アルパインクライミング・沢登り・フリークライミング・地域研究などジャンルを問わず活動する山岳会

カテゴリー: 山行報告

佐梨川金山沢奥壁第二スラブ

2010年6月10日(赤沼ほか)

佐梨はやばい。
誰からともなくこればかりを聞かされてきた気がする。
一度は登ってみたいが、二度行かなくてもいいか・・・というびびりモードで、なかなか足が向かなかったのだが、年長の熱血クライマーHさんから誘われて、ここが行き時か・・・と出かけることにした。

アプローチが案外とわかりにくい
奥壁がせまってくる

この雪渓が登るのにちょうどよくなるのが6月ってことで、この時期限定の登攀。

雪渓からスラブに取りつく。
スラブ自体はそれほど難しくもなく始まるが、だんだんに傾斜がまし、草付きが混じってきたあたりからいやらしさが増してくる。
これこれ。これが佐梨のいやらしさってやつだね~と納得しつつロープを伸ばす。


支点の甘さ、ルーファイの難しさなど、たしかに総合力を必要とする壁なのはたしかだが、一歩一歩淡々とこなしていけば、登れない壁ではない。ただ集中力は結構いるのね。
やがてスラブは傾斜を増してくるので、垂直の草付き尾根に逃げる。
ここからがとにかく体力、気力総動員のクライミングとなります。


てなわけで、想定通りへとへとになって国境稜線に抜け出て、ばてばてで歩いていけば小屋だわ~

伊豆雲見・烏帽子岩直上裏参道

2010年5月(赤沼ほか)

烏帽子岩は伊豆西海岸の雲見崎の海から屹立する162mの岩峰で山頂には雲見浅間神社が祀られています。
雲見漁港側からは急な階段を登って神社にお参りすることができる。
この裏手にあたる海岸からの岩壁を登って、神社の裏側に出るルートが「直上裏参道」だ。
後日2016年にここでクライミング中の事故があり、登攀禁止となった。
残念な事態であるが、これだけ未開のルートについての情報が近年広まり、誰もが登るような状態になっていたことを考えると、やむを得ないかとも思われる。

取りつきへは神社への階段途中からトラバースしていくが、途中崩壊しつつある岩場を懸垂で下るところがある。
ここは実際危険な感じがあり、最新の注意をもって下りたが、実際に崩壊の危険を感じた。
後日の事故はここで発生したらしい。

崩壊箇所の懸垂。
足元の岩が崩れやすく、足元に気を配らないと自分の起こした落石でケガをしそうな感じ。

岩場は急だが手掛かりは豊富。
カムで適当に支点を取りながら登る。
岩がもろくて危険と言われているが、整備されていない岩場としては普通程度。
案外登りやすいレベル。

名勝、千貫門が足元に見える。

最終ピッチは神社で終了。
高度感ある快適なスラブで終了

太刀岡山鋏岩左岩稜(一部ルート開拓)

2010年4月10日 (赤沼ほか2名)

快適な岩稜ルートとして有名になってきた左岩稜だが、海谷での登攀を想定したルート開拓練習として出かけた。
今回のテーマはルートを「より易しく登る」である。

下部3ピッチは通常はクラックを登るが、正規ルートより左の露岩と木登り交じりの壁を弱点を選びながら登った。
意外に急傾斜だが木がはえていてプロテクションには困らない。
垂直のフェースにあたったところから右に回り込んでいくと、木も減ってきてカムの効くフェースとなる。
いったんルンゼ状になったところから、右手に顕著なピナクルを目指して登っていくと正規ルートの上に合流。

あとは楽しく左岩稜を登って終了。

西上州・毛無岩「ボレロ」開拓記(昔話)

「西上州に未踏の大岩壁あり。」
そんな情報が出回ったのは、今にして思えば当時クライミングジャーナル誌編集長だった吉川栄一氏の仕掛けだったように思う。
なんであれ、この仕掛けに乗っかって、多くの関与者とともに楽しい一大イベントの一角をなすことができたことには感謝せざるを得まい。

