1980年に山岳巡礼倶楽部のわたべ、赤沼で初登攀した菱型スラブを再登しようと下又白谷に入谷したが、雷雨にやられて意気喪失し菱型ルンゼを登った。
菱型スラブは菱型岩壁左方に広がるスラブ壁で、おおむね3本のスラブからなる。アプローチは菱型岩壁と同様、下又白谷本谷のF1とF2を超え、そこから左に向かう本谷と別れて菱型ルンゼに入ることとなる。菱型岩壁と菱型スラブはこの菱型ルンゼ右岸の岩壁ということになる。
下又白谷下部に入山する際、常に難関となるのがこのF1の突破だ。
問題は雪渓のつきかたにある。
ここを何度となく越えた感想を言えば「雪渓が多ければ楽勝、少なければ大変、中途半端は最悪」となる。
通常は7月に入ると雪渓が切れ、F1が顔をのぞかせる。
そうなると雪渓上を行くことができない。
F1の右壁(左岸)、左壁(右岸)ともに雪崩によく磨かれたスラブ壁。
菱型岩壁を登ったJECCチームの記録ではたしか右側の岩壁を何ピッチかのクライミングで越え、菱型ルンゼ内に懸垂で下降していたかと記憶する。(間違ってるかも)
F1前壁は明神東稜に伸びるスラブ壁を擁し、その右壁がF1の左壁へと連続してつながっている。
F1左壁にはちょうどF1落ち口へとつながるバンドがあり、このバンドにあがってしまえばF1の登攀は容易となる・・・・が、この付近の雪渓のつき具合次第なのは言うまでもない。
菱型スラブ初登攀時は、このバンドにあがるべくだいぶ手前(前壁より)から登り始めてしまったため、数ピッチの非常に危険な登攀となった。恥ずかしい話だが、節理のない脆壁をランナウトした挙句行き詰まり、顔をホールドに押し付けてバランスをとりながら頭上でボルトを打つという離れ業を演じて九死に一生を得るという思いをした。ここはF1洞穴ルートとして「岩と雪」誌には発表したが、だれも登らないだろう。
ここで左壁についてまとめると、F1落ち口に雪渓がのっていなければ左壁のバンドを拾って登るのがもっとも容易だが、雪渓の量により取付きの位置がかわるのでルートをあらかじめ設定することは不可能ということになる。
さて今回はF1落ち口にまだ不安定な雪のブロックがひっかかっており、左壁からの登攀は無理と判断。ひっかかったブロックをおそるおそる登ることも考えたがリスクが高すぎ。
いったんあきらめかけたものの、右壁に雪渓が近づいているあたりから岩場にうつれそうな場所を見つけた。ここから雪崩で磨かれた、節理の乏しいスラブ壁に、砂利がのった状態のおそろしいバンドを拾いつつ左上していくと、F1のすぐ上右側に屈曲した地点にあるF2の右壁の中間に出た。
本来のF2登攀ルートは右壁の水流近くだが、それよりも右よりにでたためそのままF2右壁を直上。あいかわらず砂利つきのスラブ壁でいやらしいが、なんとか高度をあげていくと、いきなりの雷雨。
クライミングに夢中になっていて雷雨の襲来に気が付かず、手遅れとなって思い切り濡れる。
構わずロープを伸ばすが傾斜がだんだん強くなってきて、このおそろしいランナウトピッチをまたしてもクライムダウンする。
ここでいったんパートナーを迎え、小さなバンドでやむなくツェルトをかぶって雷雨をしのぐが、びしょぬれで寒くて、立ったまま震える。
ようやく雨があがり、F2落ち口の上のほうにつながるバンドをトラバースし、ボルトを打ってここからF2上部(すでに菱型ルンゼ内)に懸垂下降した。この時点で敗退ルートは絶たれたことになる。
この菱型岩壁の左壁が目的の菱型スラブだが、このビバークで完全に戦意喪失し、このまま菱型ルンゼをつめることとする。
菱型ルンゼは菱型岩壁に沿って(菱型岩壁は菱型ルンゼの右岸となる)茶臼尾根に続く沢で、通常は快適な岩登りのできる枯れ沢だが、この時は雨が降ったせいで水量の多い沢となっている。
沢登りは想定していなかったため、水流のなかをクライミングシューズで登るはめとなった。かなり激しい水流のためカメラがやられ、ここからは写真なし。
菱型ルンゼはやがて茶臼尾根手前でスラブ壁となり、節理も少ないためランナウトピッチが続く。
茶臼尾根にでたらはいまつの藪漕ぎで奥又の池に出て登攀終了となった。
悠々
80年代はアルパインクライミング時代に入り、多くの若者がルート開拓に邁進していました。一部の先輩からは「重箱の隅をほじくるな」ともいわれました。
池学が健在の時でした。
gams
池さん懐かしいですね。ずいぶんとお世話になりました。
今は重箱の隅をほじくる人も減ったようで。