ノルウェーでの話しです。(古い記事の転載)
【クライミング】
ノルウエイは山国です。北の方はもうほとんど北極という感じで鉱物だけの支配する世界ですが、私の住んでいたKristiansundでは森林、水も豊富で、ひざまでの長靴を履いてよく歩きまわりました。たまに湿原にはまって大変なことになりますけど。また、そこここに突出している岩壁をのぼるのもノルウエイでの楽しい一時でした。
ノルウエイに住み始めて間もない夏のこと。ノルウエイでは一般的な事務所がそうであるように、わが事務所も朝8時から午後3時までのワーキングタイムで、夜遅くまで明るいこの時期、遊び歩く時間はたっぷりありました。登るべき岩壁はたくさんあります。しかし岩登りにはロープのはしを持っていてくれる相棒が不可欠。地元クライマーをハントするべく、クライマーの好みそうな岩場をドライブで探すこと2-3時間。勘のはたらいた岩壁に近づいていくと、どんぴしゃ、何人かのクライマーがいます。
まだ、ノルウエイ語は話せませんが、同じ趣味の者同士に言葉はいりません。あっという間に日本クライマーとノルウエイクライマーの腕くらべとなりました。
結局、このとき知り合ったクライマー連中とはノルウエイにいる間ずっとつきあうこととなり、その内の何人かとは一緒にアンデスまで遠征をともにすることにもなりました。
彼らは本当にばかでした。これは中傷ではないです。私はこのばかさが大好きでした。例えば、
海に面した我が家で酒を飲むと必ずといっていいほど、誰かが海に飛び込みます。ちょっとやそっとの冷たさの海ではないですよ。するとほかのメンバーも当たり前のように続きます。これにつきあうと私なんぞはしばらく歯の根があわなくなりますが、なかの何人かは構わず向かいの島まで泳いでいってしまい、酔いがさめて帰れなくなります。よく死人がでなかったものです。もっとも実際にこういったことで死人がでることはたまにあるそうです。
また、一緒にふぶきの冬山を歩いたことがありますが、そのときも彼らは歩く間終始歌っておりました。山の歌じゃなくて、ボブマーレーとか、エルビスプレスリーとかそんなのをがなるのです。「あーーーい しょっとざー しぇーーりーーふーー!」とかいう調子で。私は最初彼らの体力についていくのがせいいっぱいで、とてもつきあえませんでしたが、疲れるなりにハイになっていき、終いには私もがなっているのでした。
【酒・宴会】
さて酒のはなし。ノルウエイでは酒類(ビールは除く)はスーパーなどで気楽に買うことができません。Kristiansundではたしか一軒だけ、指定を受けたのか国営なのかのお店でだけ買うことができました。しかも酒税が高いらしく値段もかなりのものです。日本から日本酒を送ってもらったときも日本酒の値段の倍近く税金を請求されました。ちなみにノルウエイでも月桂冠は買うことができます。
社会通念として酒を飲むこと自体あまり感心されないようです。私の見たところでは、実はノルウエイ人は一般的にどうも酒がかなり好きらしいと思われます。しかも強い。ですから、これを社会が認めてしまうと、ノルウエイ中アル中だらけになってしまう。そんなわけで、社会通念が防衛機能として働いているような気がします。
私の知る限り、日本のように毎日居酒屋で飲むとか、家で晩酌をするという習慣はないようです。しかし何かの口実があっていったん呑み出すと、かなり修羅場を見せてくれます。私の経験を列記しますと、
1.前に書いたように海に飛び込んだこと数回
2.ダンスホールで喧嘩が始まり、止めに入った私も巻き込まれました。それを見ていた妻(故)はあまりのおそろしさに腰が抜け、私の仕事の相棒にかつがれて店の外に逃げました。
3.仕事関係者Pは有名なサッカー選手でもありましたが、某マイナー航空会社の機内で酒を飲んだ挙句、飛行機が目的地に着くまでにスチュワーデスをくどいてHできるかという賭けを行い、本当に機内でやってしまいました。もちろんちゃんと合意の上です。私は賭けには無関係です。念のため。
4.クライマー関係者が我が家で飲んだ折、朝になってみたら頭から血を流して便器を抱いてた奴、あらかじめドライスーツ持参でどこかへ泳いでしまった奴、私にレスリングの寝技をかけた女性(うれしいどころではなかったです。本当に)、etc.etc….
