、修験者もここらを歩き回っていたらしいことは、甲斐国志にも記載がある。
兎藪の西側に広がる広大な高原には水場もあり、石垣などの遺構もあることから、山仕事の場であり、あるいは人も住んでいたかもしれない。

そして江草は金峰山に至る9本の御嶽道と呼ばれる古道の入り口のひとつでもあった。地形図を見るとなぜ江草?となるのだけれど、甲斐国志以前の金峰山詣では、まず金峰山南麓の金桜神社にお参りしてから山頂の本体、五丈岩に向かうのが常道であったことを考えると、これが金峰山への入り口ではなく、金桜神社への道であったということを思うと、わかりやすいような気がする。

兎藪あたりを根拠地のひとつとする山の民「孫左衛門」たちは、あるいは金峰山詣での人たちの、江草道における登山ガイドなども務めていたんじゃないか?などと妄想をふくらませているわけです。

【山巡じじい会】鷹取山

山巡じじい会は約10回目らしい。
毎度全員が参加しているわけではなく、さらに各自の記憶が曖昧とあって、実際のところが不明なのだ。
前回は高尾山近くの草戸山。
小田原在住のわたべさんには遠かったので、今回はわたべさんにも来やすい鷹取山とした。

二階さん
「あの岩場の公園で、赤沼のクライミング眺めながら芋煮会やろう」

赤沼
「いやなんか最近クライミングは届け出制になってるらしくて面倒くさいわ。それに火気厳禁って張り紙もあるとか。そもそも酔っ払いフリーソロなんぞやってたのは超昔の話ですよ。(やってたんかい!)」

二階さん
「じゃあ草戸山のときと一緒で山歩いてから居酒屋で下山飯(酒)な」

赤沼
「だったらザックに酒いれてきて山頂で一次会やるの禁止ですよっ」

赤沼心の声
「そうは言ってもこのじいさん達絶対酒持ってくるし、なんならガスコンロと肴もでてくるよな、自分もワンカップくらいは持って行こう」

二階さんが得意の嗅覚で追浜あたりで昼飲みの出来る居酒屋情報ゲット。

そういうわけでじいさん達、東逗子駅集合で歩き出します。
雨降ってます。寒いです。
前日までは20度超えの陽気だったのに。
予報では小雨だったけど、土砂降りです。

歩き出しはまだ小雨だった。
神武寺あたりから雨が強まりだし

雨で視界が悪いけど、煙った山の斜面にところどころ桜が色を添えていて風情があります。

神武寺の鐘あたりから土砂降り

神武寺山山頂にて。
左から惣之助さん、わたべさん、二階さん。

雨でぬれた岩場が滑ります。

懐かしの岩場に到着

宴会できるところを探して彷徨います。

あの山頂の展望台で宴会できるかも。

いやだめでしょ。風が強いし、雨も吹き込んでるよ。

公園の東屋に向かったけど先客がいるよ。女性ばかりのグループみたい。
赤沼は女性ばかりの中にじいさん達が乱入して酒飲み始めるなんてあり得ないでしょと思っていたら・・・・じいさん達はさっさとお話して、場所をつめてもらってるし。このじいさん達、妙に人懐っこいところがあるのですよ。

案の定出てくるんだな。ワインボトル2本、ガスコンロ、ビール等々
ホットワインが美味い気候でしたね。

なんだか楽しそうなじいさん達

追浜に向かって下山。桜並木ですね。天気が良かったら人が多くて宴会できなかったかも。

なかなかの桜並木

そして2次会の昼飲み。

赤沼以外の3人はもうすぐ全員が後期高齢者。
この中では赤沼、若手扱いされてます。
なんだか還暦すぎてからいろいろ楽しくなってきたよ。

男社会の猿山の価値観なのかな。
極端にいうと闘いに勝たないと幸せにはならない・・・みたいに刷り込まれた部分があったとして、そこから自由になれる感覚。
グレードとか高さとか、困難とかにこだわらないほうが楽しいって、本当に思えてきた。今頃になってね。
今までだってそうじゃないつもりでいたけど、どこかで人の評価を気にしていたり。

山岳巡礼倶楽部は登攀系の山登りを中心にやってきた会ではあるけど、決して先鋭的なほうではなく、地域研究と称して辺境に通ったり、山の映画を作る部会があったりとユニークな会だったと思ってます。
大学山岳部(当時はばりばりエリートたち)が優勢な頃に設立した下町の山岳会で、自営業や職人など、独立独歩に生きてる人が多かった印象もある。
そんな自由な気風がこのじいさん達にも残っていて、その良さに自分が年とってきてやっと気が付いてきたような気がするのね。
あと何年つづくか知らんけど、10年後の山岳巡礼倶楽部100周年に向けて、ちまちまとやっていきたいな~。

雪のアルプス鎌倉街道(池尻砦~セバ谷)