毛無岩の全貌。左がボレロ、右が烏帽子岩直上ルート

吉川氏は有能な編集者であり、かなりの奇人でもあった。記憶が曖昧だけど、たしか白山書房(クライミングジャーナルも発行)の「フォールナンバー」という沢登りと渓流釣り専門誌の名物編集長だったと思う。どういう経緯でクライミングジャーナルの編集長になったかは忘れた。
その奇人吉川氏が、クライミングや沢登りの世界の奇人変人を集めて「同人 栗と栗鼠」というふざけた名前の会を設立した。赤沼がその創立メンバーに選ばれたのは光栄と言うべきなんでしょうね、きっと。
思い出せるメンバーは、ウォータークライミングの黒田薫氏、アイスクライミングの広川健太郎氏、東京マタギの深瀬信夫氏、沢登りの先駆者高桑信一氏、名前思い出せない(たしか牧野氏?)けどやぶこぎのスペシャリストもいたな~。
同人 栗と栗鼠では激流を泳ぎ登るウォータークライミング大会を企画したり、あほなことばっかりやっていた。
吉川氏が「西上州に残された最後の未踏大岩壁」情報を広めたのは、その同人 栗と栗鼠がらみの遊び心で仕掛けたイベントだったのではないかと、今では想像しているわけですな。
この初登攀イベントには何人かの著名クライマーが関わったと聞きます。
結局、言い出しっぺの吉川氏を中心とした栗と栗鼠チームと、東京白稜会で甲斐駒ヶ岳登攀の第一人者、恩田善雄氏のチームにより1986年5月18日、同日に2本のルートが開拓されることで終わった。

毛無岩はここ

毛無岩へは下仁田からアプローチ。南牧川沿いの道を砥沢の先で線ヶ滝方面に星尾川沿いの道に入り、道場という集落の神社裏から登山道となります。神社裏の川におりると対岸に踏みあとがあるので、ここを辿ります。
この河原、今はだいぶ荒れてしまってますが、1985年当時はちょうどよいテントサイトになってまして、ここがベースとなっておりました。
勝手に名付けたここ「お毛ケ河原」に最初に集合したのは1985年11月23日。この時は総勢7名の宴会山行。登ったのはゲストで呼んだクラブ ポリニエの売り出し中若手クライマー、今は亡き小林一弘(その後ヒマラヤ・メルーで遭難死)と赤沼だけ。ボレロの下半分を開拓したところで時間切れ。翌日は雨で敗退してます。この時恩田チームもたしか一緒に宴会してました。
第二回は翌1986年4月5日。この時も河原にはわれわれ6名のほか、恩田チームもまた一緒。仲良く宴会してのスタート。恩田チームはどこか右手のほうを登っている様子ですが、どこ登ってるかはお互い内緒。
この時はやる気はあったものの、6名がだらだらロープにつながって登ったもので、同人 栗と栗鼠随一のまともなクライマー、安田秀巳氏の奮闘で1pルートを伸ばしただけで時間切れ。
そして最後の十数メートルは同年、11月に安田氏と赤沼で登り切り、ボレロの完成。恩田隊長チームの烏帽子岩直上ルートと同日の完成でした。

さて、毛無岩にはこの日開拓された「ボレロ」と「烏帽子直上ルート」、そして16年後になる2012年5月26日に赤沼がフリークライマーの小見麻紀子さんと登った「ルンゼ状スラブ」の3本のルートがあることになります。

「ボレロ」は、フリークライミングの洗礼を受けつつあったクライマーが、フリーにある程度こだわって作ったルートです。最終ピッチに一歩のA1(リードした赤沼の記憶ではA0)の一歩があるだけで、トラバースの多いフリールートとなっています。
「烏帽子岩直上ルート」は、実力派&頭脳派の恩田隊長チームが、美しい直上ラインをボルト連打の人工を苦にせず、着々と作ったルートと言えるかと思います。赤沼も後日登りましたが、ボルトがたくさんあるおかげで、フリーでも登れる好ルートとなっています。支点の多さ、ラインの美しさなどのせいかこちらのルートのほうが再登が多くされているようです。

ところで16年後に登った「ルンゼ状スラブ」には、残置ボルトが打たれており、だれか先登者がいたものと思われます。記録は見当たりません。
実は「ボレロ」の開拓時、吉川栄一氏がそちら方面に消えていた時間があって、あとで「隅っこのほうを登ったんだよ」と言ってたように思うんですよ。あれだけのルートを登りながら、記録もださないとなると、吉川氏の奇人ぶりが思い出されてしょうがないのですね。

というわけで、ルンゼ状スラブ(赤沼、小見命名)の初登攀者は吉川氏ではないか疑惑があるのですが、当人と最後にあったのは「知床で自分にとっての神であるブナの木に出会ったので、移住する」とか言ってたときではないかと思うのです。それ以来音信不通なんです。
もっともあえて探したわけではないので、案外帰ってきてそのへんで楽しく暮らしてるのかもしれませんが。誰か消息知ってたら教えてくださいね~

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