山岳巡礼倶楽部の大先輩簔口治信氏のお孫さんから、山関係の蔵書を寄贈したいとのお申し出をいただいた。
簔口氏は1966年(昭和41年)5月に、同じく山岳巡礼倶楽部の斉藤清太郎氏とともに富士山で遭難死されている。享年は簔口氏56歳、斉藤氏58歳。
1935年(昭和10年)に設立された山岳巡礼倶楽部で初めての遭難死事故だった。
追悼誌「折れたピッケル」によれば、お二人は1948年(昭和23年)10月に一緒に山岳巡礼倶楽部に入部され、遭難されたころは山岳界の大ベテランとして指導的立場にあったことがうかがわれる。
赤沼はこの事故の時はまだ5歳で、当然お二方にお会いしたことはない。
どんな時代にどんな山を登っていた人なのか。
「折れたピッケル」にある簔口氏の年譜から抜粋してみよう。
1910年(明治43年)生まれ?(享年から計算)
1925年(大正14年)早稲田実業1年生として富士登山
(はじめての山経験というところだろうか。)
1926年(大正15年)日本キャンピング・クラブ入会
(この間はハイキング、キャンプをされている。)
1929年(昭和4年)野歩路会入会
(白根山、斉藤清太郎氏と赤石岳)
1929年(昭和4年)あけび会設立
(斉藤清太郎氏ほかと)
1930年(昭和5年)好日山荘に出入りしているうち、高橋照(のちに山岳巡礼倶楽部)などと交友がはじまる。
1930年(昭和5年)日本登高会入会
(このあたりからクライミングやスキーを含む本格的な登山を開始している。谷川、剣、槍穂高などでの登攀やスキー合宿、前穂高岳4峰での初登攀との記述もある。同時に牧歌的な山歩き、山生活を愛した様子も感じられる。)
1948年(昭和23年)山岳巡礼倶楽部入部
(穂高や谷川岳に出かける一方で東北の山などを歩くことも好まれた様子。)
1966年(昭和41年)富士山にて遭難死亡
ちょうどアルピニズムが日本でも広まりはじめた時期に、日本登高会に入会して本格的登山を開始し、日本登山界のパイオニアたちと同じ時代を生き、同じ空気を吸ってきたということになるか。日本登高会では同じ若手メンバーとして上田哲農氏などもいて、血気盛んなアルピニズム談義を繰り広げていたらしい。近代登山技術の発展期でもあり、簔口氏も山岳会横断的に研さんに励み、指導的立場を築いていったようだ。また山岳連盟の創始期でもあり、山岳巡礼倶楽部の創始者高橋定昌氏などとともに東京府山岳団体連合会の設立にも貢献していた。
そして戦争に突入。
山には行けない状態が推測されるが、岳連として陸軍戸山学校の行軍力指導者訓練に参加したり、軍隊スキー演習などでは指導的立場にあったようだ。
そして終戦とともに山岳巡礼倶楽部に入り、倶楽部の立て直しに貢献していたということらしい。
さて簔口氏に関しての記述が長くなったが、すなわち蔵書はアルピニズム導入期からパイオニアワークの高揚期、そして戦後の登山ブーム(第一次?)の時代になされたものであるということだ。
簔口氏のお宅にお邪魔して書斎を拝見。
大変に多くの貴重な山関係書籍のほかに、チベットやヒマラヤに関する研究書、また民俗学に関する本もたくさんあった。
「学者さんだったのですか?」と聞くと、「新聞記者だった。」とのこと。

どれも興味のある本ばかりですべていただきたいくらいだったが、山の本に限定して頂戴してくることにした。合計段ボール4つ分。
まずは興味の強いものから読んでいき、また紹介していきたいと思う。
ある程度整理がついたら北杜市の赤沼別荘内にある山の遺品ライブラリに加えて、ご興味のある方の閲覧に供したいと考えております。