「アルプス越えの鎌倉街道」は、信州(長野)と越中(富山)を結ぶ道で、とくに飛騨山脈越えの山間部についてはほぼ廃道となっていた。
長野県で教職につきながら郷土史の研究をされてきた服部祐雄氏がライフワークとしてここを探訪し、「アルプス越えの鎌倉街道」(平成21年発行)として紹介した。

「アルプス越えの鎌倉街道」は松本から梓川渓谷に沿って奈川に至り、安房山と乗鞍岳の間にある古安房峠(信濃峠または大峠)を越えて平湯、さらに北上して富山に至るもの。

松本から富山までの大まかな経路を赤線でいれてみた。

当然ながら最大の難所は飛騨山脈を越える山間部であった。
古安房峠を越える山道は、松本―高山間の最短路であり、野麦峠を越えるよりも20キロほど近いようだ。

ちょうど1年前、山奥の峠(祠峠)に廃村があると聞いて訪ねてみたのがきっかけで、この飛騨山脈越えの山間部の古道を少しずつ歩いてきた。
2回目檜峠
3回目池尻砦

残るは池尻砦から古安房峠を越えて平湯に至る部分。
アルプス越えの鎌倉街道の核心部。

前著を参考に古道を忠実に探りながら歩くのも楽しそうだが、まずはだいたいのラインでいいから歩いてしまって雰囲気を知りたい。
1年前から周辺をドライブしたり歩き回って探っていたが、無雪期はやぶをこいで奥山に踏み入る必要がある。
だったらやぶが雪に隠れた時期に行ってみるか。
3月なら雪も少しはしまってくるかな・・・・と、ちょうど1年前ラッセルに苦労したことなんぞとっくに忘れて計画した。
池尻砦から平湯まで歩くとなると水平距離でも12~13キロ程度あるので、テントと酒を持参で1泊2日ののんびりひとり山旅のつもりで出かけた。
トレースなんて絶対ないだろうから冬山装備にワカンも持参。
まあ若干荷物が重くなるが、今年最大の目標、夏の前穂高でのルート開拓山行に向けた体調調整の意味もあってあえて軽量化もせず。

沢渡バスターミナルの駐車場に車を停めて出発。
平湯からバスでここに帰ってくる作戦。

雪に覆われた林道をひざ下くらいのラッセルで進むと池尻砦手前の駐車スペース。この日は突然気温があがって、東京は20度超えだったとか。
雪が重い。

林道入口からワカンをつけっぱなし。それでも結構もぐるな~。しかも湿雪なので一度はまりこむと足がなかなか抜けないのよ。

熊やら鹿やらかな?動物の足跡が無数に交錯している中にワカンの足跡を一筋つけていく。

池尻砦まではしっかりした夏道があるので、ルートはわかりやすい。

池尻砦跡の祠。前はここまで来た。ここからがはじめての部分。
踏み跡程度はあるようだが、雪に埋もれてよくわからない。

尾根を越えると湯川沿いに林道に梓川から白骨温泉に至る車道にいったん出る。雪かきもされていて、時折車の往来もある。

湯川を渡る橋まで、舗装された車道をワカンのままカタカタと歩く。さてこの橋を渡ってからが本格的に山中となる雰囲気だ。

湯川を渡る橋
渡ってから橋を振り返る。

さて、雪かきでたまった道の端の雪を越えて橋におりるのが難関だった。
雪たまりのピーク部分からなぜか雪がリッジ状に橋まで落ちており、そこがかりかりに凍っている。踏み外せば下は岩場で谷底まで真っ逆さまとなりそうだ。
ワカンのままキックステップで何度かトライしたが怖すぎ。
ピッケルは持ってこなかったので、ステップも作れない。
あきらめてワカンをはずし、アイゼンに付け替えてこの2~3メートルを乗り越えた。
橋を渡ったらまたワカンの世界。

踏み跡程度はあるようだが、雪に覆われていてわからない。
なんとなく方角を定めながら次の目標、セバ谷に向かう。
樹林の尾根、谷を越えて行くが、それなりの傾斜もあって、腐りきった雪のなかで悪戦苦闘。
雪を踏み抜いて腰まで入るとなかなか抜け出せない。
深く入るとストックまで抜けなくなって掘り出す始末。

古安房峠までこんな山並みを延々と越えて行かねばならない。

いい加減うんざりし始めたころセバ谷にたどり着く。

セバ谷には湯川発電所の調整ダム、セバ谷ダムがある。
ウィキペディアを見ると、北アルプスの山中で道もけわしいのでその姿を見たことのあるものはほとんどいないとある。
秘境に突然現われる人工物てなところ。

雪のコンディションが悪いなか、ここまでだいぶ時間を使ってしまった。
ここから先の距離を考えると1泊装備をもってしても厳しいかなという計算。
ここから梓川までダムのメンテナンス用の道があるようなので、今回はおりようと決断した。

このメンテナンス道、かなり急な斜面につけられた強引な道らしく、ところどころワイヤーや索道が確認されるが、雪のついた状態ではただの危険きわまりない斜面。
古道が地すべりや崖くずれなどのリスクを避け、展望の楽しめる歩きやすい道筋につけられているのと対照的に思える。

