山岳巡礼倶楽部、赤沼の個人ブログ

カテゴリー: 山・クライミング

五郎山ダイレクト(番外編)

登って、飲んで、しゃべりちらして、楽しかった五郎山でのクライミング。
3人それぞれに写真を撮りまくったので、番外編の写真をご紹介。

赤沼単独での偵察行の夜はひとりきのこ鍋&3パック900円のお刺身で銀盤。
あとの二人は翌朝合流。
それぞれ家族やら、仕事やらの都合があるので、ひとり1台、3台の車がここに集まった。

取付きは日陰で冷たい風も。
さすがの宮田さんもこの姿。

なんのポーズでしょうか?
こちらは最初からベスト着てるし。

終了点。ロープで自分を固定しておいて、あとから登ってくる宮田さんを撮影する赤沼。
というわけで撮影動画
持ったホールドが砕ける。浮石をうしろに投げる。登り終わって喜ぶ。
3シーンをつなげてみました。
地蔵沢林道。このすぐ先から崩壊していて、ここで行き止まり。

宴会シーン後半。ここまででシャンパン1本、ワイン2本をあけ、日本酒に突入。すでに目が赤い。

佐久、川上村・「五郎山ダイレクト」ルート開拓

赤線は登路・・・このあたりだったと思う。

長野県佐久市川上村の奥にひっそりと佇む独立峰「五郎山」。標高2,132メートルの中級山岳だ。
川上村から目立って見える岩峰、男山や天狗山と違い、その姿は目立たない。マニアックなハイカーが時折訪れるだけの奥山とも言える。
しかしハイカーの記録にあった写真には素晴らしい岩壁が写っていた。これはクライミングの対象になるのではないか?
インターネットで調べた限りではクライミングの対象として書かれた記事はない。つまり「やばい壁があったら登ってやろう」というクライマーのエロい視線をまだ浴びたことのない処女壁である可能性が高いということ。
まずはクライマーの凌辱に耐えるレベルの岩壁か、偵察に行ってみることとした。

11月13日 偵察行(赤沼単独)

通い慣れた小川山廻り目平への岐路を通り過ぎ、梓山から梓川沿いの道にはいる。途中から林道地蔵沢線のダート道を進むと五郎山登山口に至るが、林道は崩壊が進んでおり途中で車を乗り捨てての歩きとなる。20-30分の歩きで登山口に着く。ここからは延々とカラマツや白樺の開けた樹間の急登を行くと30分ほどで最初の岩場の基部。

(注:
ここでマキヨセの頭としたのは間違いらしい。

実際はこの岩峰群全体がマキヨセであり、頭としたのはP2らしいと判明。)

登山道は岩場にあたったところから、マキヨセの頭と呼ばれる顕著な岩峰を含む、概ね3つほどの岩のピークからなる岩壁群(仮にマキヨセ岩壁群とする)の上を縦走していく。マキヨセの頭の裏側からもう一つの大きな岩峰である五郎山山頂岩壁との鞍部に降りたつ。登山道はここから山頂岩壁の基部をトラバースして、右から回り込むようにして山頂に至っている。(下はマキヨセ岩壁群の基部をトラバース、偵察して撮影した画像)

3つほどの岩峰を有するこの岩壁群はクライミングの対象として考えるとスケールがやや小さいかなという印象。ルートを拓く余地はかなりあるが、1ピッチからせいぜい2ピッチ程度に見える。マキヨセの頭の真下にある岩峰が大きめで、これを登ってマキヨセの頭となっている岩峰そのものにつなげればそれなりに充実するだろうし、そこからさらに五郎山南面の岩場に継続すれば楽しいかも。

五郎山方面から望むマキヨセの下部岩峰と、マキヨセの頭。

岩は比較的堅そうに見えるし、この界隈ではもっともすっきりした長めのライン。
ただこのあたり一帯の岩場はどこも岩茸と苔に覆われていて滑るので、掃除しながらのクライミングとなるんだろうな~

マキヨセの頭と五郎山の鞍部から、五郎山山頂への登山道の途上、トラバース部分から見下ろしたスラブ壁。支点がとれなさそうに見える。でもここから五郎山南面の岩壁につなげるのも面白そう。
それにしてもこの岩壁の真上をトラバースする狭い道が山頂に至る登山道とは!結構おそろしい。

そしてやはり最初に登るならこれ。五郎山南面の岩壁です。

五郎山南面岩壁、左のスカイラインは鞍部からさらに川上村側に切れ落ちており、この岩壁では最長のルートがとれそうに見える。ただ陽があたらないのでこの時期は寒いかも。


11月14日 登攀当日

メンバーは
宮田さん、長友さんと私の3名。

実はこの日集まったのは、赤沼がかつてクライミングジャーナル誌上で紹介した、下又白谷上部「ウエストンリッジ」を長友さんが登ったのが縁で、まだ会ったことのないその二人を、共通の友人宮田さんが引き合わせようという趣旨でして。
小川山東股沢の「野猿返し」という軽めのルートをわいわい登ってから、八ヶ岳の赤沼別宅にて宴会をするのが当初の目的でした。
ところが前日の偵察行の話をすると全員が「登ってしまおう!」と乗り気になり、急遽ルート開拓決行となった次第。

昨日たどった道を今度は3人で。
急登なだけにガチャ入りのザックの重さがつらい。

マキヨセ岩壁群の上を縦走する正規登山道からアプローチ。

完全無風だった昨日の偵察行に比べて、冷たい風が吹いてはいるが、今日は完璧な展望のパノラマが広がる。近くには秩父連峰、八ヶ岳、その手前に男山、天狗山の岩峰、西上州の山々、そして遠くに南アルプス、北アルプスの白い山々。この日は槍ヶ岳や穂高岳をずっと背後に背負ってのクライミングとなった。

マキヨセと五郎山の鞍部で登攀装備をつける。
ここは五郎山南壁の基部でもある。左稜線(南西リッジ)とも言える左側スカイラインは、ここから川上村側に切れ落ちていて、もっとも長いルートがとれそうなので、基部に沿って左方向に降りていく。

左稜線末端近く、傾斜が落ちてきたあたりを取付きとする。少し上がったあたりに倒木があり、これも支点として使いながら1ピッチ目とする。
ほんの10メートルほどで苔と泥の多い部分は終わり、白い岩肌が出る・・・・が、その岩肌はびっしりと岩茸や苔に覆われている。

