山岳巡礼倶楽部は今年(2025年)、90周年となる。
以下、ガムス50周年記念誌などを参照しつつ歴史を追ってみる。
設立は昭和10年(1935年)だが、その前身は昭和6年(1931年)に誕生したベルグ・バルファルトクラブ。山岳巡礼倶楽部のドイツ語訳だ。
東京浅草の二長町にある石井運動具店で知り合った三本良三、瀬山喜久治、高橋定昌の3人が立ち上げた。
高橋定昌の提案した山岳巡礼倶楽部という名前が古臭いイメージだというので、ドイツ語訳にしたのだそうだ。設立時は部員15名でスタート。
当初は近郊ハイキングが活動の中心だった。
会運営を勉強するため、小島町の山彦山岳会、浅草の武蔵山岳会、千住のアマチュア山岳会、京橋の銀座山彦山岳会、日本橋の登歩渓流会などの集会に出席。
ところで筆者、赤沼が山巡に入会した1978年当時、山巡は日本で2番目に古い社会人山岳会だと先輩から聞かされた記憶があるが、下町だけでもすでにいくつもの山岳会があったようですな。記憶もだいぶ怪しいが、登攀系の活動をする山岳会に限定しての話だったのかも?
山岳巡礼倶楽部は昭和10年(1935年)1月1日、ベルグ・バルファルトクラブと東京アマチュア山岳会が合併して創立された。
経済の独立、安定した会運営が合併の目的であったようだ。
設立当初、組織運営についてはずいぶんと議論が尽くされた様子が伺える。
山岳巡礼倶楽部は当時としては珍しい「代表制度」を会運営の方法として採用。
そのころの山岳会はどうやら会長とリーダーが実権を握り、会員はそれにしたがってついていくだけという雰囲気であったようだ。
社会人としての個人の人格を尊重するために、代表を設けて会運営は合議制によるという、当時としては先進的な試みであったらしい。
ちなみに50周年誌の記録によると、赤沼も1981年と1983年に代表を務めていたらしい。と言ってもクライミングに夢中になっていた青二才で、まともに役割が果たせていたとは思えないし、そういう記憶もない。
そして生意気盛りの赤沼は50周年を前に山巡を脱会。
穂高屏風岩でのフリーソロを批判された(もちろん心配してのこと)のが直接的なきっかけだったと記憶するが、同人的な集まりで先鋭的な活動をする山岳会への憧れがあったことも退会動機の一つだった。その後そういう同人組織を点々としながらも、国内外の辺境クライミングへと志向性が移っていった。
今にして思えば、日本のアルピニズム創始期の人たちと、直接触れ合う貴重な機会をずいぶんと失ってしまったという後悔が残る。
山岳巡礼倶楽部は50周年の前後から低迷期に入り、都岳連からも脱退。
山巡の顔であった高橋定昌は東京都山岳連盟の設立に奮迅し、岳連屋との異名をもつほどであったのに、その山巡が脱退するということは、ほぼ消滅していたに等しいのだろう。





2011年6月
どういう経緯だったか忘れたが、山巡の先輩だった二階氏、渡部氏と赤沼が再会。
昔ばなしなどしているうちに、このまま山巡の名前をなくしてしまうのはもったいないような気持ちになってきた。

ちあきさんは山岳巡礼倶楽部としての活動再開に、はじめ反対していたが、二階さんとわたべさんが説得してくれた。ちなみにちあきさんは大町の別宅をベースに山と釣り三昧、悠々自適の晩年をすごした後、2017年釣り帰りの駐車場で急逝された。ちあきさんの告別式では下又白谷での初登攀などで活躍された檜山さんなど何人かのOBたちにお会いして挨拶をすることができた。
ここから第二山岳巡礼倶楽部とも言うべき活動に入る。
一度は集会に人が集まってくれるようにもなったが、もともとがバラバラな集まりで、同じ方向を向いて組織ばったことをすることもなく、赤沼がその時々のパートナーと山に行き、山巡のサイトに紹介していくようになった。
ライフワークのひとつであった穂高の下又白谷にも頻繁に足を運ぶようになった。
ところで赤沼が山巡を名乗りつつ、登攀系の山を続ける一方で、2019年5月に「山巡じじい会」が発足。メンバーは先の二階さん、わたべさんのほか斉藤惣之助さんも加わる。つまりは「じじい」としか言いようのないメンバーが集まって、軽い山登りをし、山頂ないしは下山後に宴会をやって帰るというイベント。
毎回誰かが酔っぱらって転んで怪我をしたりしつつも、弘法山、草戸山、八ヶ岳冷山、矢倉岳、湯河原城山・・・・とつづき、今年3月には第9回だか10回だかが予定されている。

さて山巡じじい会の面子に見守られつつ、まだまだ50歳前後の若手(笑)赤沼は登攀活動を再開。
体力や根性にものを言わせたぎりぎりのクライミングはもうしない、というか無理。
でもそこを諦めたお陰で、山と深くかかわる自分なりのスタイルができたようにも思う。
テーマのひとつは山岳巡礼倶楽部のライフワークでもあった下又白谷。
山岳巡礼倶楽部が初めて下又白谷の全貌を見ることになった、山巡稜は下部岩壁、それに大きく迫力のある下又白谷奥壁の登攀。
ウエストンの足跡を追って登った一尾根第一支稜。
そこから見た顕著な岩稜、一尾根の登攀を通して、この一帯で活躍した旧制松本高校に興味を持ち、奥又白谷二尾根の登攀へと結びついていく。
今年は美しい二尾根の支稜を登ってみたいと計画中。
地域研究(登攀)の舞台は川上村の五郎山や天狗山などにも移して、いくつもの楽しい登攀をすることができた。
長野県南相木村の村境尾根を歩いて一周つなげるプランも実行中。
さらに信州から飛騨へとつながる古道(アルプス越えの鎌倉街道)を辿る旅も少しずつ実施している。
かつての山岳巡礼倶楽部は名前に似合わず初期のヒマラヤパイオニア時代に深く関わってきたし、どちらかというと登攀系の山が中心であったように思う。
その一方で地域研究や、大菩薩や丹沢などの地図の編纂、集中登山、一斉登山などの試みも行ってきた側面もあった。
今やっている登山は、地域研究やあまり人に知られない岩場や尾根などを逍遥し、登り歩くこと。開拓というよりはルートの発掘というような登山。
ここにきて「山岳巡礼倶楽部」という名前のイメージに近い山登りになってきたんじゃないか?
こういう山登りに関心をもってつきあってくれる仲間も少しずつだが増えて来た。
さてこれから10年。100周年に向かって、山岳巡礼倶楽部の名前を背負って何をしていこうか?
そんなことをつらつら考えているうちに、「100日後に死ぬワニ」という4コマ漫画のことを思い出した。
死ぬまで100日から始まってカウントダウンで続く4コマ漫画は、ただワニの日常を描いているだけだが、多くの共感を呼んでヒット作となった。
これどう?
10年後に消滅する山岳会。
赤沼の年齢(60台前半)を考えると、がんばってあと10年登るかと。
それで100周年に解散パーティーしましょう!と山巡じじい会の面々にその話をすると、
「おれらそこまで生きちゃあいねえよ」と。
そんなわけで、これから10年間、生前葬ならぬ「プレ解散パーティー」を毎年やるというのはどうかね~。
あれ?山巡じじい会で今やっていることとなんも変わらないかな?