雪ののった露岩や草付帯を、一歩一歩慎重におりていくと斜面の緩い尾根に出た。この尾根に沿って送電線が通っているようだ。

下に湯川渡の発電所が見えたので、そこに向かって斜面を適当にくだる。
かなり急な斜面を時折雪に埋もれて行くと湯川渡で梓川沿いの国道に合流。国道を歩いて沢渡バスターミナルの駐車場に帰って来た。約6時間の行程だった。

沢渡バスターミナル7:40am発~池尻砦9:00am~湯川の橋9:15am~セバ谷ダム11:00am~湯川渡の国道合流点11:40am~沢渡バスターミナル13:40pm

今回のトラックレコード

奈川ダムから祠峠。そこから檜峠越え。ここまでは峠に村落跡などもあり里山的雰囲気もあった。
そして今回池尻砦からセバ谷に達し、人工物たるダムなどもあるもののかなり奥山に分け入って来た感があった。
ここからが本格的な山岳地帯だ。

ところでこの本格的な奥山を通る道にはかなり古い歴史があって、古くから人が往来していたようだ。
古くは遺跡などの分布から考えて縄文時代にはすでにここらを越えての文化や物資の交換があったと推定されている。
古安房峠と同様に古くから往来されていたが、焼岳の噴火というリスクがあって避けられることもあった中尾峠は日本武尊が通ったという話も伝わる。
そして鎌倉時代に飛騨、越中との要衝の地として鎌倉街道としてこれらの古道が整備されたものと考えられる。
武田信玄は飛騨の江間攻めの際、やはりこの旧鎌倉街道を戦略的に往来し、池尻に砦を作った。

永禄2年(1559年)武田信玄は飯富、馬場、甘利の三大将に命じて安房峠(古安房峠)を越えて飛騨を攻めさせたが、安房平を中心とした山岳戦に苦労して、池尻に砦を築いた。三大将ともに武田の重臣であり、武田がどれほどこの戦いを重要視していたかが伺える。
ここはもともと池尻湿原という水の豊富な場所であり、池尻砦周辺では民家があって耕作も行われていたらしい。もちろんここに兵団も野営し、周辺には物見の基地が尾根筋にそって設営されていたという。

古安房峠の道は各時代を通して飛騨と信州の国境防衛の基地として、また交易や遊興を目的として使われてきた。
江戸時代には白骨温泉の湯治客も通ったりしていたらしい。
寛政2年(1790年)、幕府が野麦峠を主道とし、古安房峠は廃止とされた。
しかし道はその後もしばらく残っていて、ウォルター・ウェストンが明治25年(1892年)平湯から白骨温泉までこの古道を歩いたころは、道が荒れてはいるもののつながっていた様子が「日本アルプス登山と探検」のなかに記されている。

今現在。
ここは藪と樹林に覆われた奥山である。
里山の風情が残るのは、信州側ではせいぜい祠峠、檜峠あたりまで。
飛騨側はまだ歩いていないのでわからないが、古安房峠付近は飛騨山脈の一角であり里山とは言えない。
この峠を歩くことが今後の課題であるが、こんな奥山につい最近(明治くらいまで?)人の往来があり、生活すらあったことが現代人たる自分にとっては、とても不思議な感覚を覚えるところだ。

どんな人たちがそもそも、この樹林に覆われた尾根と谷の交錯する山中を踏査し、道をつけてきたのだろう?

「山の民」といったプロがいて、先導してきたのだろうか。
ウェストンを導いた猟師の嘉門次のように。

少なくとも明治以前までは山の中に「暮らし」があったように思えてしょうがない。
山は里と里の間にあって向こう側との境目。
そして親しくも近寄りがたい聖なる場所。
つい最近までそこには民の暮らしがあって、あるいはその聖なるがゆえに困難な地に、里の人々を導くプロももしかしたらいたのではないか。
そんな夢想をしながらの山旅が楽しくなってきた。

木曽・南沢山

妻との雪山登山シリーズ。
先日の黒斑山がとてもよかったので、またどこか軽い雪山に行こうということになった。
妻は長い歩きは嫌だと言う。
山での泊まりも「寒いから」不可。
怖いところもだめ。
展望はよくて晴れてないとつまらん。
条件がなかなか厳しい。
私はクライミングのできる岩山ばっかり行ってて軽い山はあまり知らない。展望にも基本的に興味なし。最近妻と行くようになってはじめて「展望のよい山もよいな」と気が付いたところ。
人気のある山を調べればいくらでもでてくるけど、今度は私が「人が多いのがいや」なので、登山者が多いとすぐに下りようとか言い出すし。