岩肌が出てから一段あがった松の枝のうえを1ピッチ目終了点とする。小型のカム二つを支点。
ここから本格的なクライミングとなる。
リッジというよりはスカイライン少し右手のフェース状部分をさほど多くはない節理を追っての登攀となりそう。節理部分には木の枝などもあり鬱陶しいが、支点にもなってくれるのでありがたい。

2ピッチ目の登りだしは見た目より悪いフェース

2ピッチ目から最若手の長友さんにバトンタッチ。いえ・・・・決して赤沼がびびったからではなく、若手に育っていただくためですからねっ!
小さなピナクルに蝶々結び・・・じゃなくて、タイオフしたスリングを支点にしてこのフェースをクリアすると、トップの姿は見えなくなる。
このあとはフェースをほぼ直上。細いクラックで支点をとった外傾テラスで迎えてもらう。支点は小さめのカム3つ。

2ピッチ目終了点。

この時点ですでに全身岩茸だらけ。

さて次が最終ピッチ(3ピッチ目)となりそうだが、傾斜はますます強くなってくる。
真上のクラックは傾斜は強いものの節理があって、木も生えているので支点は取れそう。左のリッジ向こうに巻き込んでいけば傾斜が緩くなっている予感も。
しかし長友さんは美しいフィナーレを求めて右上のきれいなフェースを直上していった。強気の攻めの姿勢に一同感動の場面。

太陽に向かって強気に攻める長友さん。向こうに見えるのはマキヨセの頭。

終了点(ここから山頂へは岩稜をほんの少しで到着。
左手の樹間から5分もかからない。
空が真っ青です。

ルートについて

命名は近くの男山ダイレクト、天狗山ダイレクトにリスペクトを込めて、勝手ながら「五郎山ダイレクト」とした。
1P目(赤沼):3級25m 倒木を越えて藪中のクライミング
2P目(長友):5級25m ハング気味のフェースを右側フェースから巻き込んであがり、さらに節理を追ってフェースを直上
3P目(長友):5級30m 傾斜の強くなるフェースを少し右に巻き込みながらあがる。やはり節理を追って直上し終了点
岩茸に覆われて滑りやすいスタンスなどもあり、グレードは実際のムーブグレードよりも高めに感じているかもしれない。

ギアは3人でダブルロープ2本。カムは小さめ中心に2セット程度。ボルトキット、ハーケン類も持参したが使用しなかった。

登攀日:2020年11月14日
林道地蔵沢線の崩壊地点手前:10時
岩場取付き:11時30分
終了点14時
山頂14時30分
林道地蔵沢線:16時帰着

後日談:
この時のメンバー長友さんは、その翌週再度、五郎山に出かけ、五郎山南面岩壁の下部スラブを初登してきたとのこと。その際、マキヨセ岩壁群も含め偵察を行い、それぞれの情報をまとめてくれました。
下記リンクもご参照ください。
五郎山ダイレクトの記録
五郎山下部スラブの記録
五郎山の概念

天狗山ダイレクトルート登攀

天狗山(南面から)

2015年の再婚を境に、徐々にクライミングからは遠ざかり、妻や山巡じじい会とのハイキングや山宴会、そして何より妻の趣味であったテニスに傾倒していったわけですが。
たまに「クライミング行きましょうよ~」と声をかけてくれる若い友人、礼くんが、私とクライミングの唯一の絆のような感じで、記録を見たら礼くんたちと登った伊豆・海金剛のスーパーレイン(2018年1月)を最後にクライミングはなくなっておりました。
今回の礼くんにつきあってもらってのクライミング再開は、3年弱のブランク明けとなりました。

天狗山への登山道を行く

この天狗山というのは、クライミングの聖地、長野県の小川山廻り目平に行く途中で見える二つの知られた岩峰の一つ。もう一つの男山には簡単で快適な岩稜があり私も2度ほど登ってますが、天狗山のほうはまだ手を付けておらず興味をもってました。
小川山はフリークライミングやボルダリングで有名になり、多くの人が集まってきますが、この二つは人の少ない静かな岩登りができる岩峰といった位置づけでしょうか。ところが天狗山ダイレクトというこのルートは、最近ガイドさんが木を切ったり、ボルトを打ったりして登りやすいように整備してくれ、クライミング雑誌などで紹介されたため一気に有名になった様子。おかげで私のようなブランク明け体たらくクライマーにも、楽しく登れるルートとなったわけですが、人気がでたため多くのクライマーが集まってきたらしい。というわけで、順番待ちなんかをおそれて甲斐大泉の別荘を朝5時という早朝に出発いたしました。

ぬれぬれの初ピッチは礼くんリードでスタート

野辺山から川上村への通いなれた道を入り、深山遺跡あたりから天狗山右手の峠(馬越峠)への林道へ。
しかし天気予報は晴れ!のはずが、ここだけ雨。6時ではまだ暗いなかしょぼつく雨の中を天気予報に期待して入山。
1時間でルートの取付きに着いたあたりで、雨はやんだものの岩は苔と葉っぱと泥がついたうえ、まだ濡れててすべりやすい。
ここまで来てしまってはしょうがないので、まずは礼くんトップでロープつけてスタート。

トップをロープピッチごとに交代する「つるべ方式」という登り方をしていく。最初のピッチがぬるぬるで怖いので、奸智を働かせて怖いところは礼くんに登ってもらおうと画策したものの、実は私がトップで登る2ピッチ目のほうが傾斜が強くてこわかった~
写真は垂直部を越えてフォローしてきた礼くん。

さて余談。
約3年のクライミングブランクってどういうことか。
テニスは連日やっていたものの、やはりクライミングに必要な筋力なんかは落ちているようで、一番つらかったのは片足かけたスタンス(足がかり)から、片足だけの力で立ち上がる動作。以前はこんなことあたりまえにできると思っていたんだけど・・・・今回は片足で立ち上がるたびに全身に力を入れて「どっこいしょっ!」の掛け声が必要なわけですよ。
ルートの登攀を通して100回はどっこいしょを言ったような気がする。