さて、話題はどんどんそれますが、日本人から見れば半禁酒国のノルウエイからデンマークに渡るフェリーに乗ったときのこと。私は仕事の足として使ったのですが、これはどうやら免税酒呑みまくり用の船だったのですね。すなわち高い、買いにくい、社会の目があって呑みにくい、の3無から開放されて呑むためだけの目的でこのフェリーに乗る人がたくさんいたわけです。仕事の疲れを船上でぐっすり寝て癒そうという目論見はみごとにはずれ、寝不足でいらいらしていた私が税関職員と喧嘩をするというおまけまでついてしまいました。この喧嘩は結局裁判一歩手前までいきました。詳細は気が向いたらあとで書きます。
【食べ物】
ノルウエイは歴史上貧しい時期が長かったせいでしょうか。特に食文化が発達したという形跡は感じられません。
しかし、住めば都。おいしいものはあるものです。また日本人である私自身の食生活などについて、少し書いてみようと思います。
私の独断でもっともノルウエイ的な食べ物というと、バカラオとフィッシュアンドチップスがあります。どこがノルウエイ的かといいますと、どちらもその材料がノルウエイから他の国に輸出され、その材料によって作られた料理が逆輸入されて根付いた点にあるのです。
バカラオとはスペイン語で干しだらのことです。ノルウエイはもとより世界に冠たるたら漁業の地です。たらを塩漬けにして干したものを作っている光景を今でもよく見かけます。これがスペイン等に輸出されているのです。ノルウエイではこれを水戻しし、ポテトやたまねぎなどと一緒にトマトソースで煮込んで食べます。単純な料理ですが、これがなんとも言えない風味で、我が家でももてなし料理としてよく作っておりました。
妻は、これを近所のおばさんたちが大量につくり、レトルトパックにして町のスーパーに卸す手伝いをしておりました。これはよく売れていたようです。
フィッシュアンドチップスについてはイギリスのものが有名ですね。
ノルウエイのものも似たようなものですが、材料はやはり地場産のセイというたらに似た魚を使うことが多かったようです。
海の近くに行くと、この屋台がでており、大人の拳骨くらいのセイの切り身を揚げたものを、山盛りいっぱいのフライドポテトの上に三つ四つ乗っけて売っておりました。
これに、好みでジャブジャブと酢をかけ、塩、胡椒、さらにマヨネーズなんかをかけてプラスチックのフォークでほおばるのです。私たち夫婦もよくこれを買い、家まで待ちきれずその場で車の中で食べてしまいますが、そのあとしばらくこの残り香が車に漂っていたものです。これははっきり言ってかなり強烈な匂いです。
さて、ノルウエイでクリスマス料理なんかに使われるペルセについて書いてみましょう。
と、言うとはたしてどんな凝った料理かと思われるでしょうが、要するにソーセージです。やはりこれも保存食料として発展したのでしょうか。
ヨーロッパでいういわゆる腸詰と違って、日本でいうフランクフルトに近いものです。これがれっきとしたディナーとして、ポテトと一緒に供されたりします。
これが案外うまい。ノルウエイ人にとっては、これを食べるのはどういう時か、というルールのようなものがあるようにも感じられましたが、我が家では気持ちの良い夏の夕下がりなんぞに、焚き火であぶって食するのを常としておりました。
朝飯はもっぱらオープンサンドが主流でした。
パンはいろいろ種類がありますが、概してロシアの黒パンとヨーロッパのパンの中間といった印象のものが多かったように思います。
我が家のお気に入りは、スピラールロフという、らせん状というか、円筒形になったパンで、これを焼かずバターを塗り、そのまま食べるか、あるいは次のような具をのっけます。
ハム、チーズ、ジヤム等、まあ一般的なもの
ちょっと豪華にスモークサーモン
チューブ入りのたらこ
きゅうり、レタス、等野菜類
パテ
昼下がり、町のカフェに行って、ショーウインドウに並べてあるオープンサンドを選んでコーヒーを呑むのも結構楽しい時間でした。そういうことをしているのは、なぜか年寄りが多いようにも見えましたが。
チューブ入りたらこというのは、耳慣れないかもしれませんがノルウエイではかなり一般的なものです。どこのスーパーでも歯磨きチューブそっくりな容器で売られています。味は日本のたらこに似ています。ある大手水産会社の役員が我が家でこれを食べて大いに気に入り、輸入を試みましたが、どうやら日本ではその外観が受け入れられなかったと聞きます。