ぐだぐだと悩んでいるとき、陽子ちゃんが共通の友人に連れられて、北杜市の別荘に遊びにきた。これが初対面で、この時は城址からはじめて、登山道のない里山を歩いた。

彼女は、我が家にも何度か来て一緒に登ったこともあるクライマーT君の相方だった人。T君は最近剣岳でクライミング中滑落して亡くなってしまった。
T君はとても無口な人で、一緒に宴会をした妻も「T君楽しくないのかな」と思っていたようだ。
でも陽子ちゃんから話しを聞くと、「人が好きでみんなが話をしている中にいるのが大好き」な人だったんだと。人ってわからんものだ。
T君は情報のないところでルートを探りながら登るのが好きだったらしい。また歴史的好奇心も相当持っていたようだ。
陽子ちゃんと一緒に古戦場を訪ねた際、いつまでもただの原っぱを眺めていて帰ろうとしないので聞くと、「武将たちが繰り広げる闘いの様子」をありありと妄想中だったとか。
もっと話ができていたら、楽しい山行がともにできたのかもしれないな。

さて、クライミングもするけど山歩きの大好きな陽子ちゃんから、「奥さんと一緒に行くなら」とお薦めされたのが南沢山。
冬の樹氷で有名な、雪山初心者に好まれる山らしい。
それなりに人気もあって、登山者が多そうなので平日に決行。

せいなの森キャンプ場近くから始まる登山道がポピュラーらしい。ここに車を停めてスタート。

いつものように、妻は「雪のうえはすべてアイゼンをつける作戦」。雪がしまって硬くなっているので初心者にはこれが正解。
少し暖かい日が続いたので樹氷は期待できない。
トレースばっちりで歩きやすい。
稜線に出たが、案の定樹氷はない。
残念ながら雲多め。
稜線に出るまでは結構急な道だったが、山頂付近は広くなだらかな雪原。
山頂まで2時間半程度。
暖かい日。
山頂でまったりとカップラーメンなど食べて過ごす。
雪も少し緩んできたので私はアイゼンはずしてずるずる滑りながら下山。妻はアイゼンはいて一歩ずつ着実に。
打ち上げはミート池田で買った高級サーロインでステーキ。

瑞牆山東尾根

寒波襲来で新雪のプチバリエーションを一人、こそこそと登ってきました。

「寒くてつらい冬壁なんぞもういかなくてもいいか・・・」
なんて思い出してからもう10年以上になるかな。
でもがりがり登ることを諦めてみたら、老化(体力の低下)を客観的に見定めつつ、「ルート発掘」ともいうべき無理のないスタイルに、自然と移行してきたようだ。
さてそんななかで今年の最大テーマは、前穂高岳東南面の情報のまったくないリッジのクライミング。
ウォルター・ウエストンやら旧制松本高校山岳部やらの、足跡を辿るクライミング旅をしているうちに見つけたところ。
ここは経験的に素敵なクライミングになるだろうと期待値が高まるところ。

昨年もここを狙っていたんだけど、天気がどうとか、熊がなんだとか・・・結局のところ、体力的な自信のなさがネックとなって言い訳つづけて登れず。

でも全装担いでとはいえ、1泊2日の無雪期登攀。
登り込んで調整のできた身体なら、この年齢でもまだまだ登れるはずだぞ。

というわけで、この何年か妻を相手にやってきたステップアップ登山を自分に課してみることにした。
つまり簡単なところから徐々にグレードアップしていって、目的達成しようというプラン。まあ普通のことなんですけど。
登山はほとんど未経験の妻とは、そのやり方で穂高岳に登頂し、雪山も登り、そしてテント泊登山や沢登りもやってきた。
今度は初心者を導く上から目線の登山ではなく、体力、気力を見定めながらの自分自身のステップアップなのだ~!・・・って挫折を防ぐためにちょっとほら吹いてみましたよ。

初回はどこがいいかな~。
ルートの楽しさよりも長く歩くことが主眼だね。
南相木サーキット(南相木村の村界尾根をすべて歩いて村を一周するプランで、南半分は終了している)でも完成させるか。
そのつもりで北杜市の別荘まで出かけたんだけど、朝起きてみたら一面の銀世界。そういえば寒波来てたっけか。
新雪に覆われた藪尾根は歩きにくいし、楽しくない。
どうせ銀世界ならもっと冬山らしい瑞牆でも行くか!
瑞牆山の東に延びる尾根には岩マークがたくさんついていて、地図には登山道もない。調べてみたら、瑞牆のバリエーションルートとして訪れる人もちょこちょこいるらしい。よし、そこへ行ってみよう。

矢印(赤)が一般登山道のアプローチ&下山ルート
破線が登山道のない東尾根

瑞牆山荘から入山。
豪雪地帯ではないけど、登山道をはずれるので念のために輪かんを持参。
岩場も出てきそうだし、ストックのほかに一応ピッケルも持ってみた。まあいつもの、持ち歩くだけの過剰装備で終わるんじゃないかと想像していたわけです。この時点では。

昨夜未明から降った雪で登山道は覆われている。
しかしまあ、そこは元のトレースがしっかりとついた百名山。
とくにラッセルということもなく、登山靴で快適に歩く。

樹林越しに東尾根あたりも見えて来た。(ピントがあわず見づらいね)