クライミングはまあ順調に進みます。(どっこいしょさえ言えばまだまだ登れるよ~)ルート解説は検索すればいっぱいでてくるので、ここではクライミングシーンをご紹介~。

登攀をしていると、いつしか空も晴れ渡り、紅葉をバックに楽しいクライミングができました~

ここを登ったらルートは終了。すぐに天狗山山頂でした。

記:
登攀日:2020年10月24日
メンバー:石鍋礼、赤沼
馬越峠6時発~ルート取付き7時~終了点9時半~馬越峠11時着

山巡じじい会夏合宿「八ヶ岳冷山」

「あと15年で設立100周年」となる山岳巡礼倶楽部。
どんどん部員が高齢化する山巡の活動は年1回程度のハイキング&山宴会が恒例化しつつあるのみ。

「次の活動は八ヶ岳の知られざるピーク冷山付近にあるという、謎の黒曜石巨大露頭を探索に行こう!」
と言い出したのは、山巡にあってその緻密な調査力とこだわりの強さで一頭地を抜くわたべ氏。ちと面倒くさいタイプとも言うが、そのおかげで下又白谷のウエストンリッジというユニークなルートが発掘(開拓でも登攀でもなく発掘と呼ぶのが似合う山登りでした)されたのも事実。わたべ氏は「ついでにバードウォッチングがどうしたこうした・・・」とも言うがそちらは完全スル―。

要は楽しくハイキングでも探索でもやって、その話題を肴に楽しく飲めればいいやというのが本音の山巡じじい会にとっては、それはある意味最高の提案であった。奥様から「じじいは無理しないっ」とストップのかかった最高齢のSさんが不参加となり、今回はわたべ氏、二階氏と私の3人のみ。ちなみにヒマラヤカラコルム某ピーク初登頂時のサミッター二階氏は、「翌日は天狗山ダイレクトか瑞牆山本峰正面壁でクライミングな」とか言うので、納戸の奥からカビのはえたロープやらボルトキットやら引っ張りだして持って行ったのに、本人は「クライミングシューズ捨ててしまったのでズックで登れるかな?」とか言ってるし。山巡おとぼけじいさんずとでも呼び名変えようかな~

まずは冷山山頂に向かう。

早朝都内某所で集合。一路、麦草峠へとドライブ・・・・のはずが、近づきつつある台風の影響で通行止め。大回りして現地についたときは昼をまわっていた。
前夜あたりからようやく始まった黒曜石露頭探索の作戦会議で、まずは冷山の山頂に立ち、しかるのち、ターゲットに向かう踏みあとがあるはずだから車で探すという方針が決まったばかり。
麦草峠近くに車を停め、狭霧園地から渋の湯への踏みあとへ。冷山へは登山道がないが、GPSを頼りに途中から踏みあとをはずれて小一時間であっさり山頂に至る。

この辺一帯は北八ヶ岳らしい苔むした露岩と樺類の疎林に覆われた気持ちのよいところ。歩き始めが2000mを超えていることもあって標高2193mの冷山までも楽な行程。
山頂は見晴らしもなく、さあこれで酒の肴(話題)もできたし帰るか~というとき、樹に張られたテープに「至る 冷山黒曜石」の文字が・・・
もう昼も回っているし、今夜の宴会場になる山梨の私の別宅にドライブする時間などを考えるともう引き上げたいところ。「悪いものを見つけてしまったな」と思いつつも、同じピンクのテープをたどると、わたべ氏が黒曜石露頭があると予想していた方向にまっすぐに向かっている様子。

結局、現場興奮症の二階氏を先頭にどんどんと斜面を降りて行くこととなった。わたべ氏の予想が正しいと黒曜石までは標高200-300mは下りていく必要がある。地図を見るとそこまで下りて行った場合、うまく国道に戻ることはできず、同じ踏みあとを冷山山頂まで戻ることになる。

大声で二階氏を制止し会議の結果、黒曜石は今日は無理と判断。少し登り返し、途中からGPSを頼りに麦草峠方向に山腹をトラバースして最初の踏みあとに合流することとなる。全身泥まみれのやぶ漕ぎで踏みあとになんとか帰着し無事麦草峠に。
地図を持たない二階氏は、そのまま斜面をおりて黒曜石を見たら、近くの国道に出て待っていれば、赤沼が車をとりに行くだろう( ^ω^)・・・という不埒な考えをもっていたようで。

探検終了後の宴会

(旧)山岳巡礼倶楽部入部のしおり

山岳巡礼倶楽部、随一のロマンティストで文章家のわたべゆきお氏作成の、ふる~い「入部のしおり」がでてきました。
全12ページ。すべてわたべ氏の手書きです。作成されたのは40年くらい前のことと思われます。
このまま山岳巡礼倶楽部ごと埋もれさせるのはもったいないので書き起こしてみました。
とは言え、感動したからと言って山巡はもう残党が数名残っているのみですので、入部はできませんよ。まあわたべ氏や赤沼の顔くらいならいくらでも見せますけどね(笑)


GAMS

★ドイツ語で「カモシカ」の意。クラブのシンボルで部報名にもなっている★

● 女の子と同じくらいに山登りが好きなキミのために、ぼくらと山の友だちになろうなどとちょっと頭のおかしいキミのために、ウマいビールの飲み方と破れた恋の捨て場所を知りたいキミのために・・・・山巡の10のユニークさと100の弱点教えます。●

山岳巡礼倶楽部(さんじゅん)入部のしおり・のようなもの
―健康のため感動のしすぎに注意しましょう。


どこかに素晴らしい若者はいないか

本当のところを言うと、ぼくらはキミにこんなものは読んで欲しくはないんだ。百万語を費やしたところで、山巡を語り、山登りを語ることなど正確な意味ではできないのだから。何よりも先ず、山登りはアウトドアのスポーツであり、山巡はそれをするためのクラブなのだから。まず一度、できれば次の休日がいい—-ロープを結びあってみようじゃないか。たき火か天幕の中のローソクの明かりでも囲んで酒でも飲んでみようじゃないか。この世で一番美しいとか言う雪の上に、並んで黄色いシミでもつけてみようじゃないか・・・。だからキミが今すぐするべきことは、この紙切れを丸めてポイして、ぼくらにTELをくれたまえ。君は今、自由の王国または気違い不良純情青年集団の入口に立っているのだから。「勉強する近道はね、とにかくやっちまえ!ということさ。何度も失敗をすることだ。実際、めちゃめちゃにやってみるんだ。ぼくがむかし登っていたときが、実際そうだったのさ」(ウォレン・ハーディング)田中角栄ではないけれど、《決断と実行》!人生も青春も、どうも無限に長いものではなさそうだしね・・・・。