スモークサーモンの種類の豊富さ、味の良さについてはノルウエイが世界に誇っていいものではないでしょうか?残念ながら名前を忘れましたが、香辛料漬けにして地面に埋める、なんて製法のものまでありました。これはかなり通の味と言えましょう。
さて、コーヒーについて。ノルウエイではなぜかアメリカンコーヒーなるものが主流となっています。呑んで見ると何がアメリカンなの?という感じ。要はノルウエイコーヒーとでもしか言いようがないのですが。味気のないうすいコーヒーですね。
これをドリップでコーヒー豆が膨らむ間もなく、いっきに落とし、大量に作ったコーヒーをポットに入れておき一日中ひたすらがぶ呑みします。
この一気に落とす、というところが肝心で、我々はこれを「コーヒーのまずみをださないために一気に落とすのだ。」と言っておりました。
しかし、習慣というものは恐ろしいもので、あるとき気がつくと我々もノルウエイ人と一緒にこのコーヒーをがぶ飲みし、しかも心底うまいと思っているのでした。
さてさて、そんなこんなで、当初、「ノルウエイは良いとこだけど、食いもんがねー」とか言っていた我々が、ノルウエイを去る時は、日本に帰ったら買えないノルウエイ食材を山ほど持ちかえり、さらにノルウエイの友人に頼んで送ってもらったりしているのでした。
【ノルウェジアンフォレストキャット】
シンディー(シンデレラ)は生後8ヶ月で我が家にやってきました。
ノルウエイに住み始めて最初の長い冬を多忙のうちに乗りきって、ようやく太陽の、空にある時間が長くなってきたころでした。
結婚当時から猫を飼ってみたい、と言っていた妻がこの時期になってようやく猫を飼う心と時間の余裕を得たのでした。フラットのオーナーであるガウプセスさんに「猫を飼ってもいいか?」と聞くと、なぜそんなことを聞くのか?と逆に不思議がられました。日本では結婚してからアパート住まいをしていた我々にとって、このペットに関する寛容さはとても新鮮でした。その後シンディーを連れてずいぶんと旅行もしましたが、ホテルでも猫を理由に断られたことは一度もありませんでした。
シンディーは知り合いの紹介で我が家にやってきました。「猫ならなんでもよい」と言っていたのに、シンディーは血統書やら今までのコンテストでの優勝バッジなどと一緒にやってきました。
全身、一点のくもりもない真っ黒な純潔種のノルウエジアン フォレストキャット。それだけの猫を単なるペットとして飼うのはどうやらノルウエイ人にとっては考えられないことのようでした。もと飼い主によると、ノルウエジアン フォレストキャットはノルウエイ独自の猫で、もともと森に住んでおり、狩の能力に長けているとか。寒い風土に適応してその毛皮が二重になっているとも言っておりましたが、シンディーの毛皮をつまんでみても二重の感じはわかりませんでした。
我々にわかったのは、その姿形の美しさ。尻尾の先まで長毛に覆われた真っ黒いシンディーが、その尻尾を垂直にたてて歩む姿は、まさに淑女と呼びたくなるような様でした。
さて、シンディーが我が家にきたとたん、血統書やバッジは引き出しの奥に追いやられ、単なるまぬけな飼い猫あるいは、不肖の家族として扱われることとなりました。
あの、「ワッツ マイケル」さながら、シンディーも相当まぬけな猫でした。また神経質で反抗的なところもありました。
エピソードをいくつか書いてみたいと思います。
高いところに飛び上がるのに目測を誤って落ちる。別室で一匹で遊んでいるなと思っていたら、はでな音がして我々夫婦で顔を見合わせ吹き出す、なんてことがよくありました。
シンディーを無視して書き物を始めると、その紙の上に座り込む。
隠れ上手でまったく行方がわからなくとも、餌の皿を置く音と同時にどこからともなく飛び出してくる。
早朝から、腹が減ったと起こしにくるので、寝室のドアを閉めるようにしたら、ドアを引っかいてぼろぼろにされた。もちろんうるさくて寝てられなかった。
どこからかとかげを捕まえてきて自慢した。妻は叫ぶのみ。
友達の家に連れていったら、どこかに隠れてしまい、家中大捜索を行った。
気に入らないことがあると、便所の外でうんこをする。さらにお尻をじゅうたんにこすりつけてふく。
まあ言ってみればそのどれもが、普通の猫の特性ではありますが、我々にしてみればそのどれもがかわいくて、愛しくてしょうがないのでした。