このあたりから登山道をはずれて、樹林の尾根に入るはず。
トレースをはずれて踏み込んでみたら腰まで潜った。こりゃ登山靴のみではきつい。

何年振りに輪かん装着。つけ方を思い出すのに時間がかかった。

ところどころ赤布がある。無雪期ならトレースもありそうだ。

尾根はいったん下り、コルから登り返すと岩場が増えてくる。
こんな岩峰がいくつかあるが、赤布のルートは右に迂回して大きく巻いている。無雪期に岩峰沿いを登ったら面白いかも。

尾根上にはこんな露岩がでてき始める。輪かんのまま越えて行くには結構デリケートなクライミングが求められる。

この辺が核心のようだ。
藪から巻くルートも見つからず。
右端のスラブ壁にお助け固定ロープがあるものの強度的にも、張り方も信頼が置けない。
落ちたら谷底だな。
面倒くさいけど輪かんをはずしてアイゼン装着。
ところどころに生えてるシャクナゲの根っこにピッケルのピックを叩き込みつつ、雪の中のスタンスをアイゼンの爪で探りながらじわじわと進む。
ついにピッケルまで登場してしまった。なんならもう一本アックスがあれば安定して登れたな~。

核心部を越えた。ここから先はまたラッセル&木登りになりそうだ。

上部の岩峰は赤布に従って右側を大きく巻いて行く。
疲れ果てたころ瑞牆山への一般登山道に合流。左に10分もかからず山頂。

顔が疲れ果ててます

山頂はやや曇り気味。

寒波襲来とあって、朝は地吹雪、突然晴れ、そしてまた雪てな天候。
全体的には赤布を追って歩いて行けばそんなにきつい山登りではなかった。でも寒さとこの変わりやすい天候で冬期登攀気分にもひたることができた。
行動時間約7時間半。
これでへばるのは調整の初期段階としては想定内。
一般道を走り下りて、あっというまに登山口におりてきました。
道をはずれてみて、はじめて道のありがたさがわかるな~。

佐久・御陵山の皇子峰

皇子峰というのは山巡赤沼の得意技、面白がっての誇張命名ですよ。もちろん。御陵山(おみはかやま)北面(南相木村側)のやぶ岩峰のことです。

つい先日、南相木ダム手前のずみ岩を登った帰路、ほの見えたきれいな二等辺三角形のやぶ岩峰。
やばい(いろんな意味でね)岩峰があったら登ってやろう・・・というのが最近の行動様式なわけで、まずはそれがどこなのかの特定作業。
どうやら以前に歩いたことのある御陵山の北面にあるピークらしい。それがわかった瞬間、「墳墓」と言う言葉が頭に浮かんだ。
一人でもいいけど、やぶ岩歩きの好きな仲間でも誘って一緒に行ってみるか~と思っていたら、1年以上会ってない長友さんから山に行こうとお誘いが。かつて南相木を一緒に歩き回った相棒だ。
タイミングよすぎでしょ。

4日後の金曜朝には二人で南相木村。
御陵山里宮という神社(祠?)から行動開始。


さてなぜ「墳墓」という言葉が浮かんだのか。

南相木村の地図上に名前のないような山々を辿り歩き、隣村川上村の岩峰を登り歩くうち、「悲運の皇子、重仁親王がこの地に住んだ」という言い伝えが耳に入ってきていた。
言い伝えが実話であるという前提で話をまとめると以下のようになる。


平安時代末期、皇位継承問題に端を発した保元の乱で敗れた崇徳上皇と、その皇子重仁親王は讃岐に配流され、崇徳上皇は配流先で罪人として扱われ、失意のうちに亡くなる。その後敵方を中心に大事件が多く起きたことから、怨霊として描かれるようになり、平将門、菅原道真とともに日本三大怨霊のひとりとも言われる。
一方皇子の重仁親王は、保元の乱で崇徳上皇に荷担した武士方の総将格であった信濃の村上基国を頼って身を寄せ、その庇護のもと千曲川を遡って南相木村から臨幸峠を越えて、川上村の御所平、御殿窪(みどのくぼ)に安住。ここで兵を調練したり鷹狩をしたりしつつ、再起をかけて過ごしていたが若くして病に倒れた。
その名残として川上村に古名として地名や遺跡が残っている。
歴史学者で佐久の郷土史家、楜沢竜吉氏から、佐久に疎開していた作家の佐藤春夫が歴史史料の提供を受けたらしい。佐藤春夫は「佐久の内裏」という作品に「佐久川上村御所平要図」という史料をもとにした古名などについて記載している。(定本佐藤春夫全集第13巻に収載)

御所平 御殿窪(みどのくぼ)

竜昌寺(現、富澤山 龍昌禅寺)の裏にある御殿窪に重仁親王が住んだ。背後の山は今も内裏山と呼ばれている。(写真は龍昌寺の山門と内裏山)