一日の登攀のあとには

とは言うものの、中には「一つの山岳会やクラブの選択が自分の死に場所を決定することになるかもしれない」などと、おっかない考え方をする連中がいるかもしれない。そこまでは考えなくとも、次の休日には痛快なぼくらの顔を眺めにやって来るにしても、多少の予備知識は欲しい。またはせっかく読み始めたのだから、もう少し暇つぶしをしたいというキミのために、ぼくらをいくらか語ってみようと思う。クサさが感じられれば、キミの読解力かこの文章がすぐれている、という訳だ。

はらわたにしみわたるウィスキー

山岳巡礼倶楽部—-短く山巡(さんじゅん)という—は1935年(昭和10年)東京の下町を中心にして呱々の声をあげた。これは大した意味はないけれど、奇しくも読売巨人軍の誕生日とおんなじなんだ。もう半世紀もたつわけで、キミがまだ空気だった頃だ。そのせいか、都岳連—東京都山岳連盟—現代表の高橋定昌が会長を務めたりした—の登録ナンバーは、No.1になっていたりする。古銭やウィスキーではないんで、古ければいいというものでもないけれど、いわゆる正統派古典的山岳会の片隅にひっかかっているということは言えると思う。昔の活動としては、西丹沢の開拓(ザンザ洞等の初登、西丹沢詳細地図の刊行)、南ア、篠沢等の初登、初の厳冬期富士集中登山を行い、戦後になってからは、積雪期上越国境初縦走に成功した。1962年(昭和37年)からは穂高・下又白谷の開拓を始め、これは現在も受けつがれている。その他、冬季穂高滝谷、屏風岩の登攀等、北アルプスや谷川、頚城山群で、美しい登攀を求めながら、クサいクライミングをやっているわけだ。
また、ぼくらの執筆した昭文社、山と高原シリーズの「谷川岳」の地図を書店で手にしたキミもいるかもしれない。
——ところで、こういった話しは、いわば昔話で、これからの山巡がこの程度のレベルなのか、以下か、以上なのか、といったことは、全くキミたちの意志と愛情とテクニックにかかってくるわけさ。

ヒマラヤを語り

では、山巡は国内の山登りしかしていないのかというと、これが違うんで、今と違ってなかなか外国には出られなかった1961年(昭和36年)から、いろいろな遠征隊に部員を送り出している。例えば、62年の第三次ジュガールヒマール隊では、隊長・高橋照他一名を派遣し、ビッグホワイトピークの登頂に成功した。それから65年三浦雄一郎のエベレスト・スキー隊、アイガー、66年アルプス長期登山、韓国雪岳山、台湾玉山、ヒンズークシュ等があり、71年にはマナスル西壁隊隊長として高橋照、登頂隊員田中基喜の活躍をみた。当時、田中は22歳で8千メートル峰登頂の最年少記録だった。78年には、40周年記念事業として、クラブの遠征隊を組織し、6名がカラコルム・トリニティーピーク(6,700m)に挑んだ。次いで、4名が南米はワスカラン(6,788m)に登頂し、帰途ヨセミテに立ち寄った。次のヨダレの出そうな海外登山計画も進行中で、キミだってその気があれば、参加したり、キミ自身が親分になっての海外登山をやっちまうためのノウハウが利用できる訳だぜ。過去の栄光などキミにとっては何の関係もないし、ぼくらだってまだまだ《これからの人》ではあるけれど、これからの人のキミの生意気な活躍を見たいと思うな。

恋人を語り

ぼくらがいつもカリカリした岩登りみたいのしかしないのかというと、そうじゃない。山巡は岩登りもするクラブではあるけれど、岩登りしかやらないクラブではない。でも、やっぱり雪のない季節はどうしても岩登り中心になることも事実だ。ロッククライミング(沢登りも含めて)は痛快で、熱くなれるからね。遠藤甲太という人が「クライミングというのは格闘技とひどく似ていながら他を傷つけぬところが好きだ」と言ったけれど、なるほどを思う。こういったハードなクライミングの他にも、ぼくらは《山》をまるごと楽しんでしまう方法をたくさん知っているけれど、企業秘密でとてもキミなんかには教えられないね。岩魚が手づかみで取れる所はアソコで、ワサビがある場所はアソコなんだよな。下又白谷にはサルとカモシカがいて、ぼくらとは仲がいいんだなんてこともキミには教えたくないね。ライチョウや世界で一番可愛い動物のオコジョのことだって、キミには教えませんね。意気揚々と引き上げてくるアタック隊の連中を雪の落とし穴で歓迎したり、テントで眠っている仲間のメガネのレンズに赤マジックでイタズラをしてそいつが目覚めた時、「火事だ!」とあわてたなんてこともキミには教えない。悪酔いの酒「飛騨娘」のなかなかにチャーミングな酔い心地とか、下山後襲撃する高山の酒場「由比」にはとても素敵なママがいるなんてことも教えるつもりはない。—–こういった一切を教えたりはしない。しないけれども、キミはそういったすべてをぼくらと一緒に生き、楽しんでしまうことはできる。それがキミとぼくらが友だちになり、仲間になるってことさ。

犬コロのように唄い合う

それでは、少しつらく悲しい話も聞いてくれ—–それは《山での死》についてだ。本当のところを言うと、これは大した問題ではない。なぜなら、ぼくらは誰でも死ぬんだし、別に山登りなどしなくても、交通事故にあったり、通り魔にあったり、急性肝炎で若死にする場合だってある。ただこれらの全く偶発的な死と違って、山での死のバヤイはその山登りが尖鋭的であればあるほど、計算しつくせない部分での死の予感、志向性を引き受けているという点にあるんだ。その引き受け、賭け的な要素を全く否定するならば、山などやめざるをえない。(もっとも山をやめたからといって、そいつが百才まで生きるとは限らない)昔の山巡の案内書にはこんなふうに書いてある。「山登りはアクシデントが起こり勝ちのスポーツです。どんなベテランであっても登山を続ける以上100%遭難というものを避けることはできません。つまり山の世界には、技術や経験を超えた不確定要素が存在するということです。ですから、問題はこの不確定要素の割合を極力小さくすべく技術や経験を積んで行くということなのです」また、遠藤甲太さんはこう言ってる。「・・・しかしアルピニストは必然的に、死を志向せずばなるまい。何故なら死に最も近くまで往ったときこそ、最も《山》に近づいた地点であろうから。そしてそのときは、生が最もはげしく美しく燃え輝くときでもあるのだ」