要するにしつけをしなかった成果なのですが、我が家に来たときのままコンテスト猫として育てていたら、どうなっていたでしょうか。
シンディーは我々のノルウエイ滞在中ずっと、私が仕事で飛び回っている間の妻の話し相手であり、可愛い娘のような存在でもありました。
そして日本に帰国の際、それはかなり突発的な帰国で、シンディーをいったん友人に預け、落ち着いてから私が迎えにくるということをしたのですが、それが結局悪い結果となりました。
ノルウエイの友人宅を脱走したシンディーは妊娠して帰ってきました。そして日本にフライトの日はちょうど妊娠の末期にあたり、シンディーは日本の我が家に着くなり4匹の子猫を早産しました。3匹は死産。もう一匹も1日持ちませんでした。
さらに悪いことにノルウエイでか日本でか、猫エイズに感染しており、腹水をためては獣医のところに通うようになりました。
日本に帰って4ヶ月ほどたった暑い夏の日、我々がでかけている間にシンディーは一匹で静かに死んでいました。
私が夜遅く家に帰ると、部屋は真っ暗で、その中で妻はシンディーを抱きかかえておりました。何時間もそうしていたようです。
ノルウエイで冬のある夜、「オーロラが見える!」と我々が庭ではしゃいでいたとき、一緒にはしゃいでスウエーデン建築の背の高い急な屋根の上まであがってしまい、我々を慌てさせたシンディーの姿が今でも忘れられません。それは真っ暗な空に浮かぶオーロラが、シンディーの真っ黒な姿をただ影として、屋根の上に映し出しておりました。
【ノルウェーで家を買う】
購入した家(手直しする前)
一年で一番 日の長い夜、無人島で宴会をします。
ロムスダール谷にあるノルウエイ山岳会の山小屋
テレマークツアー
「ノルウエイの森」は、針葉樹の森です。それは生活圏にすぐ隣接あるいは重なっており、朝に夕に人々を受け入れる安らぎの場でもあります。
ノルウエイにおける家とは、その安らぎの森の止まり木のような存在に思えてなりません。足を踏み入れたとたんに我々を迎える針葉樹の木の香り。それはオスロの空港におりたった時点からついてまわりますが、家の中でそれは最高潮を迎えます。
私にとって、ノルウエイの日々は迫りくる日常であり、駆け引きに明け暮れ、焦り、苛立ち、孤独感にとらわれていた毎日であったはずなのですが、それでも思いでのすべてが、 好ましく透明なヴェールに覆われて感じられるのはこの木の香りのせいだったかもしれません。
シャイで孤独を愛する森の住人。彼らの人生で最良の時間とは、「森の小さなコテージで過ごす家族の時間」なのだとか。
前に書いた酒の話と矛盾するように聞こえるかもしれませんが、彼らは「家族の時間」をもっとも大切にしているようでした。仕事の後は居酒屋でいっぱい、という文化にどっぷりそまった私としてはこの点がもっとも物足りない点でした。若者を除いて、平日に友人同士あるいは仕事の同僚がが誘い合って飲みに行くということは非常にまれです。これはオスロのような都会ではいくらか雰囲気が違うとも聞いたことがありますが、地方都市ではノルウエイ元来の習慣が残っていたのでしょう。
さて、家を買う決心をしたのは、仕事のパートナーの熱心な勧めによるものでした。仕事も軌道に乗り、パートナーもいい思いをしていたので、ノルウエイに私をつなぎとめる目的もあったかもしれません。
しかし、私にとっても、何よりあのノルウエイの家を自分で持ってみたい、という気持ちが強かったのでした。さらに、所得の半分以上を税金として徴収されるノルウエイにおいての節税の意味あいもありました。
ちなみに、私の住んでいた当時の私自身の感触で言えば、ノルウエイでの一般的な所得水準は日本の1.5倍から2倍。しかし税引き後の手取りは日本よりはるかに少なく、その反面物価は日本の倍程度。すなわち経済的には日本より暮らしにくいということになります。そして、人口密度が日本の30分の1程度のノルウエイにおいて、フラット(アパート)の賃料は東京郊外程度の水準でした。これはかなり高いと言わざるを得ません。
その家はKristiansundの街と海峡をはさんで向かい側の、静かな海岸にありました。と言っても、街自体が4つの島からなるKristiansundではそれぞれの島が橋で結ばれていて、家から街の中心部まで車で10分もあれば着くことができたのでした。