この地には熊野神社があり、のちに龍昌寺が移されてきた。当時の天皇家は熊野神社とのつながりが深く、頻繁に熊野詣でを行ってきた。

住吉神社

龍昌寺の千曲川をはさんだ向かい側に位置する。
住吉神社は熊野神社の別当。

住吉神社から龍昌寺方面。左の山が内裏山。
住吉神社から撮影。右端が赤顔山。さらにその右方向に天狗山、そして御陵山が連なる。この一帯が重仁親王のいた御所平の中心地となる。

ちなみに千曲川は熊野と同じ三山信仰の三峰詣の街道筋でもあった。

御霊社(御霊神社)

御殿窪と同様、内裏山の麓に位置する。

川上村公民館発行の館報かわかみ 第104号(昭和43年)には「村上基国のもとを親王が辞するとき白馬を進献され、臨幸峠を越えて川上村に入った際の姿が御霊社のご神体である」との記載がある。

川上村では重仁親王を祀った神社として護っていたようだが、今はなぜか入口が藪の奥に埋もれ、祠はまるで隠されるように安置。
産泰神社と名前も変えられている。

重仁親王、三大怨霊の皇子だよ。やはり失意のうちに亡くなってるんだけどなんか今は忌避してない?こんなことして大丈夫なん?というのは赤沼の心の声。

このほかに古名として兵を調練したかのような「馬場平」、貴族のスポーツ鷹狩をしたのか「鷹揚場」、「天主の台」、「鷹放」、「兵部」などの地名もあったようだ。

以上は主に雨海博洋氏筆「悲運の皇子、重仁親王の流離譚」より引用させていただいた。


以上が本当の史実であれば、御所平の奥に控える御陵山は、その名前からいっても重仁親王の墳墓であると考えるのが自然ではなかろうか。

御陵山山頂の祠

山頂の祠に奉納されてきたらしい神具の説明。雨ごいの神事によるものと記載がある。なぜか南相木村教育委員会。
しかし17世紀とあるし、ここが重仁親王の墳墓として祀られていたのだとしても矛盾はしない。だいたい御陵(おみはか)と雨乞いって結びつくのかね?

そして不思議なことに御陵山の北、南相木村にも御所平という地名があり、御陵山里宮という小さな神社が現存する。

この神社は御陵山の北側の尾根が南相木川に落ちて来た、三川というところに建つ。そして尾根はここからまっすぐに、件の三角やぶ岩峰(皇子峰)を経て、御陵山に至る。
そして南相木村にも里仁親王の流離譚があり、御陵山はまさに里仁親王の墳墓であると伝えられている。
重仁親王の言い伝えに酷似してますな。
ちなみに里仁親王という名は史書にはないのだが、藤原政権時代に謀反人として名前を歴史から抹消されたのだとか・・・

さてさて真実はどこにあるのか。

どこかに事実があるのか、村上基国がその野心から勝手に親王を担いだのか、あるいはどこにでもある貴種流離譚のひとつで、自治体がそれを利用したり、忌避したりなのか?

そういうわけで、話は長くなったけど、歴史的ロマンのある、墳墓のような岩峰を、悲運の皇子を偲びつつ敬意をもって踏破してみようかと。そういうことになった次第。

南相木村の御陵山里宮の前からはじまる林道に入り、適当なところで車を停めて、御陵山の北に延びる尾根を登り始める。
結構な岩尾根っぽいし、あの岩峰(皇子峰)も急峻な露岩が出てっぽい。
ロープを持つかどうか迷ったが、長友さんと赤沼のふたりならそういうのは得意分野だしいらんだろう!ということで軽装でスタート。

樹林を踏み跡だか獣道だかを辿る。歩きやすいし、気持ちいいし、
「登山道をぞろぞろ歩いてる人がかわいそうだよね~」とか二人して言いたい放題。

初冬の小春日和って感じのむちゃくちゃ感じのよい尾根筋。

踏み跡らしいものがあったのは、送電線のメンテのためもあったのかな。

いくつか小ピークを越えていく。

前半はかなり歩きやすい。

尾根どおしでルートも明瞭。

このあたりは岩峰だらけ。露岩が出始め、急な木登り露岩登りとなってくる。

急な岩峰が連続する。慎重にルーファイしながらピークを登ったり下りたり。

露岩をクライムダウン中。

越えてきた小ピークを振り返る。

結構いやらしい木登りと露岩登り。にこにこと登ってくる長友さんにあとで聞いたら、手袋の形状やらムーブやらいろいろと研究してノウハウを蓄積しているらしい。

突っ込んだ岩峰が案外悪くていったん下降中ですが、実はこの先で事件が。
赤沼の腰ベルトにつけていた熊よけスプレーのストッパーがやぶでなくなり、下降中、木の枝でスイッチが押されてしまったのだ。
幸い大事には至らなかったが、スプレーの液体を処理した布に触った手で触れた場所のすべてが、ひりひりと発熱。一晩ほどかっかしてましたわ。

皇子峰はもう目前。なんか難しそうに見えるぞ。

どこを越えてやろうか。できれば中央突破したいね。

しばしルーファイタイム。

良い子のみなさん。長友さんの木登り露岩登りテクニックを、この動画から学んでください。いろんなノウハウが見てとれますよ。(いやまじで)

南相木ダムが遠望できる。

皇子峰に到着!