空にはうるさいほどの銀砂

友川かずきという歌手は「何が死だ!生でもないくせに」と歌ったけれど、ぼくらは生にこだわるからこそ、死が問題になるんで、決して死にたいから山登りをしているわけじゃない。ぼくらはニオうロマンティストではあっても、ニヒリストではないんだしね。そして新聞などにのる客観的一般的ソーナンなんかは日常の出来事として見過ごすことができても、ぼくら自身やキミ自身の死それに一緒にワルいことをして来た仲間の死は、やっぱり少しは問題なんだ。はっきり言ってぼくらにも何人か山に逝った仲間がいる。目の前をころがり落ちて行くのを見つめながら、何もできないでいるくやしさ、残念さ・・・・。クラーい話になって来たので、もうやめるけれど、ただ言えることは、三人寄れば山岳会式の矮小な会よりは、山巡のようなある程度の歴史や組織力を持ったクラブの方が、遭難時における対処の仕方や経済的負担の問題などにも若干のメリットがあるんじゃないかな。またこの件に関して山巡ではある種の保険への加入を義務付けているから、ぼくらと一緒に山登りをやって行こうともうすでに決めてしまったキミはその費用を用意する必要があるって訳さ。最後にこのクラーイコーナァは再び遠藤さんの美しい文章で終わることにしよう。
「山—-陶酔と失墜   私の登山とは生きることと同義である。歌うことである。誰もがおのおのの歌を、それぞれの言葉でうたうであろう。私も私の言葉で、私のしらべでうたいたい。ピアニストがピアノに向かうときの緊張とひとしく、心躍らせ、白いノートを前にペン持つ詩人とひとしく、私は今岩壁の下に立つ。なべて良いことは、自ら所有し得ないことにのみあるのだ。  死すべき宿命を負っていたクライマーは、それがいかに自己陶酔の極であろうとも、私を哀しくさせる。自ら選びとった彼等の短き生は、やはり私には美しすぎる。燃え尽きた彼等は何処へゆくのか。野天に寝て、夜空を仰ぎ、あのきらびやかにも冷たい星辰を見るときに、私の胸はやさしく愛しい追憶に充たされてふるえる。若くして逝ってしまった友たちよ。きみは今や充ち足りているのだろうか?やがて人々の記憶から遠ざかり、忘れ去られてゆく彼等・・・」

こんな豪奢なビバークをともにする

それでは、クラブに入って来たキミは実際どんなことをすることになるのかというと、まず入部金と部費を払ってもらう訳だけれど、山行費用と酒代とでまるっきりお金なんかないぼくらと同様なキミには、そこんとこ相談に乗ろうじゃないか。でもクラブで義務付けている山岳遭難共済の保険料は早急に納入すること。そしてキミは主に水よう日に行われている集会に出席し、山行の打ち合わせをし、その後にビールを飲み、週末には山へと出かけ、完登後のサイコーにうまいビールを再び飲む、というパターンを楽しむことになるんだ。次に、キミが参加することになる年間の標準的な山行メニューを紹介してみよう。4月—新人歓迎山行(沢やゲレンデでの基本的トレーニング)5月—春山合宿(雪上訓練や初歩的登攀またはピークハント。穂高周辺が多い)、岩登り訓練(谷川岳岩場解禁をひかえ、岩登りのトレーニング。近郊ゲレンデ)6月—山巡祭(家族、友人、OB等の親ぼくを図り、合わせて山の神に安全登山を願う)7月—集中登山(谷川岳等の沢または壁にルートを求める集中登山)8月—夏山合宿(岩壁登攀、縦走等で日常の山行よりはスケールの大きいもの。穂高周辺が多い)9月、10月—無雪期登攀の総仕上げ(穂高、谷川、北岳バットレス等での、沢または壁の登攀。この時期に、カモシカ山行、お月見山行を行うことがある)11月—冬山訓練山行(新雪の山での縦走、体力錬成)12月—富士山雪上訓練(氷雪技術トレーニング)1月—冬山合宿(ピークアタック、縦走、岩壁、バリエーションの登攀)2月—氷瀑登攀(アイスクライミング、近郊の凍結した沢)3月—スキー山行または縦走。ざっとこんなところで、以上はクラブ山行というヤツだけれど、この他にぼくらは個人山行としてシビアなルート開拓、ボウルダーリング、彼女とのハイキング、各種トレーニングをやっている訳で、キミだって参加できるものがあるかもしれない。

素晴らしい若者はいないか

最後に、ぼくらが文章で発表したものを紹介しておしまいにすることにしよう。おつかれさん!では、集会で、そして山で!


◎ MT. YARI NORTH RIDGE IN WINTER
– Give me another glass of wine

            宮本 浩

「生きていることさえ奇跡だ。」なんかの歌詞にあったっけ。
連日のクリスマス、忘年会、etc etc・・・・で酒の抜けきらない体でfunky dranker四人組は、あの不世出のclimber松涛明の命を奪った北鎌尾根に向かった。
山を愛する気持ちは変わらないけれど、格段の装備の進歩と年月が風雪のビバーク北鎌尾根を単なる冬の穂高のバリエーションに変えてしまった。松涛氏も夢の素材Gore-Texがあったら死なずにすんだろう。そして多くの岳人の涙を誘うこともなかっただろう・・・・。ましてシンサレートなど。「ケッ」・・・「ワシも欲しい」・・・。北鎌はサブかったです。格段の装備の進歩と反比例するかのごとく、我々から根性と体力とを奪い去り連日「クソッ重いな~」とだれに言うともなく文句を口々に言うことになる。
極端に凍傷恐怖症の小生はW靴でかえって靴ずれを作りアイゼンをけこむごとに「ウッ・・・」とうなる結果を招く。
軽量化軽量化と叫びつつも各自しっかりと酒を一びんかかえており、つまみもよりどりみどり。まったくどうしようもない八九三なパーティーである。小生もトロピカルドリンクBlue Hawaiiと南太平洋の海の底のように青いカクテルを持参し、雪をいれてチューチュー吸い出す有様で、目をおおうばかりの惨状である。松涛氏も草葉の陰でなげいている事でしょう。
昼間ヒーヒー言いながら登りながら、いったんテントに入りストーブに火がつき、こはく色の液体をのどに流し込むと、とたんに元気になり、シーバー片手に穂高中に恥をさらすとは、もう神への冒とくとしか言いようがありません。深く反省しています。
もう何どめかの槍の穂先で、ブロッケンを見る。虹色に輝く光の輪の中で踊る自分の姿を寒さなど忘れ、しばし見つめる。N氏の山巡得意のトラブルの後であるだけに、いっそう感激的であり、世俗の民のみにくい心をあざわらう神の姿のようであった。
下山後、高山でのトンカツはほんとにうまかった。ゴッツァンでした。