海岸沿いの細長い1000㎡の(と言っても、隣接した家がないため、どこまでが敷地かわかりません。)、孤絶した土地の片隅に立つ中古のスウェーデン建築による家屋は、しばらく手入れもされない状態で、生い茂る草の中にありました。それでも一目で気に入ったのは、眼前に広がるいかにもノルウエイらしい透徹した風景と、何より敷地内に岩登りのできそうな小さな岩壁があったことによるのでしょう。
ノルウエイでは、自分の住む家を自作するくらいはあたりまえ。たとえ中古の家を買ったり、あるいはフラットを借りたにしても新しい住民が好きな壁紙を張ったり、外壁のペンキを塗りかえるのは当然のことでした。
早速草刈機を買ってきて、伸び放題の草を刈ると芝状のしゃれた庭が出現しました。刈った草をいれておく堆肥置き場もつくりました。
壁も相当傷んでいました。電気代の安いノルウエイ(何せ山国で水にも恵まれていますので。ノルウエイは電力の輸出国でもあります。)では、壁に設置された電気ストーブが夏場を除いて24時間つけっぱなしになっていますので、逆にこれをとめてしまうと壁が傷んだりするようです。
特に風雨にさらされて、傷みの激しい側の壁は大工に張り替えてもらいました。そして、最後の大仕事ペンキ塗りです。色は妻の希望でなんとピンクです。
ペンキ塗りは背の高いスウェーデン建築ではかなりの高所作業となります。はしごをあがったり降りたり、手間のかかる作業でもあります。結局ペンキ塗りは仕事の後毎日繰り返し、一夏を費やすこととなりました。
芝刈りにペンキ塗り、これがいやなばかりにノルウエイではアパート生活を好む人もいるとか。なんと贅沢なアパート暮らし。
しかし私にとってはこれが最高の一時となりました。
この家の居間は海岸に沿って細長くなっており、その海側が大きな窓となってます。窓からは目の前を行き交う漁船などがよく見えます。
にしんのやってくる時期になり、群れが回遊してくると、まずかもめの大群が現れ、そして海がざわついてきてにしんの来たことがわかります。
その群れが去ってしばらくすると、今度は小さなまき網船がやってきて右往左往し始めます。さてさて、こんなことでニシンはとれているのでしょうか。
海岸といってもノルウエイではほとんど岩だらけの磯となっており、しかも海は急激に深くなっています。ある日おもちゃの釣り道具一式を買ってきて、ためしにルアーを投げ入れてみたところ、あっという間に、たらやらあいなめが釣れました。しかし、あまりに簡単すぎて、どうやらこれがきっかけで釣りが趣味になるということはなかったようです。
まして、日ごろ魚の買いつけで何千何万というサンプルの検品をする毎日。これ以上魚に触りたいとも思わないのでした。
さてこの家と共に過ごした時間の中でもっとも印象に残っているのが、なんとごみ燃やしの時間でした。ちょっとした生ごみや私が日曜大工をした、木っ端などを燃やすため、庭の片隅に石で囲んだ焚き火スペースを作りました。
涼しい夏の夕方など、ここでごみを燃やしながら、その火でペルセ(ソーセージ)や芋なんぞを焼いて食べながら、目の前の海を眺めているとなんとも言えず、うっとりとした穏やかな気分になっていくのでした。
そんな時は近所の猫と遊んでいたはずのシンディーもどこからともなくやってきて、ペルセをねだるでもなくうっとりと海を見やっていたりするのでした。
【ノルウェーより帰国】
さて、少し嫌な話も書きます。
たとえば、一週間の旅行をする分にはノルウエイは大変平和で、人々は親切で、国土は美しく・・・良いところづくめのように見えます。
たしかにそれは、ノルウエイの一面の真実なのです。ほとんどの人はたしかに親切で、国土は美しく・・・なんです。
しかし、そこに腰をおろして住んでみると、どこでもそうであるように、嫌な部分というのは当然見えてきます。それが本当に一部の人間だけであったにしても、嫌なことというのは心のなかで増幅してくるものです。
こんなことがありました。
これはノルウエイ人パートナーから聞いた話です。その時私自身は出張中でした。
私のいる会社にある漁師が子供連れで訪ねて来ました。彼は大切な仕入先であると同時に友人でもありました。
商談の間、子供は事務所の外で遊んでいたのですが、さて帰ろうとすると、子供が見当たりません。さんざん探しまわった挙句、子供は惨殺死体として発見されたのでした。このことについてはこれ以上の詳細は語りたくありません。