皇子峰から少し下ってまた登ると天狗山から御陵山への稜線。登山道があって、ここからはすぐに御陵山山頂に着く。

御陵山山頂から天狗山方面。天狗山の向こうは八ヶ岳が白くなってる。

御陵山山頂

にわか祝詞を奏上

さて下降は一本西よりの尾根を考えていたが、長友さんが「沢を下りちゃいましょう」というのでただついて行く。長友さんの読みがあたってあっという間に車を停めてある林道に出た。




南相木・ずみ岩東尾根

ようやく熊出没情報も減ってきた。
夏の間不安定だった天気もこの何日かよさそう。
よし!例のやつ行っちゃえ!

てなわけで、テント持参で乗鞍界隈で藪漕ぎ・・・のはずが。
山が白いのです。

あれ?もう雪降っちゃった?
霜かもしれんけど。
霜だとしても藪漕ぎしたらずぶぬれだよね。

そういうわけで転進先は前から気になってたずみ岩。

いっつもエクストリームハイカーのブログやらなんやらを種本として、楽し気な岩場見つけたりしては遊んでいるわけですが、そんな「行ってみる」リストに載ってるずみ岩です。
なにげにレベル高いハイカーたちがなぜか岩場が怖くて引き返したとか、そういう記述が多い山です。
西の尾根から行く人が多いようですが、南相木ダム側の東尾根が最短。こっちから行ってみよう。

ご存じ、なぁ~~~~んにもない村、南相木村。
唯一の観光資源?南相木ダムのちょっと手前から歩き出し。(ちなみにとっても大きなロックフィルダム、南相木ダムはすげ~壮観だからぜひ観に行ってください。)

登山道はほぼないので、林道から適当に山腹にとりつきます。

GPS頼りで稜線目指しますが基本、斜面は急です。
紅葉を一気に飛び越えて散ってしまった赤や黄色の落ち葉のラッセル状態で、結構危険な場面が続きます。

稜線はなかなか気持ちがいいぞ。

稜線で自撮り

東の稜線を登って行くとだんだんに岩場っぽくなってきます。

山頂近くはしゃくなげが密生していますが、根本部分が少しだけ刈り払われてます。これにだいぶ助けられながら行くと、露岩に腐ったロープがだらり。

「え?これ行くんかいな?」
だいぶやばいすよ。下は切れ落ちていて、落ちたら助かりそうもないし、手がかりになりそうな木も根っこが浮いてる。そしてぶらさがったロープもぼろいし結び方もあやしい。
よく見ると、このルートはないでしょってのがわかりますな。
ロープと関係ないところが安定して登れまっせ。
なんかかなりやばい人?がルート設定したんかな~。
ハイカーが引き返したのってこのポイントかな?
ルートだと思って行ってしまって、事故が起きたりしないといいのですが。

ずみ岩。近づいてきました。

岩稜歩きも楽しめます。

振り返ると南相木ダム。

ずみ岩のピーク。

ピークでも自撮り。ウインドブレーカーをガムテープで補修してますが、背中はこの間のワイドクラック登りでずたずた。でもまだ使ってるし。買えよな!

話しそれますが、背負ってるのはグレゴリーの高級ザック。
妻とテント泊登山に行くのに、なんでもかんでも背負わされる前提で買ったいいやつで、腰ベルトやらが優秀なんで整備された登山道では最高なんですが・・・
藪はだめです。あっちこっち引っかかって歩きにくいこと。
藪は超シンプルなずだ袋型登攀ザックが一番ですね。

あのやばい岩場を下るのもなんだし、帰りはやぶ尾根をおりて茶屋ノ平なるあたりに。地図では登山道があるはずなんだけど、なぜかいきなり林道が現れる。しかも登山道とは関係のない方向に伸びてる。
林道無視してまたやぶこいで下山完了。

約3時間の楽しい藪&岩歩きでした。

瑞牆山十一面岩

金峰山の千代の吹上、第三岩稜の中間部分(上部と下部を登った登り残し)を登る計画だったが、さすがに11月に入って気温が低いうえ、風の強い予報。
「これは楽しくないよね~」ということでの転進。

パートナーは瑞牆山でいくつもの高難度ルートを拓いてきた中尾政樹さん。ヒマラヤ、サトパント南壁の初登やシブリン北稜を登った、アルピニストでもある。

「千代の吹上が中止なら、瑞牆山で軽いクライミングでもして、情報交換がてら飲みましょうか?」という魅力的なお誘い。
難しいルートばかりの印象で、怖くて手を出せなかった瑞牆山を、そこの主のような人に案内してもらえる絶好のチャンス。逃すわけにはいかないよね。