◎ 穂高岳下又白谷下部菱形スラブ初登攀(抄)
            わたべ ゆきお

・・・・時刻は八時になっていた。ライトを出しビバークの準備を始めるが、ビレーをしていた所は、二人がしゃがみこむにはあまりに狭すぎるので、細いリッジを五mほど下った所に場所を見つける。ブッシュとブッシュの間にもぐり込むようにして、坐り込み身体をブッシュにくくりつける。私たちがはい上がってきたのとは反対側にもルンゼ状のスラブ(第一スラブ)が走っており、そこまではすっぱりと切れている。リッジの上方はブッシュを混じえた露岩がかぶさっており、下方もブッシュのついた鋭いリッジで、すぐ空間に消えている。つまりは、四方がすべて急峻であって、平らな所はどこにもない。ここまできては、もう下降は考えられず、登り切るしかないのだが、どうなることやら・・・・。
曇天のせいかそう気温は低くないようだ。私は軽羽毛服を取り出し、下半身だけシュラフカバーに沈める。ツェルトはちょっと使える場所ではないし、雨でも降らない限りはいらないだろう。空腹感はそれほど覚えはないが、水のないのが何よりもつらい。
赤沼が「横尾の灯が見える」と言ったのは、横尾ではなく、徳沢だった。夜の森の中にポッカリと徳沢園や天幕たちの明かりが、みじめなビバークの私たちの目の下にあって、それはまるで幸福の定義そのものだ。清冽な水があふれ、ビールやウィスキーのボトルが並び、歌声がしみ出し、それに時折り少女たちの歓声が混じり、花火だって上がるかもしれない。だが、私たちは・・・・。
足先の方が下っているので、ともするとずり落ちて行く。
「上の方も悪いですよ・・・」赤沼が不安を隠さずにいう。さらに、冗談とも本気ともつかずに「これをいい機会に山なんかやめようかな・・・」ともいいだす。「山をやる理由なんかないんだ。別に山でなくても・・・・」
私はいうべき言葉を持たず、ひたすら少しでもマシな体位を求めてセッセと身体を動かす。いままでのいくつもの経験で、意志と、時間と、そして・・・・そういったものが、すべてを解決してくれるのだ。昭和残侠伝(唐獅子牡丹)の高倉健だって、修羅場をいくつもくぐり抜けて立派なヤクザ屋さんになっていったのだ。またフランスのおじさん(サルトル)は「経験には死のにおいがする」といったし、「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それこそが、賭ける者、戦う者の宿命と名づけられるべきなのだ」とは寺山修司の競馬エッセイによく引用されるウィリアム・サローヤンの言葉だ。要は、運のいい男には人生の終わりよりもルート・登攀の終わりの方が先にやってきて、運が悪ければ、平田や上村のように激しく短い生を終えて夜空輝くお星さまになれるのだ。
夜半、月明かりで目が覚める。半分にも満たない欠けた月だったが、それでも人っ子一人いないこの下又の岩の大伽藍を銀色に浮び上らせるには十分だ。それまで、私は夢の中なのか、それとも実際に身体がずりお落ちたのか、何度も墜落感を覚えてギクっとした。光速でもってブラックホールの中に、私の幼児期の混濁した意識の海の暗黒の中に、収束していくような、ひどくメタフィジカルな、パスカルの深淵のような、メチャクチャ冷汗感覚。
——朝は、もう今すぐくるべきなのだ。
私のビバーク。私の《山》。五彩のトキ。—–心配無用の日々だけがあって、鋭さを持たぬために、瞳孔はやや開きかげんで、抒情は水分を失い、鮮やかな色彩も、急激な気温の変化も、熱すぎる眼差しも危険すぎる街での曖昧なゼリー状のトキ——こいつらを束ねて葬り去るのが、私の《山》でのトキ—–だ。
ようやく、私たちにプレゼントされた夜明けは、重そうな鉛色をしたそれだった。蝶や大滝の稜線には、「ネズミの心はネズミ色、悲しい悲しいネズミ色」の雲たちがザブリとかむさっていた。だが、アリスの歌にもあるように「狂った果実には、青空は似合わない・・・・」(狂った果実)のであって、空が泣き出す前にと、早々に腰を上げることにする。五時だった。
出発前に、昨日の残りのパンとビスケットの一かけらを口に放り込んでみたが、全然唾液がわいてこず、とても喉を通るものではなかった。どんな極上のワインやコニャックよりも、今は《水》だ。私たちのすぐ背後のはずの奥又の池まで行けば、岩の間からしみ出す冷たく甘美な水が涼し気な音を立てているのだ。
赤沼、トップで目の前のブッシュの付いた露岩に取付く。やや、かぶさっており、悪い。彼はその三m程をかち取ると、リッジ上を直上するのではなく、左へとブッシュの中をトラバースして行った。二十m。私がこのブッシュでうるさく、腕力を酷使するピッチを終えてトップの所まで行くと、もう容易とのことだった。すぐ左側には、私たちが突破すべきだったルンゼの涸滝落口が見え、下からは全く予想もし得なかったルンゼ状スラブが真直ぐにのびている。難しそうには見えないが三~四ピッチはあろう。今となってはリッジに逃げてしまったことが悔まれる。
ブッシュを再びリッジ上へ登ると、易しい岩稜となった。左に第二スラブ、右に第一スラブを眺めての登攀である。第一スラブの方が二スラよりも急峻で、よく磨かれていて美しい。登攀自体も難しいだろう。第一スラブはピナクル状の小岩峰で二股になっており、右が本流で菱形岩壁の頭の裏側方面へとのびている。
階段状のリッジを登ると、畳二枚分程の完璧に平らなテラスに出た。ここでビバークをしていれば、二人で楽に横になって寝られたはずだ。ここから目の前の快適な岩稜を三十m程登り、このリッジがピナクル状になる手前で、右に出て、第一スラブの左股ともいうべき小さなルンゼのつめの中に入る。もうすでにここは草付で、さらに草付とブッシュの中を百mくらいも登ると、茶臼の頭へと続く頂稜に出て、広大な下又白谷の上部と前穂の東壁等が望まれた。私たちの待望の、本当の終了点—–そいつが今、私たちの足の下になったのだ。ルート選定には悔まれる点が残ったとはいえ——注:翌年(1981年)第二スラブルートの初登に成功した—–、未踏の、本谷F1の手前から数えれば、二十ピッチを越える私たちの、私たちだけにしか見えない一本のラインがくっきりと引かれたのだ。
一秒でも早く、甘やかな、ココロの内側にまでしみ込んでくるであろう《水》に到達するために、ザイルだけを巻くと、すぐにうるさく繁茂したハイ松の中を池を目指して歩き出した。茶臼の頭は指呼の間に望まれるのだが、踏跡の全くないハイ松こぎには辟易させられる。時折、ハイ松がジンの香りとして強く香る。バテバテになりながら、茶臼の頭には出ずに、トラバースの藪こぎをして、直接池から下又白谷への下降点になるコルに出た。いつもの柔和な面をたたえた奥又白池と人間たちのにおいのつまった天幕たちが眼に飛び込んでくる。私たちは水場に直行し、前穂の私たちに対する友情あるいは好意ともいうべき珠玉の水に口づける。We could drink a pond of water!だったのだ。「生きて帰れた!」などとジョークをいいあい、赤沼と完登の握手をかわす。朝の九時だった。
ビール壜百万本ほどの水を飲み終えると、私たちは雨の降りだした中畑新道を徳沢のウィスキーのもとへと幸福な気持ちで下って行った。