この事件を通して警察から教えてもらったことがあります。人口1万5千人のKristiansundの街に警察でリストアップされた麻薬中毒者(ジャンキー)が500人以上いるという事実です。これはあくまでオフィシャルにリストアップされた、つまり何らかの前科のあるジャンキーの人数ですので、実際のジャンキーはおそらくこれよりはるかに多いということになります。
これには驚きました。なぜって、NRK(日本のNHKみたいなもの)ニュースを見ている限り殺人だの自殺だのといったニュースは皆無で、海外でノルウエイの子供たちが慈善事業を行ったとか、動物をテーマにした微笑ましい話題とかそんなものしかやっていないのです。恥ずかしいことに私はずいぶん長い間、ノルウエイは本当に平和な国なんだーと感心していたのです。事実、住んでいた街では車に鍵なんかかけない人が多いし、横断歩道の近くに人が通りかかるだけで、周辺の車はすべて一時停止して様子をみているような平和な雰囲気が漂っているのですから。
さて、ここからの話はノルウエイの友人等からの聞き書きで、自分で裏付けをとったものではないので、間違いがあれば、是非連絡をいただいて修正したいということをまずお断りしておきます。
まず最初にノルウエイでは悪いニュースは新聞、テレビ等が自粛しているということ。そしてその反面、これは知られているように高い失業率、そして自殺率についてもスウェーデンについで世界のトップレベルにあること。
そして、失業率が高いのに、政府の難民受け入れ政策により受け入れられた難民は車と、住宅と仕事を与えられて高い生活レベルをを考えると、難民に対する良くない感情を持つノルウエイ人が増えていることも当然想像されます。現にネオナチズムを気取った若者はオスロなどでも目につきますし、また私自身がおそらくは差別であろう、扱いを受けたことも少ないながらあります。ただ、私の受けた「差別」については、事実だけをとりあげれば、実に些細で、ちょっとした誤解によるものである可能性は否定できないのです。たとえばリゾート地のホテルで、空いているにも関らず、一番安く環境の悪い部屋を与えられ、少し高くてもいいから良い部屋にしてくれと言ったら鼻で笑われた、とか、税関で時間のかかる別ラインにまわされた、とかその程度のことです。しつこいようですが、このような嫌な思いをした経験はノルウエイでは実際非常にまれなことです。日ごろの生活で不快な思いをする率だけを言えば日本の方が数倍以上あると思います。
ただひとつどうしても耐えられなかったのは、このような不快な思いをするのが、山に行った帰りであるとか、要するに汚い格好をしているときに限っていることなのです。同じアジア人でも、はっきり日本人とわかるとそういうことはまったくないのです。たとえばネクタイをしめてアタッシュケースを持って歩いているかぎりまず不愉快なことはないと言ってよいでしょう。
さて、自殺率ですが、これについては当然失業率と正比例するということはよく言われますが、それとは別にもうひとつ理由があるように思えてなりません。
真っ暗な冬、これがどうもノルウエイ人の人格形成上大きなファクターとなっているのではないでしょうか。
ムンクにしてもヴィーゲランにしてもノルウエイのアーティストの作風のあの暗さ、狂気は、この冬の暗さが人格上大きく影響しているのだと、どうしても思えてしまうのです。
泥棒にあった話を書きます。
日本向け水産物輸出の仕事も軌道に乗ったころ、シーズン最後の大仕事として、ノルウエイの冷凍庫内に保管されていたかなりの数量の冷凍さばを、私自身が検品、買いつけし、品質保証つきで、日本の客先に販売を決めました。この客先というのが、私の元務めていた会社で、妻と知り合ったところでもありました。買いつけの担当者は元上司です。彼とは公私にわたるつきあいもあり、お互いもっとも信用のある間柄なのでした。この信用をベースにこの客先は船積み書類をFAXで送れば、たちどころに全額を送金決済してくれていたのです。
さて、あとは船積みの手配をして、書類を作って・・・という事務処理だけです。このシーズンも仕事が順調に行き、気を許していた私はそれらの処理をすべてノルウエイ人の相棒にまかせ、次の仕事にとりかかっておりました。さて、これが問題発生の端緒となりました。