朝ゆっくり目に駐車場で待ち合わせ、どこに行くのかも知らずただついていく。天気も上々。なんかガイド登山の客というか、素敵なレストランで有名シェフにおまかせフルコース頼んでワイン飲んでるような気分?
どこに連れてってくれるのかな~ルンルン♪てなもんで。

40分ほどの歩きでついたのは、中尾さんも岩場の名前をまだ決めかねているようなところらしい。位置的には十一面岩の末端の末端の末端・・・あたりらしい。すでに登られたワイドクラックから、まだ掃除の終わってない(誰かほかのクライマーが掃除してるかも?なんてことらしいが)、未踏かもしれないクラックにつなげようという作戦。

ここは中尾さんも以前登っているらしい。赤沼も久々でテーピングばっちり・・・のつもりが、ずっと使わなかったテーピングが古すぎて粘着力が怪しい。
「それはだいぶ古いね~。いつから使ってないの。」
と笑われましたです。

中尾さんリードで離陸。
出だしがかぶっているけど、核心部は上のほうだった。

赤沼もがんばって、いんぐりもんぐり中。
ワイドクラックって息が切れるし還暦すぎのおじさんのやる遊びではないよな~。中尾さんは息も切らしてなかったみたいだけど。

ぜーはーぜーはー。
リードしてるみたいに見えるけど、ちゃんと上にロープついてます。

2P目も中尾さんには既登部分。
真っ暗なチムニー内を、クラックを使って登り、最後はうしろの壁に体重かけて休めるという特典つき。きわめて楽しいピッチです。

この辺が核心部。

さて未踏かもしれないこのピッチ。
「誰か掃除してくれてるらしい。登ってみよう~」と中尾さん。

でも取付き部分のハングが脆すぎてだめ。
ここは浮石落とし切らないとだめということで、頭の中は宴会モードに。

当然夕方から我が家で酒宴。
まあ話がはずむこと。
楽しい夜は更けていきました。

たまにこういう観光気分のクライミングもいいもんだね~、って割といつもそんな調子か?

冷山の黒曜石巨大露頭

山巡じじい会による黒曜石の巨大露頭探索行は、メンバーのわたべ氏の発案で始まった。
「なんでも大型バスサイズの巨大露頭が北八ヶ岳にあって、研究者たちはそれを見つけているけど場所を隠しているらしいぞ!」
というわけ。

やじうま根性にもとづくリサーチ(研究者の論文から場所を特定できそうなところを探したり、Google earthで探したり・・・)のうえで冷山周辺を散策した際、案外と簡単に露頭にたどりつけそうなヒントを得てしまった。(そのヒントを上記リンクの投稿に記載したら、それを見てたどり着いた方がいたようなので、なんかそれもいかんな・・・と当該テキストは削除いたしました。)
じじい会のおとぼけハイキングの際は時間切れでたどり着けなかったので、いつかはと思っていた露頭見学山行を今回、実行してみた。

目をつけていた某所より入山。
苔に覆われた北八ヶ岳特有の森歩きが気持ちよい。
時折現れるはいまつやシャクナゲの密集したやぶを避けつつ、いくつかの手掛かりをもとに森林内を徘徊。
ときおり現れる赤やピンクのテープに惑わされたり、以前にこのへんを探索したらしい方のGPSログなどを頼りに迷走のすえ、どうやらたどり着いたようだ。

こんなのがいきなり現れたので、例の巨大露頭なるものは近くにあると感じた。

周辺一帯、黒光りする黒曜石らしきものが顔を出していたり、落ちていたり。

巨大露頭というからには崖のようになっているはず・・・と目星をつけて地形を探るとそれらしき斜面が現れる。

この下は急傾斜に落ちているぞ。

これか?と思ったがバスほどのサイズではない。まあ研究者だって誇張はするかもね~とか思いつつ。

あったわ。10メートルはありそう。これなら大型バスと言ってもよいでしょう。お隣にも少しだけこれより小さいのがある。
ただ普通の苔に覆われた岩にしか見えない。でもところどころ黒光りするものが顔を出しているし、まあこの中が黒曜石なんでしょうね。このまわりにもいっぱい黒光りした岩があることだし。

この大岩の下は気持ちのよい広場になっていて、割れたビンやらキャンプした跡のような感じとかいろいろあって、これがその巨大露頭だと確信する。

なによりもあたりをつけていた場所にぴったりな場所。

探索行は以上でした。
ここからは研究者のつけたらしい踏み跡(と言っても結構とぎれとぎれでルーファイは難しい)を辿って30分ほどで国道に帰ることができた。(つまりこの場所さえわかればものの30分でたどり着ける場所ということですね。)

黒曜石露頭の学術的価値や興味については、素人の語ることではないので控えます。でも調べてみるととても面白い。
興味を持たれましたら、茅野市のHPや日本で唯一とかいう明治大学の黒曜石研究センターのHPをご参照ください。その他検索すると民間研究者もいろいろいるようですよ~。

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