小三からの親子登山総集編

息子との登山のお話です。4歳年上のおねえちゃんとも山に出かけてはいたのですが、息子のほうが登山に興味を持って、喜んで一緒に行ってくれました。

おねえちゃんが小さい頃は栃木のドームハウスはまだなく、お出かけといえばテントか車中泊で、七輪で何かを焼いて食べたりするのを楽しみとしていました。

栃木の里山を歩きまわる。

息子が生まれてからは週末はほとんど栃木のドームハウスで過ごし、遊びは近くの山を歩きまわるのが中心となりました。小さい時から手をつないで山を走り回っていたため、歩きの基礎ができたのかもしれませんね。小学校低学年のときはもう、一人前にパパと同じスピードで山を歩きまわるようになってました。

小学3年生/北アルプスデビュー

本格登山デビューは北アルプスの常念岳にしました。一の沢から入山し、蝶ヶ岳を経由して横尾におります。パパも荷物を担いでの登山は久しぶりなのに、全装備担いでのテント泊はかなり無理がありました。息子はまだ大きな荷物は背負えないので、テント、食料、寝袋二つ・・・ぜんぶパパが担ぎます。息子は走るようにして登り元気いっぱい。それに引き換えパパは常念小屋の幕営場では高山症状で頭痛がでるし、下りでは荷物の重さに足の筋肉が耐え切れず前向きに転ぶという情けない姿をさらしてしまいました。

小学校4年生/奥穂高岳

少学4年生の夏山は奥穂高岳を目指します。
今回もテント泊ですが、荷物は涸沢までなのと、寝袋くらいは自分で担げるようになったので、パパは少し楽です。
涸沢のテント場にはかなり早く着いたので、ヒュッテでソフトを食べたり、テント場で石を積んで遊んだり。
岩場歩きには慣れているので楽勝で奥穂高山頂に立ちます。雪渓の下りでは念のためロープで確保。

小学校5年生/北穂高岳~大キレット

小学5年生の夏山は、北穂高岳からキレットを越えて槍ヶ岳というプラン。荷物を軽くするため今回は小屋泊まり。パパも荷物が軽くて楽です。初日は一気に北穂高岳まであがり北穂小屋に泊まります。
大キレットも走るようにして越えますが、途中から天気が悪くなってきて気温も下がってきました。息子もポンチョで頑張りますが、気温の寒さにやる気を失い、南岳から横尾に下山。旧友、横尾山荘の親父からは「子供連れでキレット越えとは鬼親め」というお言葉をいただきました。

動画を作ってみました。

チャレンジ穂高!ステップアップ登山

私にとってもっとも思い入れの強い山、穂高岳に登山初心者の妻とともに登ろう。
穂高に登るために必要な要素をひとつずつ積み上げていって、山頂に立つことだけを最終目標とする。
そんな楽しみ方もいいよねってことで企画しました。

まずは失敗編

これは数年前の話。
何度か東京近辺の低山歩きをしたあとは、岩場に慣れて、ある程度の高度も体験するという目的で乾徳山に登頂。
頂上付近に鎖場が多いことで有名なこの山には、テニス仲間のK夫妻と一緒に登りました。
K夫妻とも穂高まで行こうかという目論見あり。

穂高では一般ルートでも岩場や雪渓がある。万が一に備えてロープを持っていくことも検討。念のためロープワークの講習会を栃木県の岩場で行う。

さて穂高チャレンジ決行前の最終段階は八ヶ岳。ある程度の高度のある岩山を、高所に立地する小屋泊りで歩くことと、高山の楽しさを味わって、いやがおうでも穂高へのモチベーションを高めようというのが狙い。

ところがこれが大誤算。行者小屋から楽しく赤岳を越え、横岳の岩小屋泊りも楽しく過ごしたのだが、翌日がなんと横殴りの嵐。
なんとか硫黄まで歩き切ったもののK夫妻はこれで燃え尽きて穂高は脱落。我々はまだやる気でいたものの、予定日に台風がきてしまい没。

そして成功編

その後、妻とは冬の山も含めていくつかの軽めの登山を繰り返し、怖かったイメージのほとぼりも冷めた段階で穂高チャレンジをもう一度。
今回はステップアップのレベルも小刻みに、より繊細なプランニングにてスタート!