目先の利益に目のくらんだノルウエイ人相棒が、冷凍庫内に冷凍さばを保管していた当の荷主と結託して、私の検品したものと別の、すなわち品質の落ちる別の在庫を船積みし、船積み書類を作り、そして決済を受けていたのでした。
さて、まだ品物を積んだ船が日本に到着する前に、あることからこの事実に気がついた私は、客先に謝罪して、今後の対策を話し合うため、急ぎ日本に飛ぶことにしました。妻も一緒です。もうノルウエイにいることはできない、と思いました。相棒に裏切られたのですから。私財をなげうってでも賠償はしなけらばならないでしょう。もうこの家に住むことはないだろうと考え、家具類もすべて梱包して居間にまとめました。飼っていた猫は山登り関係の友人に預けました。
試算すると客先の損失は数千万円に及ぶことが予想されました。しかし、結果として元上司は「相場で数億の損をだすことだってあるのだから・・」と笑いとばしてくれたのです。
件のノルウエイ人相棒は口の達者な男でした。まだ若く一本気だった私は、相棒の口先八町の商売上手ぶりをあまりよくは思っておりませんでした。
この口の達者な男は、ノルウエイから電話をしてきて、「あれは荷主がすべてやった、自分もだまされた・・・」と言います。「荷主を訴えた」とも言います。
私はこの言をまったく信じていませんが、いまさら犯人探しをする気にもなれません。もとより、自分の仕事を人にまかせていた自分が悪いのだという引け目を感じていることもあって、彼の言葉を一応信じることにしました。
結局、ノルウエイに残るべきか、日本に帰るのか、帰ったとしてその後どうやって生活していくのか・・・気持ちの定まらない宙ぶらりんな状態でいるおり、事務所にいた別のノルウエイ人から電話がかかってきました。ノルウエイの我が家に泥棒が入ったというのです。
驚きませんでした。家に泥棒が入る、なんてことは想像だにしていなかったはずなのに、予期していたことが起こったというような感慨しかなかったのです。むしろ、これで宙ぶらりんの状態から脱出できるというような期待が、なぜかわいてきたような気もします。
もう家も、家具も、すべてどうでもいいような気がしていました。ただ、猫のシンディーを残してはおけない、連れてこなければ・・・という強迫観念にあおられて、ノルウエイに飛びました。
家は路地の一番奥まった、人気のないところにあります。ここにトラックを横付けで一切合財荒らして行ったようです。
盗られたものは、ほとんど手ぶらでノルウエイにやってきた我々夫婦にとって、こちらに来てからの稼ぎで買ったものばかりです。家も含めてほとんどが、失ったところでノルウエイに来た時の状態に戻るだけの話。自分でも不思議なほどそれらに対する執着心はありませんでした。
ただ、唯一、私にとって大切なものがなくなっていました。ギターです。泥棒にとってはおそらくおもしろいおもちゃに過ぎなかったでしょう。しかし、この響板のぶあつい手作りギターは10年来弾きこんで、ようやく音に丸みがでてきたところだったのです。
ノルウエイ人相棒とこの話をすると、「犯人は実は予想がついている。おそらく近くにアジトを持つ不良グループだろう。警察も気がついているが、まだ手がだせないでいる。しかし、私は犯人グループに密やかなるコネがあって、交渉ができ、金で買い戻すことができるだろう。ギターについては責任もって取り返すから、失望せずずっとノルウエイにいて欲しい」と言いました。
この言葉を聞いている間に、ノルウエイに抱いてきた希望、美しい森や山、作り上げようとしていた仕事、ノルウエイ人クライマー達との交流、透徹とした空気、それらすべてに対する執着が音をたてて消えて行くのが感じられました。子供のようにしてきた、猫のシンディーを除いて。ギターまでもどうでもよくなってしまったのです。
猫のシンディーだけを連れて日本に帰ることにしました。
前に書いたように、ちょうど妊娠していたシンディーを飛行機に乗せなくてはならないことへの、後ろめたさもあったのでしょうか、シンディーのためにもビジネスクラスのシートを一席奮発し、ノルウエイに別れをつげました。それでもその日本の飛行機会社のカウンターでは、「猫を檻からだすな」「飛行中餌をやるな」「飛行中水も飲ますな」etc.言われましたが、シートに着くやいなや、スチュワーデスが集まってきて、どんどん檻から出して、牛乳やら餌を持ってくる様を見て、私は少しだけ気分を良くしておりました。