第一弾として選んだ山は西上州・毛無岩。山というより岩塔です。
かなりマニアックなところですが、小さな岩山ながら滑りやすくおっかない道が続きます。道の片側は大岩壁でかなり危険な雰囲気もあります。
ここを歩き切ることが、歩き自体の自信につながると考えたのですが、結果はちょっと過激すぎ。妻はだいぶ腰が引けていた様子。

まあそれでも、ここを歩き切ったことは自信になったと思います。はい。
ちなみにここの大岩壁は私が昔初登攀をしました。

さらに後年、もう一本ルートを追加。

第二弾と第三弾は八ヶ岳。
まだ雪の残る天狗岳と権現岳。どちらも日帰り往復。ある程度の高山に慣れるのが目的です。蓼科高原あたりでも軽い高山症状の出る妻のためには、繰り返し3000m近い山に登っておくことが大切と考えました。

さて第四弾。仕上げは北沢峠からの甲斐駒ヶ岳往復。
ほぼ3000mに届く高度に加えて、岩場も歩きます。
疲労はしたものの、これも歩ききって穂高への準備は万端です。

さあいよいよ穂高岳。本番です。
小屋泊まりでのゆっくり大名山行を目指します。
穂高岳のピークに立つことが目的なので、どこが一番楽に行けるか?
西穂高や岳沢ではなく、やはり穂高らしさを求めるなら涸沢経由でしょう。慣れない雪渓歩きを最小限にすることを考え、涸沢からの北穂高岳往復と決定。

疲れの出ないペースでゆ~っくり登るつもりなので、初日は横尾山荘までとする。明神ですでに大休止。

いきなりビール飲んでるのは誰でしょうか。

ところがのんびりしている間に雨が降り出します。まあ横尾までだし、雨具出して行きますか~♪

それにしても結構な勢いで降ってます。

だいぶ濡れぬれで横尾山荘にたどり着きました。横尾山荘には乾燥室があるので、濡れた衣類を全部干します。

若いころのクライミング友達だった横尾山荘社長とは久々の再会。いただいたワインとお風呂でリフレッシュ。

横尾山荘の社長&後継ぎ息子と記念撮影

さて涸沢に着いたのが10時ころ。この日は涸沢で小屋泊のつもりでしたが、時間もまだだいぶあるな~
涸沢に泊まるならこのままずっと暇つぶしして、翌日登って、また涸沢泊まって帰ることになります。高所にいる時間を最小化するなら、今日山頂にあがってしまい、体力に余裕がなければ北穂高小屋に泊まり、まだいけそうなら涸沢まで下りてくる。そうすれば翌日はただ上高地に帰るだけ。
そのほうがどうやら楽そうです。というわけで、このまま山頂をめざすこととします。

北穂高南稜を登る。

妻は途中からさすがに高山症状が出始めます。ゆっくり一歩ずつ進みなんとかかんとか山頂に到達!もうへろへろです。

山頂到達直後、滝谷方面からガスがあがってきて視界がなくなる。

ようやく涸沢に下山。
涸沢小屋に泊まります。
妻の体調もここまで下りてきたら少しずつ回復。

3日目。穂高の雄姿を目に焼き付けて上高地に向かう。
下山祝いは温泉旅館で~♪

息子と登山(大学生編)

小3から始めた息子との夏山合宿は、高校に入学して部活が忙しくなり終了となりました。
「久々にまた山でも行くか~」となったのは、大学に入って少し時間ができたせいかな? 息子18歳。

親子登山の記事書いたあとにこれ見ると成長したな~と思います。大学での専攻は農業、部活も農業、バイトも農業。農業サークルのユニフォームで来ました。

行く先は戸隠山としました。二人とも初めてです。ある程度岩場があったほうが楽しいねというのもこの山を選んだ理由です。

蟻の塔渡り

岩場の多い山ですが、鎖場では絶対鎖をつかまないし、有名な難所も遊びながら歩いてます。こういうあほで意地っぱりなとこ、誰に似たんだろ。もっともこんな動画を撮りながら後ろを歩く親父のほうがもっとあほかも。

楽しく登ってあっさり山頂に到着。

でも素晴らしかったのはこの後。稜線を飾る岩場と花のコントラストがなんともいえずいいんですね~。てかこういうものを良いと感じるほどおっさんになったということか。息子は食える植物と食えない植物を身体で学ぶと言いつつ、片っ端から口にいれてます。ん?それってなんの修行だ?

さて楽しい縦走のあとは沢沿いの下山路。技術的にはここが一番の核心だったかも。

クライミング・昔話

山登りを始めたのは、歩こう会や走ろう会を主宰していた祖父の影響でした。夏休みには祖父とともに毎朝の早朝登山をしていました。

高校生になると山登りは一気に本格化。高校山岳部ではすぐに物足りなくなり、社会人山岳会(山岳巡礼倶楽部)に入会。まずは日本の既成クライミングルートを片っ端から登り始めます。

谷川岳や穂高などのクラシックルートを一通り登りまくったあとは、1日に何本登れるかをかけてのスピードクライミングに夢中になっていきます。
そのうち、危険なルートで肉体や精神の限界に挑戦することよりも、辺境と言われるような地域を、未開拓な岩場を求めてさまよいはじめます。

まだ社会主義体制だった旧ユーゴスラヴィアの石灰岩峰群にほれ込み、地元のクライマーの家に居候しつつクライミング三昧の日々を過ごしました。
写真はユーゴスラヴィアの名峰トリグラフ。日本人としては初めてその北壁を登りました。

トリグラフの北壁登攀時に20メートル程度の滑落。奇跡的に助かったものの満身創痍でビバーク中。

自力下山したら村の人たちがみんなで迎えてくれた。病院に連れて行ってもらえると思ったら、行先はバー。みんなで北壁登攀を祝ってくれました。

ヒマラヤやアンデスの高峰にも行くようになりましたが、組織登山には馴染めず、少人数のアルパインスタイル登山が中心となります。

ここでも辺境好きの虫が顔を出すのか、関心はむしろネパールやボリビア、ペルーなどの辺地へと移っていきます。

Page 3 of 3